第2章 神の裁き

第24話 裁きの柱、立つ

それは、静かな午後だった。

数日ぶりの休日。特に予定もなかった俺は、昼過ぎに起きて軽くシャワーを浴び、レンジで温めた冷凍チャーハンを皿に移し、テレビを点けてソファに倒れ込んだ。ニュースは相変わらず政権批判と識者の言い争い、民間解放の是非に関する議論であふれていた。

だが、画面が突然切り替わる。特有のチャイム音とともに、画面上部に赤い帯が走る。


『ニュース速報』


アナウンサーの緊迫した声が響いた。

「速報です。数日前より一部地域で確認されていた“ダンジョンの黄色発光現象”ですが、現在、世界各地でこれが“赤色”に変化する事例が急増しています。再度、繰り返します。現在、各国で未探索のダンジョンにて、入り口が赤く輝いていることが確認されております」


赤く、という言葉が頭に引っかかる。


「日本国内においても、警察管轄のダンジョンを中心に赤色への変化が確認されています。一方、自衛隊が継続的に探索を行っているダンジョンは、引き続き白色のままです」


画面には日本地図が表示され、赤い点が各地に点滅していた。ニュースキャスターが注意喚起を繰り返す。


「ダンジョンの赤色化は、これまでにない重大な兆候と見られています。専門家は“内部活動の活性化”や“外部への影響の予兆”と分析しており、政府は国民に対し、いかなる理由があっても赤く光るダンジョンには近づかないよう強く呼びかけています」


「……これ、やばいんじゃねぇの……」


思わず声に出た。先日の若者の話が脳裏をよぎる。あの廃屋にあるダンジョンも、もしかして今――

そして、次の瞬間。

俺の頭の中に、直接“声”が響いた。


(――我は、再び語る)


どこからともなく、しかし確かに、耳を使わずに言葉が届く。


(汝らは試練を与えられた。進む道を授け、力を与えた。それでもなお、恐れ、拒み、立ち止まった)


身体が硬直する。手にしていたリモコンが、指から滑り落ちて床に転がった。


(白は猶予、黄は警告。そして赤は、怒りと裁きの色)


テレビはまだついている。だが映像も音も、もう頭には入ってこない。


(汝らのうち、多くは耳を塞ぎ、目を逸らし、意志を放棄した。よいか、それは“選ばなかった”のではない。“拒んだ”のだ)


怒りを帯びた声は、世界中すべての人間の意識の中に届いているのだと、本能的に理解した。


(今ここに、裁きを下す。すべての赤き門より、我が怒りを解き放つ)


その言葉と同時に、部屋の窓がわずかに揺れた。地鳴りのような、しかし外では何の音もしていないような異様な振動が、空気を伝って肌に伝わってきた。

スタンピード――その言葉が、喉の奥で凍りついた。

俺は立ち上がって、カーテンをめくった。

廃屋の方角――バイト先のすぐ近くにある、あの空き家のある方角から、まるで天を突き抜けるような赤い柱が立ち昇っていた。一本の赤黒い閃光が、夜空を裂くように真っ直ぐ上空へと伸びている。

その周囲、遠く離れた空の彼方にも、いくつも同じような赤い柱が立っているのが見えた。どれも黙示録の一節のように、無言でこの世界の終わりを告げているかのようだった。


窓の外にそびえる赤い柱を見つめたまま、足がすくんで動けなかった。

何が起きているのかは、もう十分に理解している。だが――それでも、どう動くべきかは、まるで霧の中だった。


逃げるか。

避難所へ行くか。

俺の住んでいる地域では、公民館が一次避難指定になっているはずだ。

スマホを開けば、すでに市からの緊急通知も届いている。


「……でも、それでいいのか……?」


神は言った。


「拒んだ」


と。



俺もそのうちの一人だというのか。

何もしてこなかった。

神の宣告も、ネットでの議論も、ただ傍観するだけでやり過ごしてきた。

高校を出たあと、大学受験に失敗して、流れでそのままフリーターになった。

バイトを転々としながら、「そのうち何とかなる」と言い訳していた。

実家では気まずい空気ばかりで、親の視線に耐えきれず逃げ出すように一人暮らしを始めた。

ここに来てからも、ずっと現実から目を背けてばかりだった。

ポーションを作って、小金を稼いで、眠って、また繰り返すだけの日々。

そうやって、知らぬ間に何も選ばずにいた。

だが――今この状況で、また逃げるだけでいいのか?


赤い光が、俺のバイト先の近所にある、あの廃屋から立ち上っていることに気づいた瞬間、背筋に冷たいものが走った。


あそこだ。


警察の担当の、誰も中に入っていないダンジョン。

あれが――“怒り”の対象になった。


「……向かわなきゃいけない……のか……?」


でも、俺は商人だ。戦う手段なんて、何もない。ただのコンビニバイトで、ジョブが付いたとはいえ、スキルはポーション製造しかない。

無理だ。そんなの無理に決まってる。



だけど――


「誰かが、行かなきゃいけないんじゃないのか……?」


自問するように呟いたあと、俺は立ち上がった。部屋の中を見渡す。武器になりそうなものは、何一つない。ただのアパート暮らしだ。

台所に行き、包丁を一本だけ取った。キッチンバサミでも代用できるかと迷ったが、気休めにもならない。包丁の方が、まだ“構えられる”。

それを手に、玄関のドアを開ける。

外に出た瞬間、声をかけられた。


「今井君?」


アパートの階段下にいたのは、山田さんだった。

向かいの一軒家に住んでいる主婦の人で、いつも朝にゴミ出しで会うと「いってらっしゃい」と声をかけてくれる。

今日は、大きなリュックを背負っていた。災害用の非常持ち出し袋らしい。

肩で息をしながら、慌ただしく子供の手を引いていた。


「うち、今から家族で避難所行くのよ。あんた……それ……」


彼女の視線が、俺の右手にある包丁に向く。


「早く避難所に向かってください」


俺は短く言った。

驚いた顔のまま、山田さんが問い返す。


「今井君はどうするの?」


「……向かわないといけないんです」


俺は口元を引き結びながら、赤い光を指さした。

廃屋の方角。神の怒りが、天を貫くように燃え上がっている場所を。



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