第2話

 高校の時から片思いしていた人がいた。


 とても大事な人だ。地方から東京に越してきた彼は、うまくなじめていないようだった。俺は初めて会ったときから、彼が好きだった。下心半分で近づいて、一番の友人の位置を手に入れた。


 だが、俺の欲求はそれだけでは止まらず、結局その座を壊したと言っていい。彼の名前は京野祐也と言う。優しい彼、祐也は今でも友人でいてくれているけれど、もう昔のような親しみは失われていた。親友で満足のできなかった俺の、取り返せないあやまち。

 その彼は金沢に住んでいて、俺は遠くから彼を思うだけだった。


※※※


 俺は早乙女和樹。今、その病の研究をしている。片思いをすることによって細胞が死んでいく、そのメカニズムの解明が主テーマだが、未だにその足掛かりさえ見えていない。

 

 なかなか研究が進まず頭を悩ませていたある日、金沢に住む祐也からメールが届いた。


「相談がある。近々、都合を作ってもらえないだろうか」


 と、ほぼそれだけと言っていい内容だった。さっそく祐也に返信をして、いつでもいいというので、二日後の金曜夜に約束をした。


 祐也に会えるのは嬉しかった。前に会ったのは一年と少し前、皆で会ったのが最後だろう。二人きりで会うのは、ずっと避けていたから。メールでさえ久しぶりだ。その短く硬い文章が、俺たちの距離を示しているようだった。


 日時と場所を決めて、最後に祐也から「恋人はいるか?」と質問があった。

 その質問の意味は何だろう。俺は「いる」とだけ書いて、送信ボタンを押した。

 

 指定されたのは、ホテルの最上階のバーラウンジだった。祐也が今夜泊まっているホテルで、今日は俺に会うために金沢から上京したらしい。


 青みがかったライトで照らされるバーは海の中のような雰囲気があって、人気だとは知っていた。まだ夜の早い時間だが、夜景の見える席はカップルでいっぱいだ。


 案内されたのは奥の席で、祐也は先に来て俺を待っていた。視界に入ったとき、その目を引く容姿は相変わらずだったが、気のせいかどこか線が細くなったように見えた。


 声をかけると、「久しぶりだな」と俺を見て、その瞳の強さが変わらないことに安堵する。


 祐也はギムレットを、カクテルがそれほど得意ではない俺はジントニックを頼んだ。メニューを手にした祐也の手は手袋をしていた。黒い革の手袋は、色の薄い裕也にくっきりと浮かび上がって見えた。


 そういえば、もともと祐也は肌を露出しない方だが、真夏というのに長袖で、襟元もきっちりと留めている。まるで、肌を隠すように。祐也の服装にざらっとした予期を感じる間もなく、カクテルと少量のチーズ、ナッツが提供される。


 再会に乾杯をして、まずは互いの近況でもと口を開こうとするより先に、祐也が言った。


「思い出話と行きたいところだけど、単刀直入に言おう。僕は例の病気になった。和樹はこの病気を研究していたな。それで、僕の身体を研究に使って欲しい」


 ああ、やはりと思った。恋人の有無を聞かれた時からそんな気がしていた。


「和樹は恋人はいるんだったな?」


「ああ、いるよ」


 祐也にはそれだけを答えた。同じラボの、二歳年上の女性と関係を続けている。肉体関係はあるものの、恋人と言ってよいのかわからない。どちらかというと相性がいいだけの惰性といった方が近い。お互いに。別に話してもいいのだが、そんなことまでは言いたくなかった。


「そうか、それならよかった。感染させてしまうかもしれないからな」


 祐也は心底ほっとした、そういう顔をして微笑んだ。


「発症するメカニズムは何もわかってないけどな。感染性も解明されていない」


「少なくとも、思いの通じた相手の人間は発症しない」


「お前だって告白すればいいじゃないか。祐也ならきっと……」


「そのつもりはない」


 と、祐也は乾いた笑いを見せた。それ以上そのことは話すなと言うように

「しかしこの病気は不思議だな」


 そして「見てくれるか」と言うと、裕也は左手の手袋をおもむろに外した。

 現れた左手は、普通の左手のように見えたが、よく見ると小指が不自然に細くなっていた。薬指も先の方が少しだけ欠けて見える。


 その部分だけ肉体が死んだのだろう。


 片恋禁止病、それは抱えた想いの苦しさに身を引き裂かれるように、細胞が自ら死んでいくのだ。身体がそのプログラムを選んだかのようなその現象は、その性質は違えど、まるでアポトーシスだった。きっと今も、祐也は少しずつ死んでいるのだ。


「差し支えなければ、僕の身体を全部見てくれるか」


 少し控えめに祐也は言った。いつも堂々としてた祐也らしくなかった。線が細く見えるのもきっと気のせいではない。おそらくこの病のせいで。


「わかった」


 患者の身体は何度も見たことがある。どうなっているかは想像がついていた。だが、祐也のそれは見届けなければならないと思った。


「では、悪いが僕の部屋に行こう」


 俺の返事をどう受け取ったのかわからないが、祐也は「悪いが」と言った。俺はそれ以上何も言わず席を立つ。振り返ると、ギムレットはほとんど減っていなかった。

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