53.悲しいことの連鎖


 カルは激しい揺れのために眠りから引っ張り出された。はじめは地震かと思ったが、どうやらそれは地震の揺れとは違うようだった。

 まだ完全には覚醒しない意識に無理やり発破をかけ、ベッドの上で上体を起こす。

 揺れはまだ続いている。それは少しずつ大きくなってくる。さすがにカルは間もなく完全に覚醒した。あわててベッドから転がり出ると、ローブをはおり、窓から外の様子をうかがった。そして、その光景を見た。

 一階に降り真面目に玄関から出るか、ここから飛ぶか一瞬迷ったが、カルは飛ぶ方を選んだ。少しでも早く母に加勢しなければならない。

 カルは窓を開け放ち、飛んだ。

「AIちゃん、安全に着地を」

〈かしこまりました〉

 カルは母のそばに静かに着地すると、眼前の光景に言葉を失った。嫌でも目に入る、でかいマンイーターの手の中の――


「見るんじゃないよ!」


 鬼気迫る表情でカルを怒鳴る母はしかし、次の瞬間には表情を改めていた。そして、静かに言った。

「ごめんよ。そうだったねえ。カルはもう、この現実を知り、その身に引き受けていかなくちゃならない歳になったんだったね。ごめんよ、子ども扱いして……」

 視線を正面のドでかいマンイーターに戻すや、母はもう一度その目に怒気を込めた。

「そのでかい口からよだれみたいに垂れてるの、まさか人の血じゃないだろうね……くそったれめ! もうすでに、何人か食った後ってわけかい!」

 マンイーターの右手には大人の男性、左手には小さな女の子……ふたりともまだ息があった。ふたりとマンイーターの間には、ふたりの身体がマンイーターの手のひらにすっぽり収まってしまうくらい、大きさの差がある。どんな怪力でもこじ開けることができなそうな頑丈そうな太い指が、ふたりの身体を握りしめて放さない。

 そとのき、女の子が身をよじってカルたちのいる方を向き、小さな手を伸ばした。

「たす……け、て」

 今にも消え入りそうな声で女の子がそう言うと、カルの母は少しかがんで、バネのように飛び上がった。

 一瞬で特大マンイーターの頭上をとる。

 空中でステッキを構え、横に薙ぎ払うように振る。

「食らいな――深愛風刃ふうじん!」

 かけ声に合わせて紅緋色の巨大な刃物が現れ、特大マンイーターの両の手首を音もなく切断した。まるで豆腐でも切るように。カルは呆気にとられてその様子を眺めていた。

 すかさず母は次の構えをとる。

「アモリス・ハンモック!」

 続くかけ声では、同じく紅緋色の柔らかな布が、マンイーターの大きな手とともに落下するふたりを待ち構え、包みこみ、優しく地面へいざなった。

「カル! その人たち、頼んだよ!」

 母の鮮やかな魔法に見とれていたカルは意識を現実に引き戻された。母は最初の跳躍の勢いのまま特大マンイーターの頭上を通過し、マンイーターの背後に着地していた。――すると、母が眉をひそめた。

「ないねえ……」

 そうつぶやくと、ステッキの先端をマンイーターに向けて構える。

「石畳の道を素足で歩いてんだ、まさか足の裏なんてこともないだろうしねえ……てことは、身体の内部にでも隠しているのかい? 完全に異種だね。まあ、そんだけの巨体かつ第三の目が狙えないとなれば、普通の魔法使いならお手上げってとこだろうけどさ、あんた相手が悪かったよ。その巨体、内部から跡形もなく爆砕してあげるよ」

 地に落ちたマンイーターの両手首はみるみる崩れ、塵のようになってしまった。代わりにマンイーター本体の両手首の切断面から、新しい手首が生えてくる。それは、まばたき二つ三つの間に完全に再生した。

「たく、つくづく便利な身体だよ。人間は心臓をひとつき以外にもたくさん死に方があるってのに、あんたたちは第三の目さえ無事ならいくらでも元通りなんてね」

 母がカルに目配せすると、カルははっとして、負傷中のふたりのもとへ駆けた。マンイーターは母に任せておいて大丈夫だと思った。今のカルの役割はふたりの治療だ。

 男性の方は傷みに辛い表情を浮かべつつも、どうにか自力で立ち上がろうとしており、まだ大丈夫そうだった。しかし、女の子の方はほとんど動く気配がない。顔から血の気が引きつつある。危ない状況であることは明らかだった。

 カルはまず女の子のもとへ走り寄り、女の子を両腕で抱き上げた。


 すると――、


「か……カルおにいちゃん」


——!?


「……俺のこと知ってるのか?」


 カルがそう言うと、女の子は一瞬、目を大きく見開いて底なしの絶望をその表情に湛えたが、それは一瞬の後に引っ込められた。もうそこにはよそ行きの愛想笑いとでも言うべき表情が貼り付いていた。

「は、はは、忘れちゃったのね……私のこと忘れちゃうくらい、魔法学園でたくさんお友達作ったのかな?」

「ご、ごめん、俺……」

「うらやましいなぁ、」女の子は何かを急くように言葉を継いだ。「……わ、私も、カルおにいちゃんと同い年で、一緒に魔法学園に通えたら、よかった、の……に」

 すると、女の子の全身から力が抜け、首がだらんとなった。そこには無念の表情が浮かんでいる。

「おい、……おい!」

 カルが女の子を揺するが、女の子からはもう何の反応もなかった。

「まだ、俺は大事なことを言えてない……」

 カルが記憶喪失のことを打ち明ける間もなく、女の子は息を引き取った。その目からは一筋の涙が伝い落ち、カルの腕を濡らしていた。

<男性の方は治癒可能と思われますので、治療を継続します>

 AIちゃんが言った。

「ああ。頼む」


 また、俺の目の前で人が死んだ――

 カルは、カルの腕の中で息を引き取ったガンのことを思い出していた。


 女の子の父親が立ち上がり、「ありがとう」と言った。AIちゃんの治癒が無事終わったのだ。

「ふがいない……我が子ひとり助けられないなんて」

 彼はまっすぐ歩くこともおぼつかない足取りで女の子のもとへ歩み寄り、抱え上げる。肩が小刻みに震えている。次第に、おいおいと嗚咽し始めた。

「ごめんよ、ごめんよ…⋯」

 しばらくそうした後、顔を上げ、悲しそうな表情を浮かべて言った。

「サシャは、フォグランドくん、きみのことが好きだったんだ」


——!?


「でも、きみにはマグパイさんがいるからって、自分の気持ちを押し殺して、あくまできみという年上のおにいさんを慕う小さな女の子としてふるまっていた」

 カルの唇が震える。

「おれは……俺は、そんな子の死に際に、おまえなんか知らねえって顔しちまったのか……」

 カルがか細い声でそう言った。そして続けた。絞り出すように。

「俺、記憶喪失で、友達のことはおろか、自分のことも、この世界のことも、魔法も何もかも忘れちまってて……今も、あなたを治療するのが精一杯で」

「記憶喪失……そうか」そこでサシャの父親の表情は心なしか安らいだ。「フォグランドくんがそんな薄情な人物のはずはないと思った。よかった。……いや、すまない。記憶喪失なんて大変なときに、よかったはないね。謝るよ。でも、できれば、サシャにも教えてやってほしい。このままではかわいそうだ」

 カルは小さく頷くと、屈んでサシャの無念の滲む死に顔と再び向かい合った。それが、カルに忘れ去られてしまったことへの無念なのか、若くして死ななくてはならなかったことへの無念なのかは分からなかったが、おそらくその両方だろうとカルは思った。

 カルは記憶喪失のことを、既にその魂が天に昇りかけている目の前のサシャに伝え、謝った。魂に直接語りかけるように。


 すると、サシャの顔から無念の色が去った気がした。それは、カルがそう思いたいだけかもしれなかった。


 そのとき、なまものが爆ぜるような音が響いた。特大マンイーターは細かな肉片と化した。たとえどこに第三の目を隠していようと、これではひとたまりもない。アモリス――カルの母の魔法だった。


 カルはずっと、視線を腕の中のサシャに落としたままだ。

「俺のせいなのか。俺の目の前で人がまた死んだ……」

 カルは虚ろな目を宙に向けて呟いた。

「なんなんだよ。俺が何かしたのかよ! 俺たちが何かしたのかよ…⋯」カルの声が次第に荒々しくなっていく。感情のタガが外れていく。「くそ……俺は引き継いでくって決めたのに。ガンさんから貰ったものを、ガンさんが残してくれたものを。けど、わかんねえことだらけで、どうすりゃいいかわかんねえ」

 このあとカルは、言葉にならぬ呻きを漏らし続けた。

 カルの心中には怒りと混乱が吹き荒れていた。それは、世界からは何も情報が与えられないのに、恐怖と絶望が一方的に押し付けられるという、世界の不条理に対する抑えがたい感情だった。

 決心は固いつもりだった。フォグランド家のひとり息子として、フォグランド家次期当主として、世の期待を一身に背負う覚悟を決めたつもりだった。しかし、そう思っていた自身の覚悟は、目の前の予期せぬ事象によって簡単に吹き飛んでしまうくらいやわなものだった。その自らの心の弱さ、ガンの死を無駄にしてしまいかねない自分の弱さに対しても、カルは猛烈な怒りを覚えていた。


――けど、


「こんな悲しいことの連鎖は、断ち切らなきゃだめだ……」

 カルが低い声でぽつりとそう言うと、

「そのとおりだ」

 どこからか男の声がした。

 サシャの父親のものではない。


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