16.ハーディ先生
カルの異常状態については、もはや取り繕うことが不可能な状況になった。カルの様子がおかしいことは既に学園中の噂になっていた。
窓の外は日が傾き始めていた。カルは保健室のベッドの上に座り、項垂れていた。
保健室にはカルとワンダ先生、そしてカルを保健室に連れてきた先ほどの気の抜けた話し方をする先生がいた。名を、ハーディ先生といった。
当然、この状況においてハーディ先生にカルの異常事態をごまかすことはできなかった。ハーディ先生にはワンダ先生からカルの現状を説明した。説明を聞いてもハーディ先生は飄々とした雰囲気を崩さなかった。これがハーディ先生のキャラクターなのかもしれない。
ワンダ先生はステッキをカルの頭の近くに構え、その先端で波を描くように空中をなぞった。その後、ワンダ先生はカルの頭のあたりを睨みながらうむうむ言っている。
「今、おまえさんの心の様子を覗いておる。ああ、心配せんでいいぞ。具体的に何を考えておるかまでは見ておらんからな。あくまで、心の状態を見ておる。じゃから、まあ、なんだ、エッチなことを考えていても大丈夫じゃ。わしにはわからん。ほれ、ここには美人のハーディ先生もおることじゃし、何を考えようと、おまえさんに罪はない」
落ち込んだ様子のカルを和ませようとするワンダ先生の気遣いはわかるが、今のカルにはじじいの下ネタを笑えるような精神的余裕はなかった。
「それでフォグランドくんの心はどうなの~?」
と、ハーディ先生が何もなかったかのように言った。
ワンダ先生は「ごほん」とひとつ咳ばらいした。
「これはちと不思議なことが起こっておる」
「不思議なこと?」
「シンシアが無いんじゃ。記憶と同じじゃな。じゃが、こちらは異質な断片などが残っておるわけではなく、きれいさっぱり何もない……確かにこれでは魔法は使えまいて」
「シンシアが無い? それって、まさか」
ハーディ先生の言わんとしていることを読み取ったワンダ先生は、いやいやと首を振って言った。
「確かに、シンシアが存在しないとは、まるで科学の民のようじゃ。シンシアは魔法の民の血が流れる者にしか存在せんからな。じゃが、フォグランドくんは紛いようなく魔法の民じゃ。その代表的存在じゃ。こんなことは初めてじゃが、何らかの原因によって、魔法の民にしてシンシアを完全に失ってしもうとるようじゃ……」
ワンダ先生はハーディ先生の方に顔を向けて言った。
「何か心当たりはあるかの? 記憶とシンシアを同時に喪失させる魔法や呪いの類を」
ワンダ先生に質問をふられて、ハーディ先生はしばしシンキングタイムに入った。人差し指を顎に添えて、両の瞳をやや上に向け、真剣に考えているようにもポーズだけのようにも見える様子でしばらく黙っていた。
そして、人差し指を立てて言った。
「魔法でも呪いでもないですけど〜、思いつくのは、……エデン?」
それを聞いたとたん、ワンダ先生は目を見開き驚愕をあらわにした。眉を寄せ、息を吐き出した。
「うむ。たしかに、エデンならば……」
「でも、エデンについては分かっていないことが多すぎて、何とも言えませんね〜。ただの妄想とも言われてますし。すみません、忘れてください」
「そ、そうじゃな。もっと現実的な方向で考えよう。フォグランドくんのためにも」
ワンダ先生が険しい表情を浮かべながら言った。
そこで、保健室を訪れるふたつの影があった。
気配を察知したハーディ先生がそちらを見やる。
「あら〜、マグパイさんにステフィールドくん? どうしたの〜?」
カルは顔を上げた。保健室の入り口に佇むエミとハルを見る。どちらも心配そうにカルの方を見ている。特にエミは泣きはらした顔をしている。弟をマンイーターに喰われたかもしれないと、その事実にショックを受けて、教室で突っ伏していたエミの様子が蘇る。今は他人のことを心配する余裕などないはずなのに……。
エミとハルがシュミット先生の授業での出来事を先生たちに話した。
ワンダ先生は苦々しい顔をした。
「シュミット先生も、ちと慎重さに欠けるのう。マンイーターのことを、そのための講義以外で生徒に話してしまうとは」
「まあ、シュミット先生は口は滑らせたかもしれないけど、暴露したのはポイファンだから」
エミはシュミット先生をかばうようにして言った。
「ブラッドフィールドくんも、どこまでも困った子じゃ。……それにしても、ショックじゃったじゃろ」と言って、ワンダ先生は窓の外に視線を向けた。「まあ、この学園にいる限り安心することじゃ。ここの教師らは世界でも屈指の魔法の達人たち。うかうかとマンイーターを学園内で暴れさせたりはせん。それに、マンイーターは夜さえ気を付けていれば安心じゃ。昼間は活動せんからな」
「昼間は活動しない?」
「そう。生まれも正体も何もかも不明の生物じゃが、いくつかのことは分かっておる。陽に当たるとよくしつけられたグリフォンのように従順になり、見た目も普通の動物と見分けがつかなくなる。おそらく、魔法か、呪いの類だと思われるが、それ以上のことは分かっとらん」
「夜と昼で見た目が違うの?」
「ああ。夜は全く見違えるようにおぞましい姿になる。口が裂けておったり、首が切れておったり、全身流血しておるのにピンピンしておったりな。それはそれは恐ろしい。……いや、すまん。わしも話し過ぎたな」
そこでワンダ先生は話すのを一度止めて、短く息を吐き出した。そして、続けた。
「今のうちは、そんなことは考えず、とにかくシンシアを鍛え、魔法の技術を磨くことじゃ。将来、自分の身と、大切な人を守れるようにな」
大切な人を……。
カルの沈んでいた意識が、ようやく水面付近に上がってきた。
「エミ、辛いよな。身内の……」まだ俯きながら、カルは口を開いた。「きっと仲良かったんだろ? 弟さん。……急にマンイーターなんて言われても、わけわかんねぇよな」
辛い気持ちはエミも同じなのだ。自分ばかり泣き言を喚いてばかりはいられない。
しかし、――カルは限界だった。
「ごめんな、俺、エミのこと思いやれる余裕ねぇよ。身内ことでショック受けてんのにポイファンに虐められてるやつをかばうエミみたいに、俺はなれねぇ……」
カルはベッドの上で拳を握りしめた。
「どうして、なんでだよ! なんで俺はこんな目に合わなきゃなんねぇんだ! 俺はそんなすごくねぇんだ。できそこないなんだよ。クズなんだ……」
心の中に溜まっていたものがどっと溢れ出る感覚だった。自分でも、いったい何がここまで自分を追い詰めるのか、分からなかった。
カル自身が把握している以上の何かが、自らの心の内にある気がした。それが何なのかは分からない。
「そんなことないよ、カル。カルは優しいよ? 今も、カルは記憶も魔法も失って、それでも私のことを考えてくれた。記憶を失う前も、私のこと、たくさん助けてくれたのよ」エミの声は震え、その目には再び涙がにじむ。「だから、カル。今は泣いていいんだよ。自分を責めないで。世の中を呪わないで。ただ、思いのまま、泣けばいいの」
「すまねぇ」しかし、カルはエミの思いやりに応える余裕はなかった。「……もう、何もかもどうでもいいんだ」
エミの呼吸が荒くなる。カルはこのとき、エミに叱責されるのではないかと身構えた。しかし、次の瞬間、エミの息づかいに感情をグッとこらえる気配がした。
次に口を開いたのはワンダ先生だった。
「感情が乱れるのも無理はない。フォグランドくんは記憶喪失の状態じゃからな。客観的にみて異常なほどの情緒不安定をきたすことも、記憶喪失の典型的な症状じゃ」
ワンダ先生は項垂れるカルの頭をしばらく眺めてから言った。
「今は休むことじゃ。何をやっても、うまくはいくまいて。フォグランドくんのお父様――学園長もお勤めに出られてもうじき半年ほど、そろそろ学園に戻られる頃じゃろう。そうすれば、お父様にも相談してみるといい」
依然としてカルから反応がないことを確認して、ワンダ先生は言った。
「それじゃ、わしはこれからちと、ハーディ先生と、その、で、デートに出かける。その間、ここは自由に使ってよいぞ。何もなければ保健室の先生というのは暇なんじゃ」
ワンダ先生がハーディ先生に「デートって何ですか〜」と言われながら保健室を出ていった。
エミとハルが「ははは」と乾いた笑いを浮かべて見送った。
生徒三人が保健室に残される。
エミとハルはしばし悩んだ末、その日最後の授業に出ることに決めた。
魔法薬学の授業で、薬草名とその効能効果等、暗記すべきことが山ほど出るらしく、一回授業をサボるだけで追いつくのがかなり厳しくなるとのことだった。
「授業が終わったら迎えにくるわ」
カルは無言で頷いた。
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