第2話 黒の昔話。

 私は君に側に居て欲しかった。

 良くないと分かっていたんだ。よりにもよって、私が君のそばにいては、君のためにならないと。でも、君がいないと『普通』に成れない気がして。……どうか、許して、ほしい。

「どうしたんですか?」

「……」

「……?」

 彼がそっと首を傾げてこちらを覗き込んでくる。その顔に心配するような表情が浮かぶ。

「……?」

 黙って促してくる彼に、微笑を浮かべて見せる。

「なんでもないよ」

 ある日、冴狗が頭を抱えて泣いているのを見てしまった。

 責めているような彼の目。違う、彼の目に自分の罪の意識を見ているだけだ。

 目を背けて僅かに俯いた。

 私は、ここには居ないほうがいい、よね。



 書斎で、黒さんが一冊の本を抜き出す。

 ふわっと一枚の写真が零れ落ちた。

 落としましたよ?

 笑いかけると、彼の表情が止まっていた。

「黒さん?」

「……こんなところにあったのか」

 呟いて、彼はそれを受け取った。

「写真、ですか?」

「……うん。懐かしい……」

 確かめるように、黒さんがもう一度呟く。

「懐かしい……」

 彼の親指が写真の上をなぞる。三人の人が写っていた。

 どこかのバーなのだろうか。

 左端の面倒くさそうにカウンターに寄りかかって、斜めに視線を向けている黒い服の少年は黒さんだろう。だらりと下げた右手が煙の上るタバコを持っている。そして、右端でオレンジがかった金髪でにかっと笑ってピースをしているのが狐さん。でも、真ん中の女性は?

 彼女は椅子に座って長い髪を後ろに流し、快活に笑いながら酒片手に手を振っている。

「……」

 黒さんに尋ねようと顔を上げたら、その表情が思ったより複雑で、有り得ないけれど泣きそうに思えて、冴狗は質問を飲み込んだ。


 後悔している。どうしてあんなに黒さんの近くにいながら何も気づけずに……いや、気づいてはいた。けれど、声をかけるのが怖かった。

 もっとそばにいて欲しい。離れたくない。


 君は自由だ。

 どこへでもいけばいい。

 ずっと遠くで、触れなられない遠くで、私の外で君が泣いている。

 別れを告げる前に、せめて一言。

 君にどんな言葉をかければいい。考えても、考えても、いくら考えても、思いつかなかった。

 謝る言葉はきっと相応しくはない。

 ああ、でもずっと君を利用して騙して、苦しめたのに謝らないの?

 Love is the condition in which the happiness of another person is essential to your own.

 愛というのは、要するに自分以外のもう一人の人間の幸福が、自分自身の幸福にとって、絶対的に必須欠くべからざるものである、という状態である。

 ロバート・A・ハインラインの言葉。

 君と私、二人が幸せでないと私は満たされない。

 ああ、でもこんな他人の言葉をうそぶいたところであの子に響くだろうか?

「贈るべき言葉が思いつかないよ……」

 どうしても伝えたいのに、集めてきたはずの言の葉はちっとも役に立たない。

「くそ……」



「黒さん、散歩に行きましょうよ」

 あまりに行き詰まっているから、彼はそう声をかけてくれたのだろう。

 彼が振り返る。

 その表情に微笑を見出して、黒は目を見開いた。

「……黒さん? 大丈夫ですか? 気分でも?」

 開けた扉を支えながら彼は首を傾げる。

「……行こうか」

「はい!」

 家の目の前の、少し湿った川沿いの道を歩く。しとしとと雨が降ってきた。

「あ、猫だ」

 真っ白な猫に彼が傘を手向ける。白猫は人懐こく冴狗の側に寄って来た。

「美人さんだねぇ」

「どこの子でしょうね」

 ああ、願わくば来世は君の猫に。

「可愛いですよねー、猫って」

「そうだね」

「あー、行っちゃった」

 その横顔が愛おしくて、美しくて、黒は目を逸らす。

「雨が酷くなりそうだね」

 私にとって君は、かけがえなかった。大事だった。手放したくない程に。

 ただ幸せで居て欲しかった。

 帰る途中、小さな娘を抱えた家族とすれ違った。

 いいなぁ。羨ましいなぁ。

 冴狗は、小さな憎悪と共に笑い合う家族から目を背けた。



 冴狗は、昔の話を思い出す。

「君の両親は死んだ。もう二度と帰ってこない。それなのに何故呼ぶんだい?」

 初めて会った時、黒さんはそう僕に訊いた。

 知らない人に囲まれて、友好的な視線なんて一つもなくて、その中で心細くて泣いていた十歳の少年に。そう、僕は心細かった。

 うちでは無理だ、呪われてるとか聞いたし、引き取れない、気味が悪い、良くない噂もあるし、ケアが必要なんでしょ?そもそも、ヤクザに親を殺された子供なんて無理よ——。

 身の回りで渦巻く言葉の数々が怖かった。意味なんて分からなかったが、ひたすら怖かった。父母の名を呼んで泣けば、更に嫌な視線は増した。

 その中で、月を背後に従えて、黒一色の服装をしていた黒さんだけがしゃがんで『僕』を観察していた。そう、その場に集まっていた親戚は誰も僕を見ず、僕を引き取る事で生じる責任と費用を見て押し付け合っていた。

「君はまだ幼い。が、親を亡くした。この状況で生きていくのなら、泣くだけは非常に不利だよ、少年」

 呼びかけられた。それだけを理解して、僕は黒さんに泣きながら近寄った。綺麗に黒いコートが黒さんの肩から畳の上へと広がっていた。黒さんの周りは不思議と人がいなくて、怖い視線からも逃れられた。

 いつの間にか、座敷はしんとしていた。異様な視線を感じて、僕は黒さんに抱きついた。

「……では、そういう事で」

 黒さんはそう言って立ち上がると、僕を親戚一団から隠すようにして手を繋いでくれた。

 あの手は、暖かかった。

 彼は道中一言も喋らなかった。だから、思いっきり僕は泣けた。彼がそっとハンカチを置いてくれたのを覚えてる。見上げて使っていいのかと問いかけると、彼は目を瞑っていた。彼も眠たかったのだろうか。それでも僕のために起きていてくれたのだろうか。

 ああ、そうだ。バスでこの家へ行ったんだ。誰もいない伽藍堂の、運転手の存在までが希薄になってしまっているバス。そのうち僕は眠ってしまっていて、翌日、ベッドの上で目覚めた。それでも、枕の上が濡れていて、それで寝ながら泣いていたことに気づいた。ずっと両親と一緒に寝ていたから、独りぼっちで起きたのはすごく心細くて、視界が滲んだ。

「おかあさん……おとうさん……」

 冴狗は、ごしごしと目を擦った。

 枕元に着替えが置いてあって、それに着替えてから、服を抱いて部屋を出た。少し、しゃんとした気分だっでドアを閉めると、その前に短い廊下が待ち構えていた。こんなに短い廊下を見たのは初めてで、目を丸くして左右を見渡した。後に、普通の家より少し長いぐらいなのだという事を知った。

「冴狗くんかい?」

 慌てて声の聞こえた右の方へ歩き出すと、黒さんがドアを開けてくれた。

「ここがリビングだ。今君が寝ていた部屋、それは私の部屋なんだけど——その奥、玄関側を君の部屋にしようと思ってるから。悪いけど、家具の準備と掃除が終わるまで私の部屋で我慢してね」

 彼は昨日とは違う黒い服だった。

「あの、貴方は……?」

くろ。黒と呼んでもらって構わないよ。養子くん」

 彼は椅子を引いて僕を座らせてくれた。そう言えば、部屋の準備は出来ていないのに、椅子だけは三脚もあるのは何故なんだろうと思った。けれど、その時は目の前にいる人はどんな人なんだろうという興味が勝った。

「黒さんのお仕事は?」

 黒さんは笑った。昨日とは随分と印象が異なる。

「ただの作家だよ。二階の書斎で主に執筆している。ペンネームは久寿米木くすめぎ黒」

 黒さんはそこで言葉を切り、広げられた食卓を横目で見た。つられて僕も見る。

「悪いね、子供がどんなものを好むのかよく分からなくて、パンにチーズをかけただけなんだが」

「いえ、とっても美味しそうです」

 お世辞でなく、美味しそうだった。

「それはよかった。さ、食べてどーぞ」

 多分、居にくかった僕に気遣ってくれたんだろう。芝居ががった台詞で、彼は食事を指差した。

「い、いただきます……」

「どうぞ召し上がれ」

 頬杖を突いて彼はテレビを見ていた。けれど、無視されている感じは全くなくて、僕も漫然とテレビを見ながらそわそわと部屋を見回した。

 観葉植物がある以外、必要最低限のものしかなかった。

「げ、今日雨かぁ」

 黒さんがそう言って溜め息を吐いた。

「室内干し、嫌なんだよなぁ……」

 なんだかそれが子供みたいな言い方で、僕は少し笑った。

「あ、笑ったね?室内干しは大変なんだよ?ああ、そうだ、二週間後から学校が始まるから、よろしく」

「はい」

 伸ばされた手が、優しく頭を撫でてくれたのが、凄く嬉しかった。



 夜、一人になるのはまだ怖かった。

 だから黒が来るまで、冴狗は待っていた。

「眠れないかい?」

 冴狗は黒の部屋のドアの隣に座ったまま、こくりと頷く。

「んー……。どうしたら眠れそう?」

 分かっていたけれど、言うのが気恥ずかしくて、僕は俯いた。

「……」

 ひょい、と抱き上げられて僕は驚く。

「わ」

「眠れなくても子供は寝るべきだよ」

 黒さんは僕を抱いたまま布団の上に転がる。

「眠いなぁ……」

 僕は黒さんの胸の辺りに頭を押し付けた。優しい手が、そっと頭を撫でてくれた。

 黒さんからは、清潔ないい匂いと、紙とインクの匂いがした。



 黒さんは、この頃に比べて、やっぱりよそよそしくなってしまった気がする。

 黒さんについて、僕は詳しく知らない。黒さんが僕をどう思っているかも。



「おい黒の野郎!」

 インターホンが鳴ると同時に、そんな怒声が聞こえて来た。

「げ、狐か」

 黒さんが顔を顰める。

「えっと、お知り合いですか?」

 当時十二歳になったばかりだった僕は、インターホンと黒さんを見比べながら訊いた。

「うん。最低最悪の腐れ縁だよ。……で? 何の用?」

 険のある声に、刺々しい言葉が答える。

「怪我したんだ、入れろ」

「あのねぇ、ここは医療所じゃないの。医療機関を受診して下さい」

「スペアキーを作られたくなかったら入れろ!」

 恐喝に黒さんは怯えるどころか心底面倒くさそうに溜め息を吐いた。僕には何がどうなっているのかよく分からなかった。

「作れるもんなら作ってごらん」

 若い男の怒声が返ってくる。

「ああ⁉︎ こっちは本気だぞ⁉︎」

「ただし、入って来た途端この家の住人以外は即座に撃ち殺されるよ。おまけにpH十四以上のアルカリ性液体もかかる。住人と一緒に入ってこない限りね。特に君は優先度高いよ。そんなに死にたいかい?」

「な、なんつー仕掛けをしてるんだよ……」

 弱気になった家の外の人が可哀想になって、僕は知っている知識を一生懸命引き出しながら外にいる人を庇った。

「でも黒さん、その人怪我してるんでしょう?保険証とか、お金がないとか病院に行けない理由があるかもしれないし……」

 今ならまず最初に銃刀法違反では、と問いただすのに。

「君は優しいね。あんなやつ、うちの前で野垂れ死ぬ最期が丁度いいのに」

「えええ、黒さん⁉︎」

 なんかすごく当たりがきついけど、どんな人なんだろう。怖い人なのかな?

「と言うことで帰って」

「そーかよ、なら今から警察に電話してお前に刺されたって言おうか?」

「はぁ……。君と私の間にはもうどんな関係もないでしょ」

 黒さんが苦々しく言う。

「そうかぁ? 俺はお前の一人称が『僕』の頃からお前を知ってるけどな?」

 揶揄うような口調だった。

「狐、」

「俺たち三人で——」

 黒さんの声が初めて明白な怒気を孕んだ。

「……悪ぃ。けど、入れろ」

「……ちっ」

 え、舌打ち? 黒さんが舌打ち?

「分かった。二階の空き部屋に入れる。その部屋から許しがない限り出るな。それから、泊めるのは傷が完治するまでだ」

「おう」

「それから、何をしでかしたのか知らないが、警察が押しかけて来たら迷うことなく君を突き出す」

「オーケー」

「……今、開けにいく」

 はああぁぁぁ、と長く溜め息を吐いて、黒さんが玄関に向かう。冴狗が後を追おうとすると、黒はそれをめた。

「私が普段使っていない方の医療セットと水を二階に持って来て欲しい。急がなくていいよ」

「はい!」

 やけに重たく大きい医療セットと、水をいっぱい入れたペットボトルを抱えて、冴狗は階段を急いで上がった。

「黒さん!」

 扉を自力で開けられなくて、冴狗は黒を呼んだ。

「ありがとう、冴狗」

「なんだこのガキ」

 その言葉にぽかんとして相手を見ると、言った相手もぽかんとしていた。

「おい黒?」

「えっと、黒さん?」

 黒さんは溜め息を吐く。

「……冴狗、これが狐。狐、この子は私の養子、冴狗だ」

「いや一旦待て待て待て待て!」

 狐が大声でストップをかけた。

「文句が大きく分けて二つある! まずこの温度差はなんだ! 俺には『これ』で、冴狗には『この子』って! 次に不親切! 冴狗も困ってるだろ! 俺とお前の関係とか、お前と冴狗の関係とかは⁉︎ 養子っていつから! なんで! 元の関係は⁉︎」

「温度差はお前の日頃の行いのせいだ。自分を恨め。それから、冴狗、狐は私の昔の……」

 心底嫌そうな顔をして黒さんが言った。

「……平たく言えば友達だよ。今はそんなんじゃない」

「そうなんですか。狐さん、よろしくお願いします」

「おう! あ、悪りぃな、勝手に呼び捨てにして」

「いえ、全然大丈夫です!」

「狐なんかに『さん』はいいよ、冴狗。油揚げの下僕って呼ぶぐらいがちょうどいい」

 黒さんがぼそりと呟く。

「あ⁉︎ つーかテメェ、俺の質問に答えろ!」

「冴狗は私の養子。二、三年前に引き取った」

「……え、終わり? なんで引き取ったんだ? 親戚か? 親は?」

「個人情報は答えられない」

「なんだと⁉︎」

 狐さんが僕の耳を塞いだ。

「お前、——だぞ! ——、——ねぇ‼︎」

「君——、——僕を——に!」

「それは——あいつ——判——だろ!」

 頭上で交わされる怒鳴り合いをぽかんと見上げていると、不意に黒さんの表情が消えた。

「……」

 狐さんの手が緩む。

「わ、悪い、黒、俺は——」

「……あの人は、夜烏よがらすは、僕を……」

 黒さんが何かを恐れたように退がる。

「黒さん? 狐さん?」

 狐さんも座り込んだまま怯えたように固まっている。

「黒さん、狐さん?」

「夜烏……」

 黒さんが座り込む。

「よがらす……」

 狐さんもそう呟く。

「黒さん、狐さん、大丈夫ですか?」

「あっ、ああ。……おい黒!黒!」

 僕は黒さんの手を掴んだ。

「黒さん?」

 黒さんの目がこちらを見る。僕は彼の手を揺さぶった。

「黒さん、大丈夫ですか?」

「ああ……大丈夫だよ」

 黒さんはぎこちなく微笑んで、冴狗をギュッと抱きしめた。

「冴狗は、あったかいな」



 暫く二人は話し込み、狐さんは僕から隔離される形で療養していた。

 大体一ヶ月後、狐さんが出て行く日。最後、二階の廊下で二人は話していた。僕はそれを一階から見上げて聞いていた。

「上にも言っとくよ。黒の弱みに手を出したら、黒は首を括るってな」

「こればっかりは君を信用するしか、今の私には伝手がない」

「ああ。……くっそ、お前、俺がくるのを待ってただろ!」

勿論もちろん。君は子供と後輩には優しいからね」

「……よ」

「ん?」

「死ぬなよ馬鹿‼︎」

 黒さんは少し驚いたように目を見開き、悪い笑みを浮かべた。

 やんちゃな少年そのものの表情に、僕は少し驚く。

「……早死にしろ馬鹿」

「やっぱり死ねぇええええ!」

 狐さんは黒さんの蹴りを躱して階下に逃げてくる。

「うわぁあ⁉︎」

「冴狗っ! 玄関開けてくれ!」

「あ、はい!」

 冴狗は玄関の扉を開けてやる。狐はそこから飛び出していった。

 階段から黒さんがこちらを覗く。

「……ちっ、逃げられたか」

「く、黒さん……?」

 彼はふっと笑って冴狗を抱き寄せた。

「彼はね、悪い人なんだよ」

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