落日のセメタリー

深水彗蓮

第1話 日常

「黒さん‼︎」

 ビルの屋上に立った彼は、微笑み、そこから飛び降りた。



「おはようございます、黒さん」

「うん。おはよう」

 彼が少しテレビ画面から顔を上げて微笑った。彼はいつも早起きで、今日も、もう朝食を食べ終えている。そうして視線をテレビへ戻すと、暇そうに皿をフォークで叩き始めた。

「黒さん、行儀悪いですよ」

「うん……」

 ああ、聞いてないな。冴狗さくは溜め息を吐いて、席に着いた。

「遅れてごめんなさい」

「……うん」

 キャスターが隣国の地震について報道している。黒の黒い目が静かにそれを見守っている。

「いただきます」

 手を合わせると、黒が頬杖を突いた。

「どうぞ召し上がれ」

「は、はい」

 そう言いながら黒の顔を窺うと、特に何か感情を表している訳ではなかった。少しがっかりしてトーストを齧ると、ニュースが変わった。株価の話には興味がないらしく、黒は立ち上がって食器を運んで行く。

「あ……」

 食洗機にそれ入れると、彼はそのまま二階の書斎へ入っていった。

「……行っちゃった」

 黒さんは最近、少しよそよそしい。



 書斎は、黒さんの王国だ。王の邪魔をしてはいけない。

 あながち間違った例えではないと思う。黒さんは作家で、邪魔をされるのは好まない。多分。

「お邪魔します……」

「どうぞ……」

 黒さんは小さく唸りながら原稿の上で万年筆を振り子のように振っている。どうやら行き詰まっているらしい。今時、パソコンとかで書けばいいのに。

 僕はそっと足音を殺して隅っこの椅子に座った。書架から本を抜き出して、ペラペラとページを捲る。昨日の続きの再開だ。

 突然、黒が言った。

「『これが好きか嫌いかなんて、私でも判る』……うう……」

「昨日の劇の台詞ですね?」

 僕にだって分かる。冴狗は微笑んだ。

「そうだよ」

 黒は重く溜め息を吐く。私には分からない。

「黒さん的にはどうでした?あれ」

 冴狗は本を置いて指を組んで目を閉じた。

「役者が大根だった」

 黒は顔を覆って机に肘を突く。

「そうでしたけど。それじゃないですよ」

 冴狗は姿勢を変えずに想像を膨らませる。

「ストーリーはまあまあいいんじゃないかな」

 黒は万年筆を置いて冴狗を見た。

「……」

 冴狗は目を開けて黒と目が合って、珍しいなと思った。

「……?」

 暗い顔だなぁ。

 冴狗は心配になって眉を寄せた。

 笑っていたほうがきっといいのに。

「どうかしました?」

「いや。……はあぁ……」

 溜め息を吐いて彼は机を睨む。

「大丈夫ですか?」

「……うん」

 僕は黒さんに幸せそうに笑って欲しいだけ。だけど、この言葉しか知らないから。

「……You know you’re in love when you can’t fall asleep because reality is finally better than your dreams.」

「『恋に落ちると眠れなくなるでしょう。だって、ようやく現実が夢より素敵になったんだから。』……ドクター・スースの台詞かい?」

「僕、これが好きなんです。夢より素敵な現実って、いいなぁって」

「……そうかい」

「黒さんは夢と現実、どっちが好きですか?」

「夢かな」

 ばっさり言った黒さんに冴狗は苦笑を隠せない。

「そうですか。実は、僕もです」

「まあ、普通はそうだよねぇ」

 黒は少し笑った。私は君をどう思っているんだろう?

「僕もこんな事が言えるようになったら、黒さんのお仕事の役にも立ちますかね?」

「……」

 黒は思わず黙った。名言だけが小説ではない。

「……黒さんの小説なのに僕が助言をしたら邪魔ですよね。食器洗いとかの方を頑張ります」

 そういう意味じゃない! そんな残酷な意味の沈黙じゃ——。

 そう言おうと思って冴狗を見ると、彼は微笑していた。

「ちが……」

 そんな顔をしないで——。

「あ、珈琲淹れて来ますね!」

 冴狗が席を立って行ってしまったから、黒は言葉を飲み込んで座るしかなかった。

「……私の所為だ、ね」

 冴狗は優しいから。

 私は最低な人間だ。

 つくづく……。



「うーん……」

 冴狗は冷蔵庫を開けて、おとがいに手を当てて考え込んでいた。

「どうかしたのかい?」

 超至近距離から声が聞こえて冴狗は飛び上がった。

「うわあぁっ! ……なんだ、黒さんか……」

 ころころと彼は笑う。

「面白いなぁ、冴狗は。で、どうしたんだい?」

「卵がもうなくって……でも安売りの日まであと五日で……」

「あー、前回は行けなかったんだっけ。いいよ、必要なら買っておいで」

「で、でも……」

「いいよいいよ、そのぐらい」

 軽く黒さんは手をひらひらと動かした。

「あ、ありがとうございます!」

「冴狗の料理の方が美味しいからね」

 彼はお茶目な雰囲気を漂わせて、肩をすくめて笑った。

 褒めてくれた。

「精進します!」



 冴狗は眠たい頭を三回殴って体を起こした。黒さんが起きるのは五時半。今、丁度午前二時四十分だ。

「よし。えっと……」

 そっとキッチンを目指して歩き出しながら、スマホを取り出し、ホイールケーキの作り方の記事を呼び出した。

「薄力粉が九十グラム……それと、卵三個とお砂糖さんが……」

 小麦粉をふるいながらバターを湯煎にかけ忘れたことに気づいて慌て、薬缶を火にかけて、十八センチのケーキの型にオーブンシートを引いた。

「うわわ、頭が寝てるよー……」

 お湯が沸くまでは道具の準備をしよう。ボウルと、ヘラ……じゃなくてハンドミキサーだよな。どこにしまったかな?

 ボウルに砂糖、卵を入れ、湯煎しながら泡立てる。

「うう、腕が重い……もう混ぜなくていいかな?」

 オーブンの予熱を開始し、温まって来たので湯煎からボウルを救い出して更に泡立て、薄力粉を加える。

「あ、結局ヘラ要るじゃん! 仕舞しまっちゃったよ……。よし、あった」

 ダマにならないように丁寧に丁寧に混ぜる。

「……うーん、バター、もう入れていいかな?」

 型に生地を流し込み、オーブンで三十五分焼く。その間は休憩。

「桃と、チョコと、苺……あ、蝋燭!」

 ケーキの粗熱をとりながら、生クリームに砂糖を入れて泡立てる。スポンジを二枚にし、ホイップクリームと水気をよく切った缶の桃を挟んで全体にクリームを塗る。あとはトッピングだけだ。

 キッチンから出て、机にケーキを置く。上にホイップクリームを絞り、苺と余った桃、それから線状のチョコレートを散らす。このチョコレートは、カラースプレーと言うらしい。蝋燭ろうそくを突き刺して、彼は今何歳なんだろうと考える。

 ……本人も忘れていそう。

「ああ、もう五時十分……」

 ジュースをコップに注ぎ、花を飾り、クラッカーを隠し持って、冴狗は扉のすぐ側に座った。

 少し微睡むと、ドアノブがひねられる音がした。

「おはよう……」

「おはようございます、黒さ——っ」

「わっ」

 ぶつかりそうになって僕らは一旦離れた。

「ごめんなさい、勢い余って」

「いや、こっちも考え事してて……」

 いつクラッカーを向ければいいのか分からなくなって、黒さんが机を見る寸前に慌てて紐を引いた。

 ぱん!

「——え」

 弾ける音と共に、独特の匂いの煙、色とりどりの紐が飛び出て、黒さんに降りかかった。

「あ、その、た、誕生日っ! お誕生日おめでとうございます!」

 そう動転しながら言うと、目を丸くしていた黒さんが笑い出した。

「あはは! 今かい? 謝り合いの直後に、これかい?」

「だ、だって……」

「あはははは! 面白いなぁ!」

 黒さんは涙を浮かべた目を拭った。

「ありがとう、冴狗」

 素直な言葉が恥ずかしくて冴狗は文句を言った。

「お祝いされて抱腹絶倒ほうふくぜっとうってなんなんですか!」

「抱腹絶倒なんて、よく知ってるねぇ」

「僕も小説が好きですから! って、そうじゃなくて!」

「あはは、浮き足だった冴狗は面白いな」

「もー! マッチ持って来ますからっ!」

 そう言いながら頭を冷やしに冴狗はキッチンに駆け戻った。

 黒さんの意地悪!

「僕、そっちに包丁とか持って行きましたっけー?」

「なーいよー!」

 変なテンポの返事に「ありがとーござーいまーす」と返して冴狗はくすくすと笑った。

 包丁とお皿、それからフォークをマッチと一緒に運んでくると、冴狗は部屋の電気を消した。

「なんだか子供に戻った気分だよ」

「これが若返りの術ですか?」

「むしろ年取ってるのにね」

 そう言いながら、一緒に過ごした互いの誕生日の数、削られたマッチの箱の側面に新しい傷をつける。暗い部屋でゆらゆらと火が揺れながら、蝋燭の上に子分を増やした。

「そう言えば、黒さんって何歳なんですか?」

「うん? あー……あれ? 幾つだったけ? 成人したあたりからもう分かんない」

 やっぱり。

「あ、写真撮りましょうよ」

「またかい?」

「またです!」

 黒さんも席を立ってカメラの準備を手伝ってくれた。

「早くしないと蝋が溶けてケーキに垂れるよ」

「あと十秒!」

 十、九、八、二人が七、座る、五、机の上を四、整える、二、一——。

 パシャ。

 冴狗が立ち上がって写真を確かめる。笑って冴狗はオーケーサインを出した。ついでに、ビデオモードにして勝手にカメラを回す。

「年齢大なり二十歳の黒さんのお誕生日です!」

「いいね、それ」

 ふっ、と黒さんがあっという間に息を吹きかけて火を消した。

「……。歳、分からなくて困らないんですか?」

「うん」

 即答されて冴狗は意外に思いながら信じた。

「そうなんだ……」

「で、この蝋燭の形が九と六なのは今日の日付からかい? いつもは棒のやつだから何だか新鮮だよ」

「はい。黒さんが何歳なのか分からなかったので」

 包丁でケーキを切り分けながらそう答えると、黒さんは乗っていた苺を一つ、フォークで突き刺して食べてしまった。

「あ!」

「むぐ……年齢ぐらい訊けばよかったのに」

「ちょっと……まだ切り終わってないんですけど……。そう言いつつ年齢、自分でも分かってないじゃないですか。じゃあ、干支は?」

「それは、……なんだっけ?」

「言うと思った!」

「でも、いつも五本ぐらいしか蝋燭さしてないよね? 五歳?」

「あれは見た目がよろしいからです! 二十何本も刺したら針供養ですよ!」

 そんなの、食べたくないなぁ。罰があたりそうだ……。

「あははは、確かに」

 黒さんはもう一個、苺に手を伸ばした。

「君の誕生日は張り切らなくちゃ」

「切るまで待って下さいよ‼︎」



 ……こんなに楽しかったのにな。

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