第4話 バン!バン!

 俺の手はまだ震えている。キーボードを叩く指先に、あの日の恐怖が蘇る。今から綴る出来事は、三ヶ月前に実際に起きたことだ。誰かに打ち明けなければ、このまま狂ってしまいそうで仕方がない。


 四月初旬の曇り空の下、俺は新卒として入社した会社の玄関に立っていた。中堅の商社。決して大きくはないが、安定した実績のある会社だった。朝の光が弱々しく窓ガラスに反射し、不吉な予感のような影を落としていた。


 ネクタイの結び目を何度も直し、新調したスーツの袖口を引っ張りながら、重厚な自動ドアを潜り抜けた。ロビーには他の新入社員の姿はなく、やけに静かだった。


 総務部の女性が申し訳なさそうな表情で近づいてきた。


「山田さん、本当に申し訳ないのですが…」


 彼女の声には緊張が混じっていた。


「今日から始まるはずだった研修なのですが、急な商談が入ってしまって…」


 女性は困ったように厚めのファイルを胸に抱えていた。背後では電話が鳴り、別の社員が小走りで書類を運んでいく。明らかに予定外の事態が起きていたようだ。


「大口の新規取引先からの連絡で、役員も含めた緊急会議になってしまって…」


 言いづらそうに言葉を続ける彼女の顔には、薄っすらと汗が浮かんでいた。外は曇り空で、オフィス内の温度は決して高くない。それなのに、彼女は明らかに緊張していた。


「申し訳ないのですが、今日は営業課の留守番をお願いできないでしょうか」


 俺は頷くしかなかった。


「社内マニュアルを読んでおいていただければ。明日からの研修に役立つと思いますので」


 彼女は一瞬、何か言いかけたように見えた。口を開きかけ、しかし何も言わず、緊急会議室へと小走りに去って行った。


 入社初日に一人で留守番とか……これって仕事のうちに入るのか?


 何てことを自問する間もなく、俺は案内された営業課へと向かった。


 廊下は薄暗く、蛍光灯の一部が切れていた。壁には褪せた写真やグラフが掛けられ、かつての成功を示す数字が並んでいる。その数字は最近の年になるにつれ、右肩下がりだった。


 営業課のドアを開けると、そこには誰もいなかった。十数席のデスクが整然と並び、すべて空っぽだ。朝日が微かに差し込む窓には、グレーのブラインドが下ろされていた。


 誰かがメモを残してくれているかと思ったが、そんなものはない。広いフロアに俺一人きり。


 窓際の席に座る。分厚いマニュアルをバッグから取り出し、ページをめくる。会社の組織図、業務フロー、取引先リスト…。どれも新入社員には複雑すぎる内容だった。


 時計の針が十時を指したとき、最初の異変が起きた。


 バン!


 突然の音に、俺は思わず椅子から飛び上がった。振り向くと、音は窓からだった。


 バン!


 再び鳴る衝撃音。窓ガラス全体が振動し、ブラインドが揺れる。


 何かが窓にぶつかったのか?しかし、ここは五階だ。鳥にしては大きすぎる衝撃だった。


 立ち上がり、窓に近づく。ブラインドのコードに手をかけようとした瞬間、携帯が鳴った。


 見知らぬ番号からだった。


「もしもし?」


「あ、新人くん?営業課のDだけど」


 電話の向こうの声は、緊張に満ちていた。背景では複数の声が重なり合い、誰かが資料を求めて叫んでいる。


「あ、はい」


「今、営業課にいるか?」


「はい、留守番を頼まれて……」


 電話の向こうで、何かがガタガタと倒れる音。Dさんが誰かに何かを叫ぶ声。そして、また俺に向かって話し始めた。


「ごめん、慌ててて伝え忘れてたんだけど……」


 彼の声は、何かを言い淀むような感じで様子がおかしかった。


「あの……何をですか?」


「もしかしたら窓から大きな音が鳴るかもしれないけど、絶対にブラインドを上げないでね……」


 その言葉に、微かに背筋に冷たいものが走った。


「え?なぜですか?」


 一瞬の沈黙。電話の向こうで、Dさんの呼吸だけが聞こえる。それは荒く、不規則だった。


「とにかく……上げないで……」


 そこまで言うと、彼は電話を切った。


 頭の中が混乱する。なぜブラインドを上げてはいけないのか?そして、その音って、もしかしてさっきの……


 考えている間にも、再び窓から──


 バン!バン!


 今度はより強く、より鋭い音。まるで誰かが拳で窓を叩いているかのような、そんな音だった。


 ブラインドが揺れる。薄い光の筋が床に落ち、その影がわずかに揺らめいている。


 デスクに戻り、マニュアルを読もうとするが、集中できない。文字が目に入ってこない。時折聞こえる音に、神経が高ぶっていた。


 昼になった。誰も戻ってこない。


 午後一時、再び窓から──


 バン!バン!


 前よりも長く。窓ガラスが割れるのではないかと思うほどの衝撃。


 俺は思わず立ち上がり、窓に向かって歩き出した。Dさんの警告が頭をよぎるが、好奇心が恐怖を上回っていた。


 ブラインドに近づき、コードに手をかける。引こうとした瞬間──


「お前も、俺たちを無視するのか……」


 低い、冷たい声が、すぐ耳元で響いた。


 振り向くが、誰もいない。声は窓の方から聞こえたはずだ。


 震える手でブラインドのコードを握りしめる。引くべきか、引かざるべきか。


 迷った末、ブラインドを完全に上げるのではなく、端をほんの少しだけ持ち上げ小さな隙間から外を覗き込む。


 最初は何も見えなかった。明るい外の光で目が眩み、焦点が合わない。徐々に慣れてくると、窓の外に何かがあることに気づいた。


 そして──目が合った。


 ブラインドの僅かな隙間から見えたのは、目だった。充血した、異様に大きく見開かれた目。瞳孔は針の穴のように小さく、まるで恐怖で固まったかのように。その目は確かに生きていて、俺を見返していた。


 肺から空気が抜けていくような感覚。心臓が胸を突き破りそうなほど激しく鼓動する。


 その目は一瞬も瞬きせず、じっと俺を見つめていた。目の周りの皮膚は青白く、血の気がまったくない。死人の目のようだった。


 そして、その目が動いた。わずかに右に、まるで俺の反応を確かめるように。


次の瞬間──


バン!バアァァン!


 窓全体が激しく震え、ブラインドが大きく揺れた。その衝撃で、俺はバランスを崩し、床に倒れ込んだ。


 這うようにして部屋を出る。廊下を駆け抜け、エレベーターのボタンを必死に押した。待てずに階段を駆け下り、一階のロビーまで辿り着いた。


 長椅子に崩れるように座り込む。呼吸は乱れ、脈拍は速すぎて数えられない。全身から冷や汗が噴き出し、シャツは背中が濡れていた。


 どれくらいそうして座っていただろうか。気がつくと、Dさんが目の前に立っていた。


「おい、大丈夫か?」


 顔を上げると、Dさんは俺の顔色を見て表情を曇らせた。彼自身も青白く、目の下には隈ができていた。


「どうした?何かあったのか?」


 言葉が出ない。喉が渇き、舌が上顎に貼りついている感覚。ようやく絞り出したのは、


「あ……あの、窓……」


 その言葉を聞いたDさんの顔から血の気が引いた。彼は周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、俺の隣に座り、声を低くして尋ねた。


「見たんだ……?」


 俺は観念して、ぎこちなく頷いてみせた。


「す、少しだけ……」


「そっか……全部じゃないんだ……」


 Dさんの言葉に、「え?」と返す。何を言っているのか理解できなかった。だが彼は何も答えず、ただ疲れ切った表情で立ち上がり、無言で営業課へと戻って行った。


 手足が震え、頭が混乱していた。何か理解できないことが起きている。窓の外で見たものは何だったのか。Dさんの言葉の意味は?


 気分を紛らわせようと、喫煙所を探した。案内板によれば、屋上にあるらしい。


 階段を上る間も、背後から誰かに見られているような感覚が消えなかった。何度か振り返ったが、誰もいない。


 屋上のドアを開けると、冷たい風が頬を撫でた。四月だというのに、異様に冷え込んでいた。


 灰皿の周りには数人の社員が立っていた。人事部の男性たちだろうか。彼らは何やら小声で話し込んでいる。タバコの煙が風に乗って渦を巻き、灰色の空へと消えていく。


 俺も少し離れた場所で、震える手でタバコに火をつけようとした。その時、彼らの会話が耳に入った。


「そういえばそこだったよな?」


「ん?何が?」


「ほらあれだよ、去年左遷されて営業課に来た奴」


「ああ、あれか、本社で不倫してきた奴だろ」


「そうそう、あれえぐかったよな」


「営業課の奴らみんなして村八分にしたんだろ?」


 思わず耳を澄ます。背中の冷や汗が増していく。


「え、営業課で何かあったんですか?」


 俺の声に、男性たちは驚いたように振り向いた。互いに目配せした後、一人が口を開いた。


「え?ああ、今の話?」


「はい」


 彼らは再び顔を見合わせた。言うべきかどうか迷っているようだった。そして、年長の男性が重々しく口を開いた。


「その左遷された奴さ、君が今立ってる場所、ほら、そこ」


 彼が指差した先を見ると、鉄の手摺りが一カ所だけ異様に歪んでいた。微かに下に曲がり、表面のペンキも剥げ落ちている。よく見ると、錆びた部分には暗褐色の染みが…。


「そこに紐引っかけて飛んだんだよ、そこから」


「はっ?」


 喉から絞り出された声は、自分のものとは思えないほど弱々しかった。


「しかも正月休み中な。三が日は誰も出社しないからな」


 もう一人の男性が続けた。彼の目は虚ろで、どこか遠くを見ているようだった。


「休み明けまでずっとそこに吊られてたらしい」


「風で揺れてたんだろうな。ほら、ここ風強いだろ?」


三人目が言った。タバコの火が風で強く赤く光り、その顔を不気味に照らす。


「遺体の状態、けっこうひどかったらしくてな。顔なんて…」


 俺は思わず手摺りの外側を覗き込んだ。そして、背筋が凍りついた。


 俺が今立っている場所の真下が──


 営業課の窓……あの窓の真上だった。


 窓をバンバン叩いていたんじゃなくて……あれは体が……。


「そういえば、そいつが飛ぶちょっと前に、変なこと言ってたらしいぜ」


 一人が言った。その声は、風に消されそうなほど弱々しかった。


「窓の外から、誰かが覗いてるとか何とか……。五階なのにな」


 世界が回り始めた。足元が揺れ、視界が歪む。呼吸が浅くなり、心臓が早鐘を打つ。あの声。そして窓の音。


 すべてが繋がった。


 その夜、俺は一睡もできなかった。翌朝、会社に電話をかけ、体調不良を理由に休みを告げた。そして、三日後に退職届を提出した。


 会社側も詳しい理由を聞かなかった。むしろ、予想していたかのように、あっさりと受理された。


 あれから三ヶ月。俺は故郷に近い小さな会社に再就職した。地元で暮らし、古くからの友人と過ごす日々は、少しずつあの恐怖を薄れさせてくれている。


 だが、元の会社の人事部にいた知り合いによれば、今でもあの音は営業課から聞こえるという。ただ、誰も窓を開けようとしない。ブラインドもずっと下ろしたまま。


 まるでそこにある何かを、営業課の社員たちは皆、無視するかのように──。

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