第3話 足音

 夜の静けさに包まれた店内で、カウンター席に座っていると、グラスの中の氷がゆっくりと溶けていく微かな音が耳に届く。その音だけがやけに鮮明に聞こえる、そんな瞬間がある。


 私の勤めるこの店には、様々な人が訪れる。彼らは皆、それぞれの物語を抱えている。嬉しい話もあれば、悲しい話もある。そして、時には——言葉にするのさえ怖い話もある。


 Dさんは、そんな常連客の一人だった。


 スーツを着た三十代の彼は、いつも同じ席に座り、いつものブランデーを注文する。飄々とした雰囲気を持ちながらも、その目の奥には、何か言い知れぬ重さを秘めているように感じていた。


 あの夜も、彼はいつものように店に入り、カウンターの隅に腰掛けた。グラスの縁をじっと見つめながら、ブランデーをそっと揺らす。暖色の照明が彼の横顔を照らし出すたび、何か語りたげな表情が浮かんでは消えるのを、私は感じていた。


「……ちょっと、私の昔話を、聞いてくれないか」


 三杯目を注いだ時、Dさんはそう言った。声は静かだったが、その言葉には重みがあった。


「三年前のことなんだ――」


 私は黙ってうなずき、彼の前にグラスを置いた。カウンターの向こう側で、彼の物語に耳を傾ける準備をした。


 Dさんの語り始めた声は、遠い記憶を手繰り寄せるように、少しずつ、ぽつりぽつりと紡がれていった。






 三年前のある夕暮れ、仕事を終えて家に帰ると、玄関先から味噌と出汁の香りが漂っていた。


「ただいま」


「お帰り、ちょうど良かった。もう少しで夕食できるわ」


 妻のIの明るい声がキッチンから返ってきた。包丁がまな板を叩く、小気味よい音と共に。


 ダイニングの照明は既に点き、暖かな光が部屋全体を包んでいた。西日が薄手のレースのカーテン越しに差し込み、その光と室内灯が調和して、心地よい空間を作り出していた。


 私はいつものように鞄を置き、ネクタイを緩めながら、キッチンへと向かった。


 Iは包丁を動かしながらも、私の方を振り向いて笑顔を見せた。彼女は人参を刻みながら、少し頬を紅潮させていた。


「今日も遅くなったね。疲れた?お風呂沸かしてあるわ」


 その優しさに、私は思わず微笑み返した。


「ありがとう」


 これが当時の日常だった。穏やかで温かい日常。息子を失った痛みを共に乗り越え、お互いを支え合う中で、二人で築き上げた大切な平穏だった。


 息子が亡くなってから一年。私たちは少しずつ、その喪失と向き合いながら、生きる道を模索していた。


 ――その平和な日々を理解するには、私たちがどんな時間を経てきたのかを知る必要がある。それは今から四年前にさかのぼる。


 息子のTはまだ四歳になったばかりの頃で、ADHDと診断され、言語障害もあって、まともな言葉を話すことができなかった。


「ま、ま」「あー、あー」と、単語の断片や意味のない音を発することはあっても、文章として伝えることはほとんどできなかった。それでも、Tの表情や仕草には豊かな感情があふれていた。


「ほら、これで遊んでみようか」

「今日はどんな絵を描いたの?」

「うん、すごいじゃないか!」


 そう声をかけながら、私はTと向き合い、彼の世界を理解しようとしていた。


 けれど、Iはそうではなかった。


「もう、いい加減にして!」

「なんでちゃんと言うことを聞けないの!」

「また壊したの?!」


 彼女の声は日に日に大きくなり、疲れと苛立ちに満ちていった。


 ある日、TがIのスマートフォンを持ち出して走り去ると、彼女は激昂した。


 家中に怒号が響き渡り、Tは恐怖に震えて押入れに隠れたまま、一時間以上出てこなかった。Tは怯えた目で、膝を抱えて小刻みに震えていた。「あー、あー」とだけ、小さな声で繰り返していた。


 私は可能な限り家事も育児も分担し、彼女の負担を減らそうとした。


 少し一人の時間が必要なんじゃないかと思い、友人との外出も積極的に勧めた。


 すると、彼女は徐々に夜遊びに出かけることが増え、やがて朝帰りや、丸一日帰宅しないこともあるようになった。電話をかけても「友達と一緒だから」と取り繕うばかりで、その実態は私にはわからなかった。


 私は仕事と育児、そして家事をほぼ一人で抱え込むようになり、次第に精神的に追い詰められていった。それでも、家族の形を保つために、ただただ耐えていた。


 ある晩のことだった。


 息子が突然、高熱を出した。顔は蒼白で、口から泡を吹き始めた。


「大丈夫か?!しっかりしろ!」


 慌てて息子を抱き上げ、救急車を呼んだ。そして、Iに何度も電話をかけた。


 繋がらない。何度かけても、応答はない。


 友人にも連絡したが、「もう帰ったはず」との返事。


 病院に着き、医師が懸命に処置をする間も、私はIを呼び続けた。


 明け方になって、ようやく電話が通じた。


「何?こんな時間に…」


「Tが…Tが危ないんだ!すぐに病院に来てくれ!」


 彼女は驚愕の声を上げ、すぐに駆けつけると言った。


 だが、Tはその声を聞くことはなかった。


「ご家族の方……」


 医師の静かな声が、白い廊下に響いた。


「申し訳ありません。お子さんは……」


 医師の言葉が続く前に、私は理解していた。息子は、もういないのだと。


 Iが病院に駆けつけたとき、彼女は泣き崩れた。白い病室の床に膝をつき、声を上げて泣き続けた。その姿を見て、私は思った。


「まだ息子への愛情はあったんだな……」と。


 葬儀の後、Iは一変した。


 遊び歩くことはなくなり、専業主婦として家庭に尽くすようになった。毎日、きちんと食事を作り、家を掃除し、そして息子の仏壇に花を供えた。悲しみの中にも、彼女は強さを見せていた。


 私も心の痛みを抱えながら、Iと共に立ち直ろうと努力した。二人で支え合うことで、少しずつ前を向くことができた。


「また前を向こう」


「二人で乗り越えよう」


 お互いを思いやる言葉をかけ合い、手を取り合って進んでいった。


 日々の小さな喜びを分かち合い、時には一緒に息子の思い出を語り合いながら。そうして少しずつ、私たちの絆は以前よりも深まり、生活は安定を取り戻していった。


 息子の一周忌を過ぎた頃、私たちは少しずつ未来を考え始めていた。


「もう一度、子供を」


 その話題が、自然と二人の間で出ていた。Iも同じように考えていたようだった。彼女は時折、「次の子は女の子が……」と、笑顔で語ることもあった。悲しみを乗り越え、新たな希望が芽生え始めていた。


 だから、あの三年前の夕暮れは、そんな日々の一コマだった。息子を失い、それでも二人で力を合わせて乗り越え、温かい家庭を再構築していた、幸せな日常の一場面。まさに私たちが最も穏やかで満ち足りていた時だった。


 リビングのソファに座り、テレビを眺めていた。Iはキッチンで夕食の準備をしている。静かな時間が流れていた。


 その時だった。


 カタ、カタ。


 いつも聴きなれていた、小さな足音が聞こえた気がした。


「T?」


 思わず声に出してしまい、そして自分の愚かさに気づいた。息子はもういない。もう一年も前に。


 だが、確かに聞こえた。小さな足音が。


「なにか聞こえた?」


 キッチンのIに声をかけると、彼女は首を振った。


「何も聞こえないわ」


 気のせいだったのか。そう思いかけたその時、ソファが沈んだような感触があった。


 隣に、誰かが座った。


 振り向くと、そこには誰もいなかった。だが、ソファーの上に、Iのスマートフォンが置かれていた。


「このスマホ……」


 手に取ると、その瞬間、画面が明るくなった。LINEの通知だった。


『急に連絡が取れなくなって心配してた。一年ぶりに会わない?旦那さんがいない時に……』


 送信者の名前は男性のもの。見知らぬ名前だった。


「貴方どうしたの?」


 Iの声が背後から聞こえた。振り返ると、彼女は青ざめた顔で立っていた。たった今まで厨房で微笑んでいた妻とは別人のようだった。


「これは……誰からのメッセージだ?」


 私の問いに、Iは言葉に詰まった。その様子は、私たちが再構築してきた関係とはあまりにもかけ離れていた。たった数分前までの温かな雰囲気は、一瞬で凍りついたようだった。


「見間違いじゃないか……私、スマホはずっと…」


「お前の友人に確認するか?」


 その言葉に、Iの顔から血の気が引いた。彼女はゆっくりと床に崩れ落ち、泣き始めた。私たちが築き上げてきた信頼が、目の前で崩れ落ちていくのを感じた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 彼女の涙と共に、すべての真実が明らかになった。


 友人の紹介で知り合った男性との関係。息子が生きていた頃に一ヶ月ほど関係があった不貞行為。そして——息子が亡くなったあの日も。


「あの日も、お前はこいつと一緒だったのか……?」


 私の内側で何かが壊れた。怒りではなく、もっと深い、激しい感情が湧き上がった。


 息子への罪悪感。自分が気づいてやれなかった無力感。そして、それらすべてが、憎しみへと変わっていった。


「出ていってくれ……」


 震える声で、私はそう告げた。


 Iはその夜、実家に帰った。翌日、義理の両親と話し合いの場を持った。


 彼らは終始、頭を下げていた。「娘の不始末をお許しください」と。


 私の怒りは収まることなく、徐々に冷たい決意へと変わっていった。


「相手の男も呼び出せ」


 義父が娘のスマートフォンから相手に連絡を取った。繋がったものの、義父が問い詰め始めると、通話は切られ、以降は着信拒否された。


「誰なんだ、あいつは」


 問いただすと、Iは震える声で答えた。


「友人の知り合い……結婚してる人なの……」


 私はもはや話し合いをする気にもなれなかった。弁護士を通じて男には内容証明を送り、Iの友人も含め、慰謝料を請求する準備を始めた。


 Iからは「やり直したい」という申し出が何度もあった。義理両親からも説得があった。だが、私の心はすでに離れていた。


 最終的に、I慰謝料の請求はせず、代わりに財産分与なしで離婚が成立した。


 Iは最後まで「お願い……やり直したい」と言っていた。だが、私にはもうその言葉が響かなかった。


「愛情が、信頼が、一度壊れたら、もう元には戻らない」


 そう言い残し、私たちは別れた。


 離婚後、私は仕事に打ち込んだ。考えることから逃れるように、毎日遅くまで働いた。


「自分を責めるな」と周囲は言ってくれた。だが、自分の中の空虚さは埋まることがなかった。


 やがて月日が経ち、季節が流れていった。


 梅雨が明け、まぶしい夏の日差しが照りつける中、私は息子の墓前に立っていた。


 年に一度の命日。墓石を撫でながら、静かに語りかける。この日だけは、息子と向き合う時間として、大切にしていた。


「元気にしてるか…」


 花を供え、線香をあげようとした時、背後に気配を感じた。振り返ると——喪服姿のIが立っていた。


「こんにちは……」


 彼女は目を伏せ、小さな声で挨拶した。


「こんにちは」


 私も静かに返した。


 奇妙なことに、私たちはこの三年間、毎回この墓前でばったり出会っていた。まるで示し合わせたかのように。


 どうやら彼女は、私が墓参りに来る時を知っていて、同じ時間見計らって待っているようだった。


 私たちは墓前で並び、しばらく黙祷を捧げた。風が吹き、木々が揺れ、その音だけが静寂を破った。


「あれから、どうしてる?」


 私が尋ねると、彼女は少し間を置いて答えた。


「あの人から……結婚を申し込まれたの」


「そうか」


「でも、断った」


 彼女の言葉に、私は少し驚いた。


「彼は不倫が原因で奥さんと別れたらしいわ。職場も奥さんの実家だったから、辞めざるを得なかったって。今は再出発を決めて、私と一緒になれたらって……」


「お前はどうなんだ?好きだから、あいつと不倫したんじゃないのか?」


 彼女は強く首を横に振った。


「違う!それだけは本当に違うの……あの時は苦しくて、どこでもいいからに逃げたくて、ただそれだけだった。だから……本当に好きじゃなかった、それに貴方への想いもあるから、断ったの」


 再び同じ言葉を聞いたが、もはや私の心には何も響かなかった。


 義理両親からは時折、Iの近況が報告されていた。離婚後は遊び歩くこともなく、毎日パートに追われ、間男の元妻に対して慰謝料を返済し続けているとのこと。


 ある意味では、彼女は反省しているのかもしれない。


「どうして……」


 Iが突然声を上げた。


「どうしてあのとき、あなたが私のスマホを持っていたの?」


 私は少し考え込んだ。そうだった。あの日、気が付いた時には、スマホはソファーに置かれていた。


「あの頃、不倫していた罪悪感から、スマホを見るのが怖くなって……使わない時は、化粧台の鍵付きの引き出しにしまっていたのに」


 彼女の問いかけに、私は静かに答えた。


「あいつが持ってきてくれたんだよ」


「え?」


「小さな足音が聞こえたんだ。気がついたら、スマホが隣にあった」


 その言葉を聞き、Iは顔を両手で覆い、泣き崩れた。


「私……あの子に恨まれてたんだね」


 私は首を振った。


「違うよ。あいつはお前が好きだった。スマホを持って行ったのも、かまってほしかったからだよ、きっと……」


 Iは子供のようにえずきながら、顔を伏せたまま、小さく震えていた。


 息子は生前も、Iとのコミュニケーションを求めていた。言葉ではなく、Iのものを持ってきては「あー、あー」と言って注目を引こうとしていた。それは、彼なりの愛情表現だったのだ。


 吹き抜ける風が木々を揺らし、どこか遠くで風鈴が鳴ったような気がした。


 私はしばらく無言のまま、息子の墓の前で立ち尽くした。そこには何も語らぬ小さな石と、風に揺れる花束だけがあった。


 だが私の目には、その墓の前にちょこんと座る、小さな背中が見えた気がした。


 振り返ると、Iも同じ方向を、唖然としたように見ていた。何も言わず、涙を頬に伝わせながら。


 あいつは……Tはきっと今も、あの日と同じように、あの頃の笑顔のまま、俺たちを見ていたんだと思う。







 Dさんの語りはそこで終わった。


 グラスの中の氷はすでに溶け、淡い琥珀色の液体だけが残っていた。


 彼は最後の一口を飲み干し、静かに微笑んだ。


「実は、近々再婚することになったんだ」


 突然の告白に、私は驚いた。


「もう、このお店にも来れなくなると思うから、最後に話しておきたかった」


 Dさんは財布から紙幣を取り出し、それをコースターの下に滑らせると、立ち上がった。


「お相手は……?」


 私の問いに、彼は優しく微笑んだだけで、答えはなかった。Iさんなのか、それとも新たな誰かなのか、それは私には分からなかった。


 店を出ていく彼の背中を見送りながら、胸の奥がやるせなく締め付けられるような感覚に襲われた。


 照明の柔らかな光がカウンターを照らし、彼がいつも座っていた席には、ブランデーグラスの輪染みだけが残っていた。まるで、そこに何かを伝えたかった誰かの痕跡のように。


 Dさんに、どうかもう悲しみに囚われない日々が訪れますように。あの小さな足音が、今度こそ誰かを不幸に導くのではなく、優しく包み込んでくれるような未来でありますように。


 そう、心から願ってやまない。




 ――あれ以来、時々閉店後の静かな店内で、小さな足音が、テーブルの周りをめぐる気配を感じることがある。


 その度に私は微笑み、グラスを片付けながら呟くのだ。


「いつでも……来ていいよ」と。

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