第2話 桜の下の約束

 放課後の校舎を出ると、春の陽射しが頬を優しく撫でる。まだ少し肌寒いけれど、確かに冬の終わりを告げる風が吹いていた。


 教室を出る時、玲奈さんが「今日は一緒に帰らない?」と声をかけてきた。普段なら自分から誘うことはないから、少し驚いた。でも、断る理由なんてない。


 校門を出て、いつもの道を並んで歩く。少し前までは制服の上着を羽織っていたのに、今日は手に持っている。


「暖かくなったね」


 言葉に出したのは俺だけど、玲奈さんも同じことを考えていたのか、小さく頷いた。


「そうですね。春らしくなってきました」


 玲奈さんの横顔を見ると、柔らかな光に照らされて、いつもより穏やかに見える。髪の毛が風に揺れて、その一筋が頬にかかる。無意識に手を伸ばしそうになって、慌てて視線を逸らした。


「そういえば、公園の桜、もう咲いてるかな」


「あら、篠原くんは花見が好きなんですか?」


「そんなに特別ってわけじゃないけど…」


 言いながら、去年の花見のことを思い出す。玲奈さんと杏奈と三人で行った近所の公園。杏奈が無理やり持ってきたレジャーシートに座って、コンビニで買ったおにぎりを食べた。特別なことはしなかったけど、なぜか鮮明に覚えている。


「じゃあ、寄っていきます? 公園」


 玲奈さんの提案に、少し意外な気持ちになる。いつもは真っ直ぐ家に帰るタイプなのに。


「いいの? 勉強とか…」


「たまには息抜きも必要ですよ」


 そう言って、玲奈さんは珍しく柔らかな笑みを浮かべた。


「わかった」


 いつもの交差点を曲がり、住宅街を抜けると、小さな公園が見えてくる。正確には「さくら公園」という名前だけど、地元の人間はみんな単に「公園」と呼んでいる。


「あっ…」


 玲奈さんが小さく声を上げた。視線の先には、淡いピンク色に染まった桜の木々。まだ満開とは言えないけれど、確かに春の訪れを告げる花々が咲き誇っていた。


「咲いてる」


「綺麗ですね」


 公園に足を踏み入れると、ほんのりと甘い香りが鼻をくすぐる。桜の香り、土の匂い、そして春の空気。全てが混ざり合って、なんとも言えない心地よさを運んでくる。


 ベンチに腰掛けると、目の前で桜の花びらがひらひらと舞い落ちる。風が吹くたびに、ピンク色の雨が降るように見える。


「杏奈、喜びそうだな」


「そうですね。写真を撮りまくるでしょうね」


 二人で小さく笑い合う。沈黙が流れるけれど、それは居心地の悪いものではなかった。


 玲奈さんは目を閉じて、深く息を吸い込んでいる。その横顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。普段は冷静で落ち着いた彼女が、今は子どものように無防備な表情を見せている。


「篠原くんは、将来何になりたいですか?」


 突然の質問に、少し戸惑う。


「え? 将来…」


「急に聞いてごめんなさい。桜を見ていたら、なんだか考えてしまって」


 玲奈さんは少し照れたように視線を逸らした。花びらが彼女の肩に一枚落ちる。


「いや、大丈夫だよ。将来か…正直、まだよくわからない」


 真っ直ぐな答えが出せなくて申し訳ない気持ちになる。でも、本当のところを言えば、将来のことなんてまだぼんやりとしか見えていない。


「私も、実は…」


 玲奈さんは言葉を途切れさせた。いつもなら迷いなく話す彼女が、珍しく言葉を選んでいる。


「医学部を目指していることは、篠原くんも知っていますよね」


「うん。玲奈さんはずっとそう言ってたよね」


「はい。でも、最近少し考えることがあって…」


 風が吹き、また桜の花びらが舞い落ちる。一枚が玲奈さんの髪に引っかかった。


「あ、花びら」


 思わず手を伸ばして、玲奈さんの髪から花びらを取る。指先が彼女の髪に触れた瞬間、柔らかな感触と共に、ほのかな石鹸の香りが鼻をくすぐった。


「あ…ごめん」


 慌てて手を引っ込める。玲奈さんは一瞬だけ目を丸くしたけれど、すぐに微笑んだ。


「ありがとう」


 その言葉に、なぜか胸がぎゅっと締め付けられる感覚がした。


「それで、何を考えてるの?」


 話を戻す。玲奈さんは少し遠くを見るように目を細めた。


「医者になることが、本当に私のやりたいことなのかなって」


「え…」


 意外な言葉に、返す言葉が見つからない。玲奈さんは小さく息を吐いて続けた。


「小さい頃から、両親に『医者になりなさい』って言われてきて。頭がいいから、成績もいいから、みんなそう言ってくれる。でも、本当に自分がなりたいのかどうか…」


 言葉の端々に迷いが見える。いつもの自信に満ちた玲奈さんとは違う表情に、どう反応していいかわからなかった。


「そんなこと、今まで考えたことなかったの?」


「ないわけじゃないんです。でも、真剣に向き合うのを避けてきたのかもしれません」


 玲奈さんの指先が、スカートの端を無意識に摘まんでいる。緊張しているのか、それとも言葉にできない何かがあるのか。


「私、本当は…文学が好きなんです」


「文学?」


「はい。小説を読むのも書くのも好きで。でも、そんなことを言ったら、両親は笑うでしょうね。『そんな不安定なもので食べていけるわけない』って」


 風が止んで、辺りが静かになる。玲奈さんの吐露に、何と答えていいか迷った。でも、この瞬間、彼女は本当の自分を見せてくれている。それに応えなければ。


「俺は…玲奈さんがどんな道を選んでも、応援するよ」


 言葉が出てくるままに口にした。玲奈さんは少し驚いたように俺を見た。


「医者になるのも、作家になるのも、全然違う道に進むのも。玲奈さんの選んだ道なら、きっと素敵なものになると思う」


 桜の花びらが二人の間を舞う。玲奈さんの瞳に、夕陽の光が反射して、琥珀色に輝いていた。


「ありがとう…篠原くん」


 その言葉には、いつもより柔らかな響きがあった。


「でも、まだ決めたわけじゃないんです。ただ、考えているだけで…」


「それでいいと思うよ。考えることから始まるんだし」


「篠原くんは? 将来のこと、もう少し具体的に考えていることはありますか?」


 質問を返されて、少し考え込む。正直、具体的な夢があるわけではない。でも、この瞬間、なぜか一つだけ確かなことがあった。


「俺は…みんなが笑っていられる場所を作りたいかな」


「みんな?」


「うん。杏奈も、玲奈さんも、家族みんなが集まって、笑っていられる場所」


 言いながら、自分でも少し恥ずかしくなる。でも、本当にそう思っていた。


「それ、素敵ですね」


 玲奈さんの声が、いつもより少し高く響いた。


「笑わないでよ」


「笑ってません。本当に素敵だと思います」


 玲奈さんの目が優しく微笑んでいる。頬が熱くなるのを感じながら、視線を逸らした。


「あの…」


 玲奈さんが何か言いかけたとき、ポケットの中で携帯電話が震えた。


「あ、ごめん」


 画面を見ると、杏奈からのメッセージだった。


「杏奈から。『夕飯何時に食べる?買い物行くから早めに帰ってきて』だって」


「そうですか。じゃあ、そろそろ帰りましょうか」


 玲奈さんは立ち上がり、スカートのしわを軽く手で伸ばした。その仕草が妙に印象的で、目が離せなかった。


「うん」


 立ち上がって、公園を出る準備をする。夕暮れの光が、桜の木々を黄金色に染めていた。


「あの、篠原くん」


 歩き出そうとしたとき、玲奈さんが足を止めた。


「なに?」


「さっき言い忘れたんですけど…」


 玲奈さんは少し俯いて、言葉を探しているようだった。そして、ゆっくりと顔を上げると、真っ直ぐに俺の目を見た。


「私が何を選んだとしても、応援してくれますか?」


 その問いかけには、ただの確認以上の何かが含まれているように感じた。


「もちろん」


 迷いなく答える。


「約束ですよ?」


「約束する」


 桜の花びらが二人の間を舞い、夕陽の光が玲奈さんの横顔を優しく照らす。その瞬間、彼女の笑顔が、これまで見たどの表情よりも輝いて見えた。


「ありがとう、悠真くん」


 普段は「篠原くん」と呼ぶ玲奈さんが、初めて名前で呼んだ。その一言で、心臓が跳ねるような感覚があった。


「こ、こちらこそ」


 慌てて返事をする。玲奈さんは小さく笑って、また歩き出した。


 帰り道、二人の間にはいつもより少し近い距離感があった。肩が触れそうで触れない、そんな距離。でも、心の距離は確実に縮まっていた。


 桜の花びらが舞う公園で交わした約束。それは、これからの日々に、小さな、でも確かな変化をもたらすことになるのだろう。


 家に着くまでの道のり、俺たちは多くを語らなかった。でも、時々交わす視線の中に、言葉以上のものがあった。


 春の陽射しが徐々に弱まり、街灯が一つ、また一つと灯り始める。その光の中で、玲奈さんの横顔を見つめながら、俺は思った。


 この瞬間を、この感覚を、いつまでも覚えていたい。

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