第十七話 無音の慟哭 後編
恋仲の頬を伝う一筋の涙。
それ以上流れないよう、両手でせき止める。
上を向いて溢れ出ないようにする。
点滴の音が、彼女の感情のリズムになっていた。
ほんの数秒の静寂――指先一つの震えや、まつげの揺れだけで、恋仲の想いが痛いほど俺にぶつかってくる。
人前で泣くなんて、同情を誘っているだけだと思っていた俺。
人前で泣くのは、きっと負けだと思い込んでいた、恋仲。
――どれも、間違っていた。
人前で泣くって、誰かと繋がりたい、触れ合いたい。
そんな純粋な気持ちの表れなんだ。
後押ししてあげたい。この気持ちって迷惑かな?
「泣くってさ、案外悪くないんだよ。泣かない強さも、もちろん大事だけどさ」
俺が言うのもなんだけど、なんて言葉はもう必要なかった。
恋仲の瞳が閉じる。大きな雫が二粒。タブレットの上に落ちる。
恋仲はこれは違うよ? と言う風に、手を振りながら笑おうとするが、そうする度にまた新しい涙がぽつぽつと、雨のように重なっていく。
手の甲で拭おうとも、首を振ろうとも、笑顔を作ろうとも、止めることはできなかった。
「……」
俺はもう何も言わず、少しでも恋仲が安心できるようにと思って、頷いて微笑んでみる。無理に笑おうとしても喉が震え、胸が脈打つたびに堤防は崩れた。
恋仲はうな垂れ、流れる涙を懸命に手で拭い続ける。
タブレットには、彼女が今まで堪えていた残滓が雨のように降り注いでいた。
そっと、恋仲の指がタブレットをなぞる。
か細く揺れる人差し指で、文字を描いていく。
『普通になりたいんです』
俺に見せるでもなく、文字が液晶画面に浮かび上がっていた。
全てがその一言に詰まっている気がした。
恋仲は本当の気持ちを伝えようとしている。
俺はその言葉をしっかり胸に刻み付け、続く彼女の言葉を静かに待った。
はっきりと読み取れるように、椅子を移動して恋仲に近づく。
恋仲は悩んでいるようだった。
肩を揺らしながら、堪えようとも止まらない涙を受け入れたくない、でも吐き出したい。そんな葛藤に苛まれているような表情で顔を濡らしていた。
『私だって頑張れる』
誤字を何回も直しながら、少しずつ、少しずつ。
恋仲の気持ちが言葉となって世界に届けられようとしている。
「っ……ぅぅ……っ――」
恋仲の悲痛の嘆き。喉が鳴っているだけの息切れした呼吸音が、容赦なく俺の心を引き裂いていく。
俺なんかが想像するよりももっと先、彼女はひたすらに前を見続けてきた。
笑っていればきっと大丈夫だなんて、ぎりぎりの綱渡りをして後ろを振り向かず、暗い道を歩み続けてきたんだ。
今まで我慢してきた。
恋仲だって、苦しんで、痛くて、怖くて仕方がなかったんだ。
それを認めてしまうと、自分自身の力だけじゃもう立ち上がれない。
だから、その痛みすらもバネにして笑っていたんだ。
震える手でタブレットを固定し何度も。何度も。
文字を消しながら、涙で滲んだタブレットは恋仲の気持ちを代弁する。
ここに恋仲の想いの全てが詰まっている。
そう主張するかのようにモニターの光は眩かった。
『友達だってできる
遊びにだって行ける
好きなひとだってできる
だから わたしをみてほしい
みとめて それだけ
ほかはなにもいらない それだけ ふつうに
ふつうになりたい!
!!!
!!!
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
恋仲の全身全霊の叫びに言葉を失う。
濡れた画面はもう文字が見えなくなっている。
恋仲は嗚咽に似た呼吸を繰り返している。
画面には「!!!」だけが延々と書き込まれており、俺も恋仲を縛りつけている現実という鎖に絡まれて身動きがとれなくなっていた。
ひゅうひゅう。
空気を撫でる無音の慟哭。切り裂きたくてもそれができない。
力づくで鎖を引きちぎる。
止まらないテキストのスクロールを止めるよう、手を伸ばして手のひらで恋仲の指を包む。
抵抗するように恋仲の指の力が入ったが、ぎゅっと力を入れると力が抜けタブレットの叫びが止まった。
鼻を真っ赤にして、涙でびしょ濡れになった顔。
勇気と我慢と自己犠牲や見栄、色んな感情が入り混じっている涙と叫び。
恋仲は、震える呼吸を抑えながらじっと見つめている。
これが本当の私なんだと、ぎこちない笑みを浮かべながら。
これまでの自分の未熟さを思い知る。
恋仲は笑いたくて笑っているわけじゃない。笑わないといけない所まで追い詰められていた。
……普通になりたい。
元々は特別クラスに居た恋仲。夏休み後に普通クラスに移動してきたのは、そういった思いから考え抜いた行動だったのだろうか。
今受け止めきれなければ、二度と彼女には触れられない気がした。
――俺は立ち上がり、恋仲を抱きしめた。
屋上の時よりも強く、今度は呼び起すように。
その思いの丈を含んだ感情に、言葉の返答なんて要らない。
恋仲の顔は俺の体温よりも熱く、俺の胸も潤いを帯びてくるようだった。
やっぱり恋仲の体は細くて強張っている。
力を入れていないと、崩れ落ちてしまうのは間違いないと思う。
聞こえるのは俺の心臓の音と、恋仲の呼吸音だけ――
抱きしめる力を強めると、恋仲の両手がそっと俺の背中に回された。力はない。
添えるように俺のシャツを指先でつまんでいる。
しばらくそうした後、お互いが距離を離し、見つめ合うのは必然のように思えた。
恋仲の息が鼻にかかるような近い距離。
一生分の鼓動をここで費やそうとしているくらい、激しく脈を打っている。
揺らがない恋仲への気持ちが、膨張しないように抑えつけてくれている。
弱々しくすぼむ鼻。恋仲の呼吸――
濡れた頬、すうと吸い込む一呼吸の間。顔が近すぎて焦点が定まらない。
「――っ」
恋仲を安心させたかった。俺が味方になるって、本気で伝えたかった。
だから、これ以上恋仲の口から悲しみが零れないよう俺は唇で塞いだ。
恋仲の全身が波打つように小さくなる。
けど、拒まれることはなかった。
ほんの数秒、数分だったかもしれない。
お互い息をするのも忘れ、ただ、重なり合っていた。
唇が離れる。
最後まで、唇の皮は名残惜しそうにひっついていた。
恥ずかしさが後からやってくる。
恋仲は顔が見えなくなるくらい俯いている。
ゆっくりと顔を上げ、垂れた前髪から恋仲の瞳が透き通って見える。
「あ、いやっ、ごっ!」
ごめんと謝ろうとして、寸前で体に送り返す。
ここで謝るなんて絶対にだめだ。
またごめんで謝って、空気をぼかすのは前と変わらない。
恋仲はタブレットから手を離し、自分の唇に触れている。
俺も自分の唇に触っていたので、視線が交わると恋仲は目を細め小さな笑みを浮かべた。強がりでもない、柔らかな日差しのようだった。
「好きだ」って言うべきか悩んだ。生まれて初めて幸せだって思ってしまった。
何も言わないこの静寂も、恋仲と心で会話している気がして、そう悩んだためらいすら、ちっとも苦にならなかった。
たたた、と旋律を奏でるように恋仲がタブレットを操作している。
『私のどこが好きなんですか?』
えっ……。
もしかして、俺、「好きだ」と思ったことを、また口にしていたのか。
二度も、自分の意志とは裏腹に、そのまま言葉に出してしまうなんて。
タブレットで恋仲の顔は隠れている。俺の返事を待っている。
階段から転倒してしまったこと、病院に忍び込んだこと、停学のこと、琴音のこと。今だけは、このことを無かったことにして、ちゃんと俺の口から気持ちを伝えるべきだってそう思った。
「ぜ、全部だよ。優しさも、強さも全部……。一個も嫌いなところなんてないよ」
すうはあと、深呼吸する。
言葉を噛んでしまわないよう、からっからの口の中を唾液で潤していく。
「つらい時に笑う顔も、嬉しい時に笑う顔も、怒ったときに笑う顔も、その……好き。その笑顔で、恋仲はそう思ってないかもしれないけど、俺は救われたんだ。自分と向き合えた。俺も普通になれる気がしたんだ」
いつの間にかタブレットから顔を覗かせて、紅潮した顔を携えて、恋仲は俺に視線を送っている。
「だから、その……俺も一緒に恋仲と普通を探したいなって……」
誰も何も言わない時間が、ゆっくりと流れる。
ただ病室の静けさと、夕日が沈んでいく光、恋仲から漂う甘い香りに包まれている。恋仲は、タブレットをそっと脇に置いて、胸元を押さえる。
俺の言葉を受け入れてくれているように見えた。
目線を泳がせながら、俺の方を向いた恋仲は、ただ、こくんと頷いた。
タブレットもノートも使わない恋仲の返事。
その意味は俺にとって、世界が変わるくらいの大きな出来事で――。
――ぴこん。
静謐な空気をスマホの通知音が割り込んだ。
緊張が解け、お互い笑いながら俺はスマホを確認する。父か琴音だと思った。
『今から検査です。やっぱり一人は、ちょっとだけ、怖いです』
恋仲からのメッセージだった。
……?
恋仲は目の前にいる。
スマホなんていじってない。
――ぴこん。
『私は大丈夫ですから。でも602号室。来てくれる事、少し期待していたりして』
意味が分からない。なんで、恋仲からメッセージが来る?
今、目の前にいるだろ?
「こ、恋仲……スマホ、打った?」
ハッとした恋仲は、素早い手つきでタブレットに文字を打ち込む。
『スマホ、落としちゃったんです。多分、病院に運ばれる前だと思います』
……??
背筋に冷たいモノが走る。
メモ書きを見た時と同じ悪寒に襲われる。
鋭い金属の先端が全身の肌を撫でるように走る。
ぞくりとした戦慄に声が漏れそうになる。
『誰だ、お前は』
打ち込んでいた。
送信するとすぐに返事が来た。
まるでその言葉を待っていたかのように即座に。
『バレタ?』
画面上に、白く浮かぶ文字。
その一言だけで、病室の空気が一変する。
夕日が雲に隠れ、闇が室内に落ちていく。
俺も恋仲も、動けなかった。窓の外で風の音だけが鳴っていた。
『アハハハハハハ』
唯一、何者かわからない声だけが、無音の室内に――
声もないのに、あり得ないくらいはっきりと響いていた。
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