第十八話 声が棲む夜 前編

 ただのメッセージなのに、頭の中では加工された音声のような笑い声が木霊している。額から垂れる自分の汗は氷水のように冷たい。


『お前か、恋仲を落としたのは』

『ハハハハアハハハハ』


 会話が通じない。

 何を聞こうとも返ってくるのは意味不明な笑い声だけ。


 俺はいつからこいつと会話していた?

 いつから恋仲だと勘違いしていた? 


 両腕にくっきり分かるくらい鳥肌が立つ。

 どこまで恋仲で、どこからがこいつの言葉だったんだ?


 とん、と恋仲の手が肩に触れる。

 思わず「わっ」と、声を上げてしまった。

 恋仲が眉を落とし、心配そうに俺の表情をうかがっている。

 言うべきか、黙っておくべきか。どちらの選択も良い判断だとは思えない。

 しかし、このまま放っておくのは論外だ。


「恋仲、スマホを止めよう。誰かに盗まれてる」


 端的に説明して携帯を利用停止にしようと伝える。

 必要だったら警察に連絡したっていい。

 青ざめた表情になった恋仲は、慌ててタブレットに文字を打ち込み画面を見せる。

 画面に表示されたのは、携帯番号だった。


『ハハハハ、アナタハ、ユルサレルトデモ?』


 メッセージ内容が言葉を発してきた。

 あの朝、下駄箱から落ちた紙切れの記憶と繋がっていく。

 なんて書いていた? 思い出したくない。

 嫌な思考を振り切り、恋仲が示した番号へ電話する。


 数コールの後、「はい」と男の声がした。聞き覚えがある。恋仲の兄だ。


「蔦森です! 恋仲、ええと、妹さんのスマホが紛失しているの知ってますか! 誰かに盗まれているみたいです! はやく利用停止にして下さい!」

「……蔦森?」


 低い声でただ俺の名前を繰り返す。

 ちんたらやってる場合じゃないんだって!


「今、恋仲の病院に居ます。できるなら早く来てください! あ、その前に携帯を止めて下さい! 悪用されてからでは遅いんです! 全部説明しますから、早く携帯を!」

「……分かった。向かう。携帯も止める」


 それだけ言って電話は切れた。

 俺の声は思ったより大きかったようで、扉がノックされる。


「どうかされましたか?」


 巡回にきた看護師の介入によってその場の温度は急激に冷やされていった。


 そこからはもう説明するだけだった。

 途中で兄が駆け付け、また同じことを説明する。

 無断で入ったことは、恋仲と兄が助け舟を出してくれたお陰で今回だけと見逃してもらえたが、厳重注意を受けた。


 部屋からは追い出され、一階の出入り口前で兄と二人きりになる。

 そこで、簡単に恋仲の状況も説明してもらえた。

 大きな怪我はなく、明日には退院できること。

 ただ、声のことがあるから一日様子を見るために入院するだけだってこと。


 もう一つ。

 連絡を受けて駆け付けた時、誰かが、先生たちより早く救急車を呼んでいたらしいことも。


 * * *


 外はもう夜だった。

 部屋から出る際、気付かれないように手を振ってくれた恋仲が忘れられない。


「お前はつくづく意味不明な男だな」


 兄の第一声がこれだった。

 一生仲良くなれない、それはもう第一印象で決まっていた。

 適度な距離を保ちながら、幅広のベンチに腰を掛ける。


 兄は前を向いたまま話を続けた。

 なぜ電話先が親ではなく兄だったのか。

 どこかよそよそしかった恋仲のお母さんの素振りから、なんとなくそんな気はしていたけど。


 恋仲のことを思うと胸が苦しくなる。

 見てほしい、友達だってできる、普通になりたい。

 それが恋仲の願いだった。


 それはつまり、恋仲にとっての日常は、他人から見れば非日常で。

 俺たちが普段何気なく生活しているこの状況は、恋仲にとっては非日常的なこと。

 たぶん恋仲は、その非日常に憧れを持っていた。……名前を呼ぶことだって。

 問題ないと示すことで、存在を証明したかったんだ。


「最初にお前に言った言葉。撤回する」

「……」

「お前は、ちゃんとした人間だった」


 それだけ言うと、兄は立ち上がって病院の方に背を向ける。

 俺は黙って兄の背中を見つめていた。


 ちゃんとなんかしていない。

 でも、ちゃんとしようとはしている。

 素直にそう言ってくれたことに驚いたが嬉しかった。


「……ひな緒は一人だ。家でも。学校でも。そして、強がりで泣き虫だ。俺は出来る限り傍にいるつもりだが、兄としては限界がある。母さんからは――」


 兄の言葉が一瞬途切れ、迷いが浮かんだように表情が曇った。

 俺は慌てて手を振る。


「いえ、大丈夫です。恋仲が自分で話したい時に聞きます」


 兄は黙ったまま小さく頷いた。

 俺だって、俺の全てを恋仲に話しているわけじゃない。

 話す必要があるのかそれもわからないけど、それは今じゃない気がした。

 ましてや兄から聞くなんて違う気もする。


「そうか」


 大きな体は再びこちらに向き、ベンチに座ったままの俺に視線を投げる。

 兄の鋭い目つきは、威圧感がほんの少しだけ和らいで見えた。


「良ければ、これからもひな緒とよくしてやってくれ。ただ調子にだけは乗るなよ」


 踵を返して、風を切るように兄は病院の中へ入っていった。

 ポケットには通知で震え続けるスマホ。

 上から押さえつけながら、深く、長いため息を吐いた。


 ……まだ何も終わっていない。

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