第十八話【虹の灯光】
蝶の紫色の翅が再度ドクン――と脈打つ度に膨らみ、少しずつ巨大化していく。
それは、まるで“進化”だった。
――光の檻が軋み、
キィィィンと、
内側から膨張する力によって砕けた――
次の瞬間……砂埃が弾け飛び、暴風と共に巨大な翅が空間を覆い尽くす。
「檻が――破られた……!?」
すかさずリオが後退りながら叫ぶ。
可視光が霧散すると共に、
空気を噛み砕くような重低音。
檻の断片が空へ飛び、そのまま空気に溶けてゆく。
それと同時に――周囲の村人が苦しみ出すのが見てとれた。
「うあっ……!」
「う……っ!!」
村人たちが、次々に膝をつき、倒れていく。
それは単なる幻覚ではなかった。
「これは……魔力を吸われてる!!」
パティの声が震える。
蝶は、村人の魔力を吸いながらさらに急激に巨大化していく。
その時――
翅が震え、そこに刻まれた模様がひとつずつ“開いて”いく。
ひとつ、またひとつ――
それは――眼だった。
艶やかな紫に沈む黒。
薄闇の中にあって最も際立つ黒が……
じっと――こちらを見つめている。
感情も、まばたきもない。
ぬるぬる様の眼とも違う、ただ純粋にこちらを覗いてくる眼だった。
「ひっ……」
パティが小さく息を呑んだ音が聞こえた。
あまりの威圧感にリオもどうやら動けないようだ。
すると――その眼が、パティを睨んだ――
シノンは、すぐさまそれを察知し身を翻そうと構えるが――
ゴギュ――
音がした。
ゴギュ――ゴギュ――
刹那、パティの身体が跳ねた。
「ぐ――ぁっ!!」
「パティ――!!」
「い、痛い……! 魔力を流そうとすると、身体がッ――」
「こ、これは、まさか……パティちゃん! 魔法の使用をやめるんだ!」
リオが叫んだ、その時だった。
――パティの左腕で魔力が爆ぜた。
「あぁぁぁぁっ――!!」
「――!」
すかさずシノンが駆け寄る――パティは目に涙を溜めながら必死に耐えている。
「これは――おそらく闇魔法で魔力回路になんらかの作用を起こしています! 魔力の滞留が起こり、溜まった魔力が外に漏れた……!」
「あたしは、だ、大丈夫――あいつを、なんとかしないと」
「パティは一度休んでいてくれ――俺がやる」
「けど、シノン! あいつの魔法はあたししか防げない……!」
「先生、パティを頼む――」
シノンは返事を待たず、すかさず蝶の元へ走る――
空間にはまだ精霊の気配がする。
魔力もまだある――やれる。
右手を構え走りながら精霊に願いを届ける――
「ライトライ――」
……――。
しん――と
目の前に緞帳が降りたように視界が消えた。
あまりにも突然のことだった。
……シャン……
……シャン……
どこからか、鈴の音が聴こえる。
……シャン……
……シャン……
それは、自らの体の中から――聴こえていた――
なにか、くる。
刹那――
グワっ!と、心臓が鷲掴みにされた。
音は止まない。
そして、徐々に、痛みが身体中を巡る――
それは魔力回路に直接異物を流されるような、
そんな感覚だった。
「あ、うああぁぁぁぁっ――!」
魔力回路が直接痛覚と繋がったような、耐えきれない激痛がシノンを襲う。
蝶の魔力が空気中のアルカナを侵食し、己の体に侵入しているのがわかる。
これが闇魔法なのか……と、冷静に、絶望を味わう。痛みはもはやシノンを飲み込もうとしていた。
頭蓋が震え、内臓がひしゃげ、暗闇の中、ただ終わりの時を迎えているかのようだった――
しかし――ふと、声が聞こえた。
この声は……
――イヤダ……セカイガ……ニクイ
ツライ……ヤメテ――コワスコロスコワスコロス
サミシイ――
――サミシイ……ヨ……
蝶の。壊れたアルカナの声……
アルカナを通して蝶とシノンは接続されていた――
それは音ではなかった。
意味の断片が、悲鳴のように心に響いてくる。
鋭く、滲んで、ぶつ切りのまま。
けれど確かに“伝わる”――理解ではなく、“共鳴”として。
触れてもいないのに、胸の奥が軋む。
心の底に落ちていく感覚。
まるで自分が、この存在の内側へ吸い込まれていくかのように。
空間を漂うその声は、誰に届くともなく、ただ震えるように滲んでいた。
怒りでも、憎しみでもない。
それは、どうしようもなく――孤独の声だった。
そして、見えた。
これは、記憶だ――
蝶は、ただ生きていた。
永く、永く、魔力だけを求めて。
――だが、孤独を知ってしまった。
世界から必要とされていないことを気付いてしまった。
自分が世界のエラーであることを理解してしまった。
それに気付いた時――蝶は壊れた。
本当はこんなことをしたくはなかった。でも、本能がそうさせる。破壊衝動が、本能が、人を壊さずにはいられない……
世界を壊さずにはいられない――
――タスケテ。モウイヤダ。キエタイ。タスケテ。タスケテ。タスケテ。
もしこのまま蝶を放っておけば、世界を壊す存在として顕現してしまう。
それは蝶の意思ではないけど、壊れたアルカナとしての本能がそうさせてしまう。
そういうことか――
蝶の中心から放たれる孤独な感情の波に、シノンは心を自然に寄り添わせる。
触れてもいないのに、伝わってきた。
壊れた存在は、ただ――ずっと何かを待っていた。
閉ざされた空間の中で。
祈るように、泣くように。
世界が自分を必要としてくれる時を――ただ、それだけを。
心の奥に積もった“悲しみ”が、今この世界を壊そうとしている。
――そうか。
「……わかった」
痛みの中、暗闇の中、だが確かにシノンは精霊の存在を感じた。
周囲の光が、わずかに彼に収束していく。
シノンの目が、静かに細められた。
「お前は、ずっと――叫んでたんだな」
胸の奥から、自然とあふれる言葉。
同情でも、赦しでもない。
ただ、静かに寄り添うような――その声で。
「……俺だけは、お前を認めてやる」
俺も――同じなんだ。名を与えてもらって、意味をもらったんだ。
――でも、お前はもっともっと永い間苦しんでたんだもんな……
その瞬間――
鈴の音が止んだ――
風が身体を撫でた――
視界の端に光が滲んだ――
身体中に温度が戻ってくるような感覚――
指先、つま先、背中、胸元、首筋、そして顔に体温が巡る――
そして――
窓ガラスが割れるように、闇が晴れた――
「シノン――!」
弾けた視界でパティがリオに支えられて立っていた。
肩で息をしながら、掌をこちらに向けて、おそらく痛みの中放ったであろう魔法の軌跡が見てとれた――
あぁ……
俺は、何度もパティ救われた。
救われたからここにいる。生きている。
そうだな――うん――
今度は、俺が救う番なんだ。
村も、パティも……
――あいつも……
その瞬間――
神社の精霊たちが――ふたたび共鳴した。
彼の想いに、精霊たちが反応する。
精霊の溜まり場――エーテルノードから無数の光が、彼のもとへ流れ込んでくる。
さっきの比ではない。そこにいる精霊が全て彼に力を貸すような、そんな瞬きだった――
空気が、色を変える。
そして、世界が、共鳴を始める――
まるで精霊と一体になったような、自分が“世界”に溶けたようなそんな感覚がシノンに宿った。
いくつもの精霊、いくつものアルカナを感じる。
俺は――孤独じゃないんだな。
その想いに呼応するように、精霊たちがシノンの身体を包み込む。
精霊にも、こんなにも――いろんな想いがあったんだ。
「……救いたい気持ちは、お前たちも一緒ってことか。……うん。やろう」
そう呟いた瞬間、シノンの足元から光の粒子が、舞い上がった。
最初は白だった。
けれど次第に――赤、青、黄、緑、紫、橙、藍――
色が重なり合い、七色の軌道が螺旋を描いて天へと昇っていく。
そして――
シノンの身体は、虹の光に包まれていった。
肩が、手が、髪が、ひとつの光の像のように、ぼやけ、揺れ、発光する。
それは“覚醒”――
精霊との完全な共振――“真なる願い”の発動だった。
* * *
セカイガ――ニクイ……
巨大蝶が、神社の屋根の上からこちらを見ていた。
戸惑いと――
哀しみと――
迷いと――
先ほどまでは感じられなかった感情がシノンに届く。
シノンにはその眼が救いを求めているかのように見えていた。
シノンは、目を瞑るとわずかに顎を引く――
そして、蝶の想いを反芻する。
本当の願いを手繰り寄せるように。
そして、双眸が蝶を見据えた――
「――
その声とともに――
神社の天頂から、光が降った。
空から舞い降りる、幾千もの光糸。
それらはまるで、ひとつひとつが意志を持つかのように絡み合い、織り合いながら、ゆっくりと境内全体を包み込んでゆく。
今度は、封印ではなかった。
光は檻ではなく、“結界”として顕現した。
護るための檻。
救うための檻。
――世界そのものを、壊れかけたこの“場所”ごと、抱きしめるように。
まるで、神々の御業。
まるで、祈りそのもの。
いつの間にか、幻影蝶の闇魔法に囚われていた人々の幻覚が、静かに溶けていた。
凍りついていた意識が、緩やかにほどけていく。
「す、すごい……こんなこと……!」
リオが目を見張り、息を呑む。
その声すらも、光に包まれて溶けていく。
「……まるで、奇跡の魔法――」
パティが、感嘆の声をあげる。
――その瞳には、確かに映っていた。
中心に立つ、ひとりの少年。
無数の精霊の光を背に受け、まるで――神の代行者のように。
境内を包む光の檻は、もはや“魔法”ではなかった。
それは、世界がシノンに与えた“赦し”だった。
精霊たちが贈った、たったひとつの祈り。
――“彼になら託せる”という、光そのものの信頼。
その光景は、もう誰の目にも――“奇跡”としか、映らなかった。
村人たちが顔を上げる。
「これは、精霊の……奇跡か……?」
「なんと神秘的な――」
「夢なのか……これは?」
「救世主だ……」
境内を包む光は、静かに、けれど圧倒的に降り注いでいた。
その中心に立つのは、どこから来たかもわからぬ――しかし、誰よりも優しく、強く立つ青年。
風が静まり、洞窟内の紫光がその身をかしずくように、あらゆる精霊が彼に寄り添っていた。
ミュンドは、その姿を見つめていた。
神でもなく、奇跡でもなく――ただ、ひとりの人間。
それでも。
「……なんという光景じゃ……」
胸の奥で、何かが溶けるようだった。
誰よりもこの村の歴史を知る者として、これほどの“光”を見たことがあっただろうか。
影の中にあるこの村を、これほどまでに照らしてくれた存在はいただろうか――。
ミュンドが、口の奥で、祈るように呟いた。
「――まるで……“勇者”じゃないか……」
その言葉は、老いた者の限りない敬意と、未来への願いだった。
そして――その空気を裂くように、ひときわ強く声が響いた。
「シノン――いっけえええええ!!」
パティだった。
叫んだその顔は、笑っていた。
希望があった。
信じていた。
――あたしが信じたものは、ちゃんと世界を変えた。
――あの日、あたしのした行動には意味があったんだ。
――シノンがあたしの世界を変えてくれるんだ。
そして、彼は応える。
足が、地を蹴る。
風が生まれ、光の中に身を投じる。
まっすぐに、迷いなく。
壊れた核へと――走り出した。
「貫け――
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