第十六話【それは、闇を払う闇】
消えかけた意識の中――顔を上げた視界の端で、蝶が浮かんでいた。
ふわりと、素知らぬ姿で舞っている。
その姿が、なぜか“笑っている”ように見えた。
――うるさい……やめろ……!
叫びも、もはや喉の奥でくぐもった呻きに変わる。
自分の声すら、自分に届かない。
痛みと混濁の中で、頭の奥に冷たい“なにか”が入り込んでくる。
見えない指先で、脳をかき混ぜられているような――そんな、悪寒。
ざわり、と耳元で何かがささやいた。
(……まただ。あの、気配――)
指の先がしびれ、脚の感覚が薄れていく。闇が、じわりじわりと意識を侵食していく。
そして――
目の前に、それは“現れた”。
粘膜のように泡立つ、黒紫の液体。
どろりと地を這うその体には、いくつもの触手が体毛のように蠢いている。
すると――表面の泡が、一つ、二つと膨れ――
ぼこっと“目”が、開いた。
ぼこっ――またひとつ。
ぼこっ――またひとつ。
ぼこっ――ぼこっ――ぼこぼこぼこぼこぼこ……!
たくさんの、目が、目が、目が。
シノンを見ている。
意味を成さぬはずの生物が、確かな意思でこちらを睨みつけている。
すると――何か“心の底”に響く、呪詛のような囁きが、直接シノンの脳内を満たしていく。
「サミシイ……ニクイ……ホロベ……イラナイ……ナニモカモ……」
心が引き裂かれるような音がする。
嫌悪とも、恐怖とも違う。もっと深く――存在そのものを侵すような、黒い何か。
闇の中――
ぬるぬる様はそこに在る。
上から下から見つめている。
「やめろ……俺は……違う、俺は……!」
声は届かない。
どろり、と触手が視界を裂き、身体にめり込んだ。
「……!」
声にならない声で、痛みに耐える。
これは、幻覚なのか、現実の暴力なのか――
意識が、揺らぐ。
痛みも声も、もはや遠い。蝶の幻影が、上空で舞う。
もう――幻覚の中に堕ちていく感覚に抗えない。
そして、目の前の“ぬるぬる様”が、全身を包むように押し寄せてくる。
黒い触手が、空間ごとシノンを喰らう――
幻覚が、意識に侵蝕し、知覚は奪われた。
無に、堕ちていく……
その瞬間――
ザンッ――!
闇が、裂けた。
黒を切り裂く、細く、鋭く、淡い“光”。
そこに、声が届く。
「おかしいのは、みんなだよ――!!」
パティの叫びが、夜のムーンシェイドに轟いた。
震えていた。
その声も、手も、足元も。
けれど、立っていた。
彼女は――切り裂かれた闇の真ん中に立っていた。
「目の前の人の顔も、声も、確かめもしないでっ……!」
怒りで顔を歪めながらも、声はまっすぐに空を裂いていく。
「怖いからって、見たいものだけ見て!都合のいい幻覚に逃げて!」
「ぬるぬる様に押しつけて、それで終わり!?」
「ふざけんな……!!」
パティの手が、ぎゅっと握りしめられる。
指先に集まるのは、深い深い魔力――しかしそれは、先ほどの“幻覚を引き起こす闇”とは違っていた。
どこまでも澄み、冷えきっているのに、どこかあたたかい。
その場にあった“幻覚の闇”が、彼女の放つ“もう一つの闇”によって、静かに、だが確かに、かき消されていく。
パティの指先が、静かに夜の空気をなぞった。
そして口の中で言葉ではない何かを呟く。
――詠唱。それはアルカナへの確かな願い。
そして、その唇から確かな意志を込めた呟きがこぼれる。
「……
ざわり、と空気が揺れる。
蝶の魔法に上書きするように、乱れた魔力の回路を結び直す魔法――
それはまるで、癒しの魔法だった。
シノンを中心に――一陣の清冽な闇が、泡のように広がった。
ただ、目を閉じて心を澄ませたときのような、深くて静かな、星の煌めく夜のような――闇だった。
“ぬるぬる様”の姿が、ふっと溶けるように消えていく。
村人の表情から、歪んだ恐怖がゆっくりと剥がれ落ちていく。
「……あ」
誰かが、呟いた。
目の前にあった“化け物”が、いつの間にか消えていた。
拳を振り上げていた手が震え、石を持った手が、そっと地面に落とされた。
闇の中に、光が射すように。
そこに、パティがいた。
“本物”を見据える少女が。
その手が震えていても。
呼吸が乱れていても。
――その姿は、確かに“希望”だった。
「誰かのせいにして楽になりたいなら……」
彼女は、怒りの残滓を押し殺して、静かに言った。
「まず自分が、“ちゃんと見る”ことから始めてよ……!」
言葉の重みが、風になって通り抜ける。
村人たちは、何も言えなかった。
目を伏せた者もいた。
手を握りしめたまま立ち尽くす者もいた。
それでも――
夜の空気は、静かに、変わり始めていた。
* * *
「シノン!」
パティが肩で息をしながら駆け寄ってきた。顔色はまだ青く、足取りもおぼつかない。それでも、彼女の目はしっかりとシノンを捉えている。
「ぬるぬる様の調査、引き継いでくれたんでしょ?……ありがとう」
「無理するな。もう身体は大丈夫なのか……?」
「平気! あたし、最後まで――ちゃんと終わらせるから」
気丈に笑うパティの声に、わずかに震えが混じっていた。それでも、彼女の中の火は消えていない。
「パティちゃん、魔力の自然治癒力も尋常じゃないみたいですね……あまりにも早い回復――ん?」
リオが指差した先。空を裂くようにひらりと、蝶が村の住宅地の方へと舞い上がっていく。
「蝶があちらへ!」
「もう逃がさない……!」
三人は顔を見合わせ、すぐさま走り出した。
「ねえ――」
走りながら、何かに気付いたようにパティが言う。
「……あいつ、逃げてるんじゃないかも」
彼女は前を見据えながら強く言い放った。
「あいつ、神社に向かってる。――あっち、いま避難場所になってる」
「まさか――人の多い場所で一気に魔法を!?」
その時、シノンは思い出した――
あの場所。一人で行った神社の境内。
静かな光が差し込み、精霊たちがまどろむように集まっていた、あの空間。
「ふたりとも……神社の境内、“光”が集まってる場所がある……! あそこなら精霊の力が最大限使える!」
それは、精霊が自然と集まる――この村でも特異な“聖域”だった。
そして、思いついたひとつの可能性に、彼は小さく呟く。
「一か八か、試してみたいことがあるんだ!」
その瞬間――それは見えた。
夜の帳の向こう、木立の合間。
神社の方に向けて、静かに舞うひとひらの蝶。
その翅は――明確な“意思”をもって、空を裂いた。
シノンは、そっと息を呑む。
「……急ごう」
石畳を走り抜け、神社への道を辿る。石段の先――ヒカリゴケが闇の中で波打ち、息づいていた。
完全回復とはいかないパティも――
足を痛めたリオも――
殴られ満身創痍のシノンも――
その表情には覚悟が馴染んでいた。
* * *
神社の屋根が、見えた。
石畳の参道、その先に広がる境内。
そこにはすでに――異様な空気が漂っていた。
――神社の境内、避難していた村人達や長老会の男たちの顔にはすでに恐怖が張り付いている。
「目が……ぬるぬる様が……あぁ……っ」
「な、なんだ……足元が……崩れ……!?」
そこにいた村人や長老たちは、すでに“闇魔法”の中に囚われているようだった。
「……おまえらのせいだぁああああッ!」
ひとりが叫び、膝をついた。
「違う!私は……私は正しい……!!」
もうひとりが顔を覆い、嗚咽する。
蝶はその中心に舞っていた。
まるで、“その場のすべてを玩んでいた”かのように――
「今だ、囲い込む!」
シノンの声が響いた。三人は一気に神社境内へ駆け込んでいく。
そして、決戦の幕がいま――静かに、音もなく上がった。
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