第十五話【追跡、そして――】


紫の翅が村を躍る。

蝶の軌道は不規則だった――

軒と軒の間に入ったと思えば、また別の軒下の隙間から姿を現す。

中層部の建物の隙間に入ったと思えば、次の瞬間には下層部の闇の中から姿を現す。

まるで風の流れを読むように、縦横無尽に村を舞う。


そしてその位置を捉えたと思った瞬間には、蝶は明らかに予想を裏切る軌道で現れては消え、またひらりと現れたかと思えば、次の瞬間には霧のようにかき消え、すぐ別の路地で揺れている。



蝶を追うシノンの動きは、獣じみていた。上層から中層の屋根に飛び移り、その屋根を蹴る反動で一気に加速する。そして、指先で木組みの梁を掴むと、そのまま回転しながら中層の庇へ滑り込む。


「はっ――!」


足場の狭さなど意に介さない。傾斜のある岩肌を蹴って、階段を三段飛ばしで下層へ。欄干を手すり代わりに使って飛び移り、風のように抜けていく。



しかし、蝶はまるで、村の迷路を知り尽くしているかのようにシノンを翻弄した。上層から中層へ、中層から川面に膨らみ下層の路地へ――


それに追いつくため、シノンも更に“縦”を意識した動きに切り替える。もはや階段は使わず、屋根の勾配、木組みの梁、ランタンを吊るした支柱すら足場にして跳躍する。


身体の軸はまったくぶれず、その一歩ごとに、全身が空を裂くような精度で前へ進む。


下層の広場を飛び越え、濡れた木道を跳ね、低く飛び出た崖の端にしがみついて方向を変える。


村が、“立体の舞台”として彼を歓迎しているかのようだった――



しかし、蝶には追いつけない。家の影から現れては消える紫の影。そのたびに、村の空気が、ざわめく。


「……ぎゃあぁ!」「ぬるぬる様が――!」


叫ぶ声。怯え、座り込み、頭を抱える村人たち。


(くっ……! 村人が……!)


蝶は、ただ風に溶けるように舞っていた。

だが、その紫の幻想に睨まれると、村人たちは奥底を揺さぶられるようにして、恐怖に呑まれていく。


蝶は闇魔法を行使している――

理解が、結びつく。


アルカナ語を使い、魔力に干渉する――闇魔法。蝶はそれを使っていた。対象が持つ“魔力”にアルカナを通じて介入し、恐怖や幻覚を引き起こしている。


やはり、魔物も魔法が使える――!


蝶は、逃げてなんかいない。壊す獲物を、静かに“選んでいる”。


「……この村全てが――狙われてる……!」


言葉と同時に、シノンは橋の欄干を蹴り、低く跳ねた。


木の枝にぶつかるように宙返りして、屋根の向こう側へ抜けた。


下層へと降りた蝶は、水際をすれすれに滑空する。怪しげな動きに、避けた村人が、倒れ込む。


「きゃあああっ!」


次の瞬間、その村人が目を見開いて震え出す。


「や、やめて……あたしを見ないで……あたしを見ないで――!」


幻覚を見せられているのか――


(あれが……あれこそが、“ぬるぬる様”の正体……!)


シノンは、目の前の蝶を見据えた。


「逃がさない」


そう呟いたその瞬間、蝶がひときわ大きく羽ばたき、村の闇の奥へと吸い込まれていく。


「まずい……! あっちの方角は――!」


その方角には、商業区があった――





* * *




蝶が、ふわりと商業区へ繋がる橋の上を滑るように飛び、商店の並びに吸い込まれていく――


次の瞬間、商業区のあちこちで呻き声が重なり始めた。


「やだ……やだ、やだ……ッ!」

「火だ……身体に火が! 燃える! 燃えて――!」


空を仰いで叫ぶ者。身を丸めて泣き出す者。建物の壁に頭を打ちつける者――

悲鳴は連鎖し、商業区の空気をじわじわと歪ませていく。


――どこだ!?


姿は見えない。しかし、幻覚の範囲は徐々に広がり、通りに並んだ店々の中からも商店街の奥の方からも、うめき声や叫び声が聞こえていた。


このままでは、村全体が飲まれてしまうのも時間の問題だった。


そのとき――


通路の先でひとりの村人が崩れ落ちた。

プツン――と電池が切れたように動かなくなり、うつろな瞳で地に伏す。


「……やめて……あたしじゃない……」


他にも、数人の村人が次々に倒れ、呻き、動かなくなる。


(……あれは――何が起こっている……?)


倒れた村人に目を向けると、皆が苦しそうな顔をして気を失っている。まるでパティと同じような状況だ。


(これは――魔力が失われているのか……?)



「――なるほど。なるほどなるほど……っは、これは……怖い……ですねぇ……っふ、ひぃ……」


その声に、シノンが振り返る。


リオが、住宅区から商業区への橋をよろよろと駆けてきた。

肩は激しく上下し、額には玉のような汗。背を丸めて膝に手をつき、荒く息を吐き続けている。


「っは……っひ……っは……す、すみません……ちょっと、足を痛めてしまいまして……」


ゼェゼェと喘ぎながら、顔だけは無理に持ち上げ、ひきつった笑みを浮かべる。


「……あれですね……上層から飛び降りるのは……完全に、選択ミスでした……脚、もう、動かないです……」


シノンが駆け寄ると、リオは手をヒラヒラと振って制しながら、橋にもたれかかるように座り込んだ。


「いやほんと……あの……僕、基本的に……机の前が主戦場なんですよ……この手の運動は……向いてないんですって……」


それでも、口元にはかすかに飄々とした笑みが残っている。


「どうやら……今回のぬるぬる様は……“ガチ”のやつでしたね……っふ、ひぃ……」



息を整えようとしながら、リオは騒ぎの中心に目を向ける。

蝶の姿は見えていない――だが、周囲の異常は確実に読み取っているようだった。


「この力は、凄まじいですね。まるで“集団幻覚”。いえ、正確には――」

シノンは、リオの言葉を遮るように問いかけた。

「……あれ、体内の魔力が失われているのか?」


「ええ。おそらく、あの蝶は一度“命令”だけを下したんですよ」


「命令……?」


「闇魔法です。魔力に“干渉”して、魔力の回路に誤作動を起こす。

一度それが発動すると、あとは本人の中で魔力が暴走して、放出が止まらなくなる」


リオの声が少しだけ低くなる。


「で、その漏れ出した魔力を――闇魔法で“回収”してるみたいです」


トリガーは一瞬。

あとは放っておけば、勝手に魔力は消耗し、身体も心も削れていく。

幻覚をトリガーにして魔力の放出を促す魔法。そして魔力が無くなれば気を失い三日三晩熱を出す――


「……“魔力回路を壊す呪い”みたいなものか」


「まさにその通りです。しかも、仕組みとしては……非常に効率がいい」


そのとき、商業区の奥の方向から新たな悲鳴が上がった。


「ぬるぬる様が出たぞぉぉぉ!!」

「めめめめめめめめめめめめめめめめ!!!」


(これはもう……戦いじゃない。侵蝕だ……)


それはもう“蝶の攻撃”ではなかった。

この空間そのものが、ゆっくりと――だが確実に、“魔法の領域”へと書き換えられていた。


もはや一対一の戦いではない。

これは、空間を掌握する側と、それに飲み込まれゆく側の――領域戦だ。




* * *




その瞬間だった。


まるで、村の“心臓”に手を差し込まれたように――空気が、ひとつ脈打った。

風が止まり、灯火が揺らぎ、人々の視線が――一斉に、シノンへと向けられる。


だが、その目は、“シノン”を見てはいなかった。


「……また、来た……っ! ぬるぬる様……!」

「殺さないと……やられる!」

「化け物だ……! あいつが息子を殺した……!」


明らかに、何かが“重なっている”。


それぞれが最も恐れているもの、憎んでいるもの、許せないもの――

その“像”が、シノンに上書きされているかのように。


「――違う、しっかりしろ……!」


だがその“違い”を、誰も認識できなかった。

もはやこれは、個人の幻覚ではない。共有された錯覚だった。


「殺せ……殺せェッ!!」


叫びと共に、暴走が始まる。


リオの顔色が変わる。

「シノンくんに――全部の“敵意”が向いた……!」

 

だが――人の波に飲まれリオも動けない。


拳を振るう者。石を投げる者。棒を握る者。


誰もが、共通の“幻”を見ていた。

もはや恐怖も怒りも混ざり合い、ただ“そこにいる恐怖の元”を壊そうとしていた。


「これも……闇魔法なのか……!?」


だが――気づいても、もう遅かった。


右肩に石が直撃し、回避の姿勢が崩れた。

すかさず、左脇腹に鈍い衝撃。棒の一撃がねじ込まれる。


「がっ――あ……っぐぅ……!」


拳が頬をえぐる。頭蓋が軋むような音がした。

背を蹴りつけられ、脇腹に誰かの足がめり込む。肋骨が軋み、骨の内側から痛みが湧き上がる。


熱い鉄の味が口の中に広がる。

息が詰まり、肺が痛みに悲鳴を上げる。


――膝が崩れ、視界が斜めに揺れる。


その時、背後から押し倒され、額が石畳に叩きつけられた。

マズい――! 倒れたら、逃げられない!


逃げる隙も、反撃の余地もなかった。

足首を掴まれ、地面を引きずられる。

何人に囲まれているのか、もうわからない。

覆い被さるように、殴打は続く――


「っ……が、は……っ!」


避けれない……!


誰かの足が肩を踏みつける。

逃れようとした腕を、別の手が乱暴に掴んだ。

熱いものが流れ落ちるのを、頬に感じた。額か、口の中か、それすらもうわからない。


「やめろ……お前らしっかりしろ――!」


言いかけた声が、喉の奥で潰れる。

誰かの拳が、顔面を狙って落ちてきた。


耳鳴りがする。視界が白くチラつく。

暴言と暴力が五感を支配する。


「殺せ……!」

「化け物を……殺せぇ!!」


誰かの言葉が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って耳に刺さる。

感覚が、ひとつずつ消えていく。痛みと共に、“自分”という輪郭が削られていく。



意識が、沈んでいく――

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