第十一話【光に触れて】


昨夜の会議から、一日が経った。


――ぬるぬる様は、幻覚を見せている可能性がある。


そう結論づけた一同は、それぞれの動きを開始していた。


リオは朝から部屋に籠り、「僕はちょっとまとめたいことがあるので!」などと宣言していた。

扉の向こうからは、ぶつぶつと呟く声と、時折、何かを落とす音や軽い叫び声が聞こえてくる。


ときどき、「光……」「干渉率……」などと断片的な単語も聞こえたが、

本人は「大事なまとめ作業なんです!」と、終始押し通していた。


ミュンド長老は、早朝から長老会へと出向き、村の現状を聞き取ってくると言っていた。


宿に残ったシノンは、長老に代わりパティの様子を見ていた。 


ベッドに横たわる少女の顔色は、昨日よりも明らかに良くなっていた。微かな寝息は穏やかで、今にも目を覚ましそうな気配さえ漂っている。


ふと窓辺に目をやると、ムーンシェイドの村がゆるやかに息づいているのが見えた。


川をゆく小舟、石畳を行き交う足音、どこかで響く子どもたちの笑い声――。


この静けさの中にいると、まるで村で異変が起きていることなど、幻だったかのように思えてしまう。



「元気か?」


シノンはそっと、ここにいるはずの精霊に対して問いかけるように呟いた。


……しかし、返事はない。


気まぐれなやつらだ、とシノンは口元にかすかな笑みを浮かべる。


それでも、感じている。そばにいる。


まるで無邪気な子どものようで、時に母のような温もりを纏った、不思議な存在。



自分の正体も、力の理由も、まだ何ひとつわかっていない。


けれど――焦りはなかった。


精霊が、まるで「ここにいていい」と伝えてくれているような、そんな気がしていた。


「ありがとな……」


そのひとことに、確かに伝わる喜びの気配があった。


これも、自分だけの特権なのだろうか――そんなふうに思いながら、シノンの胸に微かな温もりが灯る。


 

――コン、コン。


静寂を破るように、扉がノックされた。


「おるか? 入るぞい」


声の主は、ミュンド長老だった。


開け放たれた扉の向こうから、長老は一枚の紙束を差し出す。



「これが今、村で起きてることをまとめた書類じゃ」



受け取った紙には、整った筆致でこう記されていた。


 



【村内状況・観察報告書】


調査対象:ムーンシェイド村内における異常事象の聞き取り結果

記録補助:村内巡回記録班、聞き取り担当数名



1. 子供の不可解な行動

・数名の児童が、誰もいない空間に向かって会話や笑いかけを行っていたとの報告あり。

・特に年少児童において、「向こうにお姉ちゃんがいる」「笑ってた」などの発言が確認されている。


2. 睡眠障害および不安感の訴え

・成人男性より「昨晩、後ろから誰かに見られていた気がして眠れなかった」との証言。

・他、複数名から「人の気配を感じる」「影が揺れた」など、感覚異常に類する発言が散見される。


3. 視覚異常の目撃例

・夜間に「スライムのような影を見た」との報告が複数。

・いずれも形状・位置は不確定で、共通性には乏しいが、“ぬるぬるしていた”という証言が多い。


4. 体調不良の拡大傾向

・村全体に倦怠感・微熱・頭痛などの症状を訴える者が増加中。

・発熱は高くて37度台に留まるが、いずれも「身体が重い」「やる気が出ない」との報告多数。

・現時点で感染性の疾患や食中毒等の兆候は見られず、原因は不明。



備考:

これらの現象は、各家庭で単発的に起きているものではなく、広範囲にわたり村全体に浸透している傾向が見られる。



 

昨日までは単なる風聞にすぎなかったこれらの情報が――


今は、ひとつの線で繋がりつつあるように思えた。



「お主らの言うとおり、こうして見ると……幻覚の線が濃いように思う」 


ミュンドは、眉根を寄せながらも、静かに言葉を続けた。


「特にこの……この倦怠感や微熱。これはもう、魔力を吸われとるとしか思えん。

気付かぬうちに、ぬるぬる様の影響が村全体に及び始めておるのかもしれんのう……」



言葉が落ちたあと、室内には一瞬の沈黙が流れた。


外では誰かが川辺で桶を洗う音が、かすかに響いている。


――まるで、何もなかったかのような、平穏な音。


だが、その平穏が幻だったとしたら?


村全体が、気づかぬうちに、何かに浸食されているとしたら――


シノンは、ふとパティの方へ視線を向けた。


いま、彼女の身に起きている“異常”は、単なる始まりに過ぎなかったのかもしれない。


 


椅子から腰を上げながら、ゆっくりと口を開く。


 


「……とにかく、俺は正体を探ります。少しでもいい、何か掴めれば」


 


そう言って立ち上がるシノンに、長老はふっと目を細め、かすかに頷いた。


 


「……パティのこと、よう看ていてくれて、ありがとな」


 


シノンは一瞬だけ目を伏せ、パティの方へ視線をやった。


 


「……いえ。行ってきます」


 


そう告げて扉を開ける。


わずかな木の軋みとともに、冷たい外気が肌に触れた。


 


扉を静かに閉じ、石畳の通りへと歩き出す。


――まだ何も見えていない。


だが、その“何か”に触れられる気がしていた。



扉を静かに閉じ、シノンは石畳の通りへと歩き出した。




* * *




通りに出たシノンは、まず住宅地にある広場に足を運んだ。人通りはそこそこある。だが、誰の視線にも、自分が“外側”にいるような冷たさを感じる。


顔を見た村人がそそくさと目を逸らし、別の道へ逸れていく。すれ違っても挨拶は返ってこない。声をかけようとしても、タイミングを計ったように人波はすり抜けていく。



――これでは、何も聞き出せない。


先導役のリオがいないと、まるで壁ができたようだった。そう思うと、ほんの少しだけ、胸がざらついた。


ひとつ、ため息をついて、シノンは歩き出す。


靴音が、石畳の上にぽつり、ぽつりと響く。

けれど、その音は不思議と、誰にも届いていないような気がした。


夕暮れの光が、洞窟の天井の隙間から帯のように差し込み、地面に長い影を落とす。

自分の足音と、その影だけが、世界に取り残されたように揺れていた。


ふと、視界の隅に見えた蝶が、するりと路地裏に消えていく。


道端の鉱石が、うっすらと紫に光っていた。


その横に付いたヒカリゴケが、夕方の色とまじって、ゆらゆらと夢のように揺れている。


どこかに、何か手がかりはないか――そんな思いだけを抱えて、歩いていた。


 


気づけば、足は神社の方角を向いていた。


神社の境内は、村の中心よりも静かだった。誰もいない。

鳥居をくぐると、ふわりと風が吹き抜けた。

足音を、どこかで草を撫でる音が包みこんでいく。


 


境内の奥、天井の裂け目から細い夕光がそっと注いでいた。


そこに――草が生い茂った、一角があった。


何気なく足を踏み入れた瞬間、空気がふっと変わった。

冷たくも、温かくもない。ただ、どこか懐かしいような――“満ちている”感覚。


 


草の合間に、小さな白い花が咲いていた。


誰の手も入っていないはずの草むらなのに、そこだけ時が止まったように整っている。


 


(……ここ……)


 


胸の奥に、そっと触れられたような感覚があった。


幼い頃に埋めた宝物を、思いがけず見つけたときのような。

捨てたはずのものが、変わらぬ姿でそこにあったときのような――


言葉にできない、ぬくもり。


 


いま、自分が“ひとりじゃない”と、はっきり思えた。


 


――いる。


ここに、いる。


 


すぐ隣に、肩に、頬に、風のような手がそっと触れている。


それは姿のない誰かで、名前すらわからない気配だけれど……とても、確かな存在だった。


 


シノンは、ゆっくりと右手を掲げた。


指先に、透明な光の粒がひとつ、ふたつと集まりはじめる。


 


(……すごいな)


 


その呟きは、感嘆というより、ただの独り言に近かった。


けれど、それを聞いて、誰かが微笑んだ気がした。


陽はさらに傾き、天井の割れ目からこぼれる光が、境内に細く、長く、影を落とした。


編み込まれるように、交差する光が空間を包んでいく。


光の帯が、空間を繋ぎ、輪郭をつくっていく――そんなイメージが、ふと脳裏に浮かぶ。


なにかはわからない。けれど、ここなら何でもできるような気がした。


草の上では、小さな白い花がそよ風に揺れ、まるで光に編まれた檻の中で、静かに呼吸しているようだった。

それは、閉じ込めるためじゃない。

きっと、壊れないように――守るための檻だ。



 

精霊たちは、何も語らない。


けれど、ただそこに在るだけで、すべてを伝えてくるようだった。


 

あたたかいでもなく、冷たいでもなく――


過去とも未来ともつかぬ静けさが、そこにはあった。


 


そして、きっと――


この場所が、答えを導く鍵になる。

 


言葉にはならない確信が、胸の奥でそっと灯る。


光の粒が、肩にふわりと降り、静かに心へ触れる。

 


「月影の中の――陽光か……」


 

思わず漏れたその言葉が、夕光に溶けていく。



ここは洞窟の中のはずなのに、空はハッキリ見えていないはずなのに――


不思議と“夕暮れ”という言葉が、どこまでも、よく似合っていた。

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