第8話 知識の守護者
空がまだ朱色に染まる早朝、翔は東の部屋のダンジョンから戻ってきた。第四階層での探索を終え、獲得した赤い結晶を握りしめている。汗で濡れた髪を掻き上げると、時計を確認した。午前6時45分。今日も学校に行く前に少しだけ異世界へ足を運ぶ予定だ。
「時間があまりないな…」
翔は急いでシャワーを浴び、制服に着替えた。朝食はパンを一切れ口に放り込むだけで、すぐに西の部屋へと向かった。
扉を開けると、いつものように石のアーチがあり、その先には既に朝日が高く昇ったローズヒル村の景色が広がっていた。現実世界の朝6時は、異世界ではもう正午近くになっている。時間の流れの違いに、いまだに戸惑いを覚えることがあった。
「シャア!」
アーチをくぐると同時に、馴染みのある声が聞こえた。エリスが剣を構え、村はずれの空き地で練習をしていたようだ。赤い髪を後ろで一つに結び、軽装で身を包んでいる。
「おはよう、エリス」
「もう昼だぞ、シャア」エリスは汗を拭いながら、微笑んだ。「今日はどうするんだ?」
「ミリアの町に行きたいんだ。魔法について学べる場所がないか探したくて」
エリスは眉を寄せた。「魔法か?それならミリアの大図書館が良い。王国全土でも有数の蔵書があるらしい」
「それだ!」翔は目を輝かせた。異世界のステータスをアップするための知識を得るには、魔法の理解が不可欠だと考えていた。「案内してくれないか?」
「構わないが…」エリスは少し迷った様子を見せる。「ただ、今日はセリアの手伝いをする約束をしているんだ」
「セリアも一緒に来ればいいじゃないか。彼女も魔法に詳しいだろう?」
エリスは納得した様子で頷いた。「そうだな。彼女の意見を聞いてみよう」
ローズヒル村のはずれにあるマチルダの家にセリアを訪ねると、彼女は薬草を集めているところだった。金色の長い髪に朝日が反射し、まるで光の精のような雰囲気を漂わせている。
「シャア様、エリス」セリアは二人を見つけると、優しく微笑んだ。「今日はどうされましたか?」
翔はミリアの図書館に行きたい意向を伝えた。セリアの瞳が輝く。
「まあ、素晴らしいですわ!実は私も行きたいと思っていたところです。回復魔法の古書が見たくて…」
三人は準備を整え、ミリアへの道を歩き始めた。村から町までは半日の行程だが、翔の現実世界の時間感覚では2時間ほどだ。彼は常に二つの時間の流れを頭に入れて行動していた。
「エリス、あなたはギルドに用事があるのではなかったかしら?」セリアが尋ねる。
「ああ、報酬を受け取りに行かないとな」エリスは少し困ったように頭を掻いた。「図書館の場所を教えたら、先に行ってもいいか?」
「大丈夫、私が案内します」セリアが言った。
道中、翔はセリアから回復魔法について教えてもらった。彼女の説明は明快で、翔は異世界の魔法体系について理解を深めていくのを感じた。
「魔法は、精霊の力を借りる精霊魔法と、自らの内なる力を操る術式魔法の二つに大別されます」セリアは丁寧に説明した。「私の回復魔法は、光の精霊の力を借りるもの。あなたのような異世界から来た方でも、修行次第では使えるようになるかもしれません」
「自分の内側に力があるって、どうやって感じるの?」翔は興味深く尋ねた。
セリアは少し考えてから言った。「閉じた目で心の中心に意識を向けると、小さな光のようなものを感じることがあります。それが魔力です」
翔は試しに目を閉じ、セリアの言葉に従って集中してみた。わずかだが、何か温かいものを感じた気がする。
「感じたかも…」
「まあ、本当ですか?」セリアは驚いた様子で、「それは素晴らしいですわ!多くの方は最初の感覚をつかむのに何週間もかかるのに」
ミリアの町は、ローズヒル村とは比べものにならないほど大きく、活気に満ちていた。石畳の道には様々な種族が行き交い、市場では珍しい品々が売られている。翔はすっかり異世界の景色に魅了されていた。
「あれが大図書館です」
セリアが指さす方向に、石造りの荘厳な建物が見えた。古代ギリシャの神殿を思わせる柱が立ち並び、巨大な扉が訪問者を迎え入れている。
「すごい…」翔は思わず声を漏らした。
図書館の内部はさらに壮大だった。天井高く積まれた本棚、階段や通路で複雑に繋がった各フロア、そして至る所に設けられた読書スペースには、学者らしき人々が熱心に書物を読んでいた。
「まずは基本的な魔法の教本を探しましょう」セリアが提案した。
二人は蔵書検索のために、受付にいる司書に声をかけた。肩まで伸びた黒髪を整然と結い上げた女性が、丁寧に応対してくれる。
「魔法の基礎ですね。三階の西側に魔法理論の棚があります」
セリアはお礼を言い、翔とともに三階へと向かった。階段を上りながら、翔は建物の構造や本の配置方法を細かく観察していた。帰りに迷わないよう頭に入れておく必要がある。
「あなたは物事をよく観察されますね」セリアが微笑んだ。
「ああ、癖みたいなものかな」翔は少し照れた。現実世界でも、異世界でも、常に状況を分析する習慣がついていた。それは生き残るための術でもあった。
三階に着くと、彼らは西側の書架へと向かった。そこには魔法理論に関する本が整然と並んでいる。
「『精霊魔法入門』『術式魔法の理解』…どれも良さそうですね」セリアは本を次々と手に取った。
翔も興味深そうに本棚を見ていると、視界の隅に、一人の少女が大量の本を抱えて苦労している様子が目に入った。銀色の髪を持つ少女は、本の山が崩れそうになり、必死にバランスを取っている。
「危ない!」
翔は反射的に駆け寄り、落ちかけた本を受け止めた。
「ありがとう」少女は安堵の表情を浮かべた。「助かったわ」
間近で見ると、彼女は同年代に見える。銀髪に深い青い瞳を持ち、繊細な顔立ちをしていた。簡素な青い服を着ているが、それが逆に彼女の儚げな美しさを引き立てている。
「シャア様、大丈夫ですか?」セリアが駆け寄ってきた。
「ああ、この方が本を落としそうになったから…」
「エレア?」セリアは少女を見て驚いた様子だった。「こんな所で会うなんて」
「セリア」銀髪の少女、エレアは静かに微笑んだ。「久しぶり」
二人が知り合いだったことに翔は少し驚いた。
「知り合いなの?」
「ええ、エレアさんはかつて王都の魔法学院で学んでいた方です」セリアが説明した。「私が修行で王都に行った際に、お世話になりました」
「そう大げさなことじゃないわ」エレアは照れたように言った。そして翔に向き直る。「あなたは?王都からの訪問者?」
「いや、遠い所から来たんだ」翔は曖昧に答えた。「魔法について学びたくて、ここに来たんだけど…」
エレアの青い瞳が興味深そうに光った。「魔法を学びたいの?それなら力になれるかもしれないわ。私、魔法理論が専門だから」
「本当に?」翔は思わず声を上げそうになり、図書館内だということを思い出して声を潜めた。「それは助かる」
「いいけど…」エレアは少し迷った表情を見せた。「何か見返りはあるかしら?」
「見返り?」
「知識の交換よ」エレアは真剣な眼差しで言った。「あなたが知っていることを教えてほしいの。遠い所から来たなら、きっと私の知らないことを知っているでしょう?」
翔は一瞬、戸惑った。異世界の人間に現実世界の知識を教えるべきか、迷いがあった。しかし、これは貴重な機会だとも思えた。
「いいよ。僕のできる範囲で教えるよ」
エレアの表情がパッと明るくなった。「約束するわ。明日、ここで会いましょう」
「あの、明日は…」翔は現実世界の予定を思い出した。「夕方しか来られないんだ」
「夕方ね」エレアは不思議そうに首を傾げた。「それでも構わないわ。では、明日の夕刻、ここで」
エレアは本を抱え直し、礼を言ってから立ち去った。彼女の歩き方にも、どこか優雅さがあった。
「あの方は本当に優秀な魔法使いですわ」セリアが言った。「でも学院を辞めて、ここミリアに来たのはなぜなのでしょう…」
「何かあったの?」
「詳しくは知りませんが…」セリアは心配そうに言った。「王都での彼女の評判はあまり良くなかったと聞きます。禁術に手を出したとか…」
「禁術?」
「人を操る術や、生命を奪う術など、倫理に反する魔法です」セリアは声をひそめた。「でも私には彼女が悪い人には思えません」
翔は考え込んだ。魔法の世界にも、様々な派閥や禁忌があるのだろう。現実世界の科学技術と同じように、使い方によっては危険になる知識もあるのかもしれない。
「どうされますか?」セリアが尋ねた。「あの方と知識を交換するのは…」
「会ってみるよ」翔は決めた。「彼女の話を聞いてみたい。それに、魔法をもっと知る必要がある」
セリアは少し心配そうに見えたが、頷いた。「分かりました。ご一緒しましょうか?」
「ありがとう。でも明日は一人で来るよ。彼女も気を遣うだろうから」
二人は基本的な魔法書を借り、図書館を後にした。エリスと合流する時間が近づいていた。
翌日、翔は学校から帰るとすぐにダンジョンへ向かった。第四階層で新たに発見した、鎧を着た骸骨のモンスターと戦い、いくつかの赤い結晶を手に入れた。
「これらのポイントをどう使うか…」
翔は慎重にステータスを確認した。
『ダンジョンステータス』
体力:10/10
攻撃力:8
防御力:6
スキル:「初級探知」
所持ポイント:28
彼はしばらく考えた末、攻撃力に2ポイント投資することにした。第五階層に挑むには、より強力な攻撃力が必要だ。残りのポイントは取っておくことにする。
シャワーを浴び、身支度を整えると、翔は西の部屋へと向かった。夕方5時過ぎ、異世界ではもう夕刻になっているはずだ。
石のアーチをくぐると、彼はミリアの町へと急いだ。周囲の人々は仕事を終え、家路に向かう時間帯で、街は活気に満ちていた。市場では夕食の準備をする人々が食材を買い求め、酒場からは既に賑やかな声が聞こえてくる。
大図書館に着くと、入口では閉館前の最後の利用者が次々と出て行くところだった。
「もう閉まっちゃうのか…」翔は焦った。
「あなた、シャアね」
声の方を向くと、エレアが建物の影から姿を現した。夕日に照らされた彼女の銀髪が、オレンジ色に輝いていた。
「約束通り来たわよ」彼女は微笑んだ。「でも図書館はもう閉まるわ」
「そうみたいだね」翔は困った表情を浮かべた。「どうしよう」
「私の部屋に来る?」エレアは当然のように提案した。「そこなら話せるし、魔法の本もたくさんあるわ」
翔は少し躊躇した。異世界で知り合ったばかりの少女の部屋に行くのは危険ではないか?しかし、魔法について学ぶ機会を逃したくなかった。
「大丈夫、変なことはしないわよ」エレアはクスリと笑った。「純粋に知識の交換だけ」
「わかった、お願いします」翔は決心した。
エレアは頷き、彼を町の東側へと案内した。通りを抜け、小さな川に架かる橋を渡ると、小さな宿屋が見えてきた。「旅人の休息」という名の宿は、こじんまりとしているが、清潔そうな印象だった。
「ここに滞在しているの」エレアは説明した。「王都を離れてから、定住する場所を決めかねているの」
二人は宿に入り、階段を上って二階の一室に到着した。エレアが鍵を開けると、中は予想以上に広く、整然と片付いていた。壁には本棚が設けられ、魔法の書物や奇妙な器具が並んでいる。窓際には小さな作業台があり、様々な薬草や鉱石が整理されていた。
「座って」エレアが椅子を指さした。「何か飲む?」
「ありがとう。水で良いよ」
エレアは小さな水差しから水を注ぎ、翔に渡した。彼女自身も一杯取り、対面に座った。
「それで、魔法について何が知りたい?」彼女は本題に入った。
「基本的なことから全部かな」翔は正直に言った。「魔力の感じ方、操り方…特に、効率的に強くなる方法」
エレアは興味深そうに翔を見つめた。「なぜそんなに急いで強くなりたいの?」
「理由はたくさんあるけど…」翔は言葉を選んだ。「守りたい人がいるんだ」
それは半分は真実だった。彼は既に異世界での友人たちを得ており、彼らを守りたいという気持ちはあった。しかし同時に、単純に強くなって現実世界でも成功したいという野心もあった。
「そう」エレアはじっと翔の目を見た。「嘘ではないわね」
彼女の直感に翔は少し驚いた。
「では、魔力の基本から教えましょう」エレアは立ち上がり、本棚から古い巻物を取り出した。「これは王都の学院でも使われていない貴重なものよ。魔力の核を見つける方法が記されているわ」
彼女は巻物を広げ、奇妙な図形と文字が描かれた部分を指さした。
「これは心の地図と呼ばれるもの。魔力の源を見つけるための瞑想法よ」
翔は熱心に耳を傾けた。エレアの説明は簡潔明瞭で、セリアとはまた違った角度から魔法を解説してくれた。学院で学んだ理論的な基礎が、彼女の説明を支えていることが感じられた。
「まず、心の中心に意識を集中させて…」
エレアの指示に従い、翔は目を閉じて瞑想を始めた。心の中に意識を向けると、確かに温かいものが感じられる。それは小さな光の粒のようだった。
「感じる…」翔は小さく呟いた。
「その感覚を保ったまま、その粒を大きくすることを想像して」エレアは静かに言った。
翔は集中し、その小さな光を大きくしようと意識した。ゆっくりと、光は広がり始めた。突然、彼の指先がわずかに青白く光った。
「すごい!」エレアは驚いた声を上げた。「初めてなのに光を出せるなんて!」
翔は目を開け、自分の指先を見た。確かに弱いながらも光が見える。すぐに消えてしまったが、確かに魔法を使ったのだ。
「これが魔法…」翔は感動した。
「才能があるわね」エレアは真剣な表情で言った。「どこから来たの?本当に」
「それは…」翔は言葉に詰まった。
「他の世界からでしょう?」エレアは静かに言った。「あなたの身のこなしや言葉遣い、知識…どれも少しずつ違うわ」
翔は驚いて彼女を見つめた。「なぜそう思うの?」
「私は禁術を研究していたの」エレアは窓際に歩み寄った。「特に、世界の境界に関する魔法を。学院では認められなかったけど…」
「だから学院を辞めたの?」
「そう。というより、追い出されたのよ」彼女は苦笑した。「でも私は信じていた。他の世界が存在することを」
翔は考えた。彼女に真実を話すべきだろうか。異世界と現実世界のつながりについて説明するのは危険かもしれない。しかし、エレアの知識は非常に貴重だし、彼女は既に気づいているようだった。
「そうだよ」翔は決断した。「僕は別の世界から来た。そこでは魔法は存在しない。でも科学技術が発達している」
エレアの目が輝いた。「やっぱり!他の世界の人間に会える日が来るなんて…」
彼女は興奮して翔の手を取った。「教えて!あなたの世界のことを。どんな世界なの?どうやってここに来たの?」
翔は笑顔で頷いた。「約束通り、知識の交換だね。僕の世界のことを話すよ。でも、すべてを話すわけにはいかないこともあるから…」
「当然よ。私も秘密はある」エレアは理解を示した。「では、交換を始めましょう」
二人は夜が更けるまで話し込んだ。翔は現実世界の科学や技術について、エレアが理解できる範囲で説明した。電気、車、コンピューター…彼女はすべてに驚きと興味を示した。
特に、彼女が魅了されたのは医学の知識だった。「病を癒すための技術が、魔法なしでそこまで発達しているなんて…」
一方、エレアは魔法の理論的な側面について詳しく教えてくれた。特に、精神力を高める訓練法や、効率的に魔力を操る方法は、翔にとって非常に有益だった。
「魔力は筋肉と同じよ」エレアは説明した。「毎日使えば強くなる。でも使いすぎれば疲労するし、適切な休息も必要」
翔は熱心にメモを取った。彼女の教えは、異世界でのステータスを効率的に上げるのに役立つはずだ。
「もう遅いわね」エレアは窓から見える星空を見上げた。「私たちの世界では夜も更けたわ」
翔は驚いて時計を確認した。もう9時近くだ。現実世界で午後5時に入ったのだから、4時間も経っている。予定より長居してしまった。
「帰らなきゃ」翔は慌てて立ち上がった。「本当にありがとう。とても勉強になった」
「こちらこそ」エレアは微笑んだ。「また会えるかしら?」
「ああ、もちろん」翔は頷いた。「でも、僕の来られる時間は不規則で…」
「大丈夫。図書館にいることが多いから、見かけたら声をかけて」エレアは提案した。「それか、私からあなたを探すわ」
「どうやって?」
「あなたの魔力の波長を覚えたから」エレアは神秘的に微笑んだ。「遠くからでも感じられるわ。特に魔法を使った時はね」
翔は少し驚いたが、頷いた。「また会おう。そして、もっと知識を交換しよう」
エレアは翔を宿の入り口まで見送った。彼女と別れ、翔は急いでローズヒル村へと戻った。石のアーチを抜けると、現実世界の自分の家に戻ってきた。
時計を見ると、午後9時15分。予定より遅くなったが、得たものは大きかった。彼は手帳に今日学んだことを書き留めた。
『異世界ステータス』
体力:100/100
力:13 (+3)
敏捷:11 (+3)
知性:22 (+10)
精神:14 (+5)
技術:12 (+5)
成長ポイント:0
この日、翔は「魔力感知」という新しいスキルを覚えた。まだ未熟だが、これを磨けば異世界での生存率が大きく上がるはずだ。
「明日は学校の試験か…」翔はため息をついた。「両方の世界で頑張らないと」
彼は布団に入り、目を閉じた。今日覚えた瞑想法を実践しながら、少しずつ眠りに落ちていった。その夜、彼の夢は青い魔法の光と銀色の髪を持つ少女で満ちていた。
翌朝、翔は早起きしてダンジョンに向かった。朝のルーティンはすっかり定着し、第四階層での戦闘もだいぶ楽になってきていた。
「おかしい…」翔は気づいた。「いつもより敵が弱く感じる」
昨日エレアから学んだ魔力の扱い方を意識したところ、彼の攻撃力が上がった気がした。それだけではなく、敵の動きも少し予測しやすくなっていた。
「精神力が上がったのかな…」
探索を終え、翔は学校へ向かった。昨日勉強した魔法の理論が、不思議と数学の試験に役立った。世界は違えど、論理的思考は共通している部分が多いようだ。
「佐藤、最近変わったな」
下校時、クラスメイトの高橋美咲が声をかけてきた。学年一の美少女と言われる彼女が、翔に話しかけてくるなんて以前なら考えられなかった。
「そうかな?」翔は平静を装った。
「うん。なんか自信がついたっていうか…」美咲は不思議そうに言った。「秘密でもあるの?」
翔は笑顔で返した。「秘密?まあ、あるかもね」
彼女は少し頬を染め、「また話しましょう」と言って去っていった。
「おいおい、高橋さんと話してるじゃん」後ろから山本さくらが声をかけてきた。「最近モテモテじゃん」
「そんなことないよ」翔は照れ隠しに言った。
「謙遜しなくていいって」さくらは笑った。「でも、本当に最近変わったよね。何かあったの?」
「特には…」翔は曖昧に答えた。「少し自分を変えようと思って」
さくらは疑わしげな目で翔を見たが、それ以上は追及しなかった。
放課後、翔は予定通り異世界へ向かった。今日はエリスとの約束があった。
異世界のミリアの町に到着すると、彼はまずギルドへ向かった。エリスは既にそこで待っていた。
「遅いぞ、シャア」エリスは少し不機嫌そうに言った。「依頼の時間が迫っている」
「ごめん」翔は謝った。「何の依頼なんだ?」
「森の中の古い塔を調査する仕事だ」エリスは説明した。「危険な魔物はいないはずだが、念のため二人一組で行けとのこと
「魔物がいないなら、そんなに危険じゃなさそうだね」翔は言いながらも、ダンジョンでの経験から用心するに越したことはないと考えていた。
「そうとは限らない」エリスは真剣な表情で言った。「古い建物には魔物以外の危険もある。罠や崩落の危険性、それに…」
「それに?」
「古代の魔法が残っていることもある」エリスは剣の柄に手を置いた。「だから気を抜かないでくれ」
二人はギルドを出て、町の北門から外へ出た。ミリアの町を囲む城壁を抜けると、北側には広大な森が広がっていた。森の入り口で道が二つに分かれている。
「こっちだ」エリスは東側の細い獣道を指さした。「昔は交易路だったらしいが、今は使われていない」
森の中は、木漏れ日が差し込むものの、どこか神秘的な雰囲気が漂っていた。時折、小動物の気配を感じるが、幸いなことに魔物の姿はない。エリスは常に警戒を怠らず、時折立ち止まっては周囲を確認していた。
「エリス、聞きたいことがあるんだけど」森の中を歩きながら翔は言った。
「何だ?」
「君はどうしてこの仕事を選んだの?剣士として」
エリスはしばらく黙って歩き続けた後、口を開いた。「最初から剣士になるつもりはなかった。私は貴族の護衛をしていたんだ」
「貴族の?」
「ああ、アルバニア王国の北部に領地を持つ男爵家だった」エリスの声には苦さが混じっていた。「最初は良い主人だった。公正で優しく、領民にも親切だった」
「でも何かあったの?」
「彼が変わったんだ」エリスは前方を見つめたまま言った。「ある晩、彼は秘密裏に集会に参加するようになった。それから徐々に冷酷になり、領民から過酷な税を取り立てるようになった」
翔は黙って聞いていた。エリスの表情が硬くなっていた。
「私はそれに疑問を持ち、ある晩、主人の後をつけた」彼女は足を止め、翔の目をまっすぐ見た。「そこで見たものは…恐ろしい儀式だった。彼らは『影の主』と呼ばれる何かを崇拝し、生贄を捧げていた」
「生贄?」翔は息を呑んだ。
「人間の…」エリスは小さく言った。「私はすぐに逃げ出し、上級貴族に報告しようとした。だが誰も信じてくれなかった。それどころか、私は嘘をついた罪で追放された」
「それで今は…」
「冒険者ギルドに所属して、真実を明らかにする手がかりを探している」エリスは再び歩き始めた。「あの『影の主』が何なのか、なぜ貴族たちが関わっているのか…」
翔は深刻な表情になった。この異世界には、彼の知らない闇が広がっているようだ。エリスが言った「影の主」が何なのか、それは彼がこの世界に来た理由と関係があるのだろうか。祖父の遺した暗号めいたヒントを思い出した。
「あれが目的地だ」
エリスが指さす先に、木々の間から石造りの塔が見えてきた。三階建て程度の高さで、かなり古びている。窓は小さく、入り口には錆びた鉄の扉がある。
「どんな塔なんだろう?」翔は尋ねた。
「昔の魔法研究施設だという噂がある」エリスは答えた。「ギルドの依頼では、中に残された書物や魔法道具があるかどうか確認することになっている」
二人は慎重に塔に近づいた。扉は半開きになっており、中は薄暗い。エリスは松明を取り出し、火打石で火をつけた。
「入るぞ」
彼女は先導し、翔はすぐ後ろについて中に入った。塔の内部は予想以上に広く、中央に螺旋階段があり、周囲には棚や机が散乱していた。天井は高く、ところどころ崩れかけている。
「気をつけて」エリスは警告した。「床が抜けるかもしれない」
二人は慎重に一階を調査し始めた。ほとんどの棚は空っぽか、朽ちた紙切れが残っているだけだった。しかし、奥の部屋には鍵のかかった小さな箱が見つかった。
「これは…」エリスは箱を調べた。「魔法の鍵がかかっているようだ」
翔はエレアから学んだばかりの魔力感知を試してみた。目を閉じ、意識を集中すると、箱から弱い魔力の波動を感じることができた。
「何か入っているね。魔力を感じる」
「へえ、魔力を感じるのか?」エリスは驚いた様子で翔を見た。「いつの間にそんな能力を…」
「昨日、少し教わったんだ」翔は控えめに言った。
「誰に?」
「エレアという魔法使いに」
エリスの表情が曇った。「エレア?銀髪の?気をつけた方がいい。彼女は禁術の研究で追放されたらしい」
「セリアも同じことを言っていたけど…」翔は考え込んだ。「でも、彼女は悪い人には見えなかったよ」
「見た目で判断するな」エリスは厳しく言った。「とにかく、その箱は持ち帰ろう。ギルドの魔法専門家に調べてもらおう」
二人は箱を鞄に入れ、螺旋階段を上って二階へと向かった。二階はさらに荒れていて、天井の一部が崩落していた。部屋の中央には奇妙な円が床に刻まれており、周囲には謎の文字が記されている。
「これは…」エリスが近づいて調べた。「魔法陣だ。でも古い形式で、何のためのものかわからない」
翔も円の近くに行き、刻まれた文字を観察した。どこかで見た記号のように思えたが、思い出せない。彼が円の中に足を踏み入れた瞬間、床に刻まれた文字が淡い青色に光り始めた。
「シャア、下がれ!」エリスが叫んだ。
しかし、翔が動く前に、魔法陣から光の柱が立ち上がり、彼を包み込んだ。耳鳴りがして、視界が白く染まる。そして突然、宙に浮いたような感覚になった。
数秒後、光が消え、翔は同じ場所に立っていた。だが何かが違う。
「エリス?」
返事がない。周りを見回すと、部屋は先ほどよりもずっと綺麗になっており、崩れていた天井も完全な状態だった。窓から差し込む光も強く、まるで昼間のようだ。
「これは…幻覚?それとも…」
「誰だ?」
突然、背後から声がした。振り返ると、紺色のローブを着た中年の男性が立っていた。彼は杖を手に持ち、警戒した様子で翔を見ていた。
「許可なく私の研究室に入るとは。何者だ?」
翔は困惑した。「すみません、僕は…調査のために来たんですが」
男は怪訝な表情で翔を見た。「調査?何の権限で?そしてその服装は…」
翔は自分の服装を見下ろした。現実世界の普通の服装は、この世界では確かに奇妙に見えるだろう。
「あなたは…この塔の主人ですか?」翔は恐る恐る聞いた。
「当然だ」男は答えた。「私はレイモンド・アスターナ、王立魔法研究所の主任研究員だ」
翔の頭の中で何かが繋がった。時間が遡ったのか?それとも別の次元に飛ばされたのか?
「今、何年ですか?」翔は思い切って尋ねた。
レイモンドは眉をひそめた。「何を言っている?帝国暦856年だ」
翔は息を呑んだ。エリスから聞いていた現在の年号は帝国暦1356年。500年前に飛ばされたのだ。
「すみません、混乱しているみたいで…」翔は頭を抱えた。「実は、私は未来から来たのかもしれません」
「未来?」レイモンドは笑った。「面白い冗談だ」
「本当です」翔は必死に説明した。「あの魔法陣に入った途端、ここに…私の時代では、この塔は廃墟になっていて…」
レイモンドの表情が変わった。「魔法陣?時間操作の実験をしていたが…まさか成功したというのか?」
彼は急いで魔法陣のところに行き、床に刻まれた文字を確認し始めた。「信じられない…未来との接点を作る実験だったが、まさか人を引き寄せるとは」
「どうすれば元の時代に戻れますか?」翔は焦った。この時代に取り残されては、現実世界にも戻れなくなる。
「わからん」レイモンドは正直に言った。「これは予想していなかった事態だ。だが…」
彼は魔法陣をさらに調べた。「理論上は、同じ魔法陣が未来にも存在するなら、それを使って戻れるはずだ。ただし、魔力の流れを逆にする必要がある」
「どうやって?」
「この魔法陣には、時間の流れを操作する基本原理が刻まれている」レイモンドは一部の文字を指さした。「これを反転させれば…」
突然、建物全体が揺れ始めた。窓の外を見ると、空が暗くなり、嵐のような風が吹き始めていた。
「何が起きている?」翔は驚いて尋ねた。
レイモンドの表情が暗くなった。「時間の歪みだ。君が来たことで時間の流れが不安定になっている。早く元の時代に戻らなければ、もっと大きな歪みが生じるかもしれない」
彼は急いで書斎に向かい、古い本を取り出した。「これを読め。魔法陣の操作方法が書いてある。私は安定化の呪文を唱える」
翔は本を受け取り、急いで読み始めた。幸い、文字は現代と大きく変わっていなかった。魔法陣の操作には、精神力と魔力の集中が必要なようだ。
建物の揺れが強くなり、天井から小さな破片が落ち始めた。
「急いで!」レイモンドが叫んだ。「魔法陣の中心に立ち、自分の時代を強く思い浮かべろ!そして、この呪文を唱えろ!」
彼は翔に短い呪文を教えた。翔は魔法陣の中心に立ち、エリスやセリア、そしてエレアの顔を思い浮かべた。現代のミリアの町、そして自分が調査に来た廃墟の姿を鮮明にイメージする。
「アストラ・テンポリス・リバーサル!」
翔が呪文を唱えると同時に、魔法陣が再び輝き始めた。今度は赤い光が彼を包み込み、体が宙に浮かぶ感覚がした。
「君の名は?」揺れの中、レイモンドが叫んだ。
「佐藤翔!」
「覚えておく!もし成功すれば、私の研究ノートを探せ!そこに全てを記した!」
それが翔が聞いた最後の言葉だった。世界が赤い光に包まれ、再び激しい耳鳴りと浮遊感。そして意識が遠のいていった。
「シャア!シャア!」
意識が戻ると、エリスが心配そうな顔で翔を見下ろしていた。彼は魔法陣の中心に倒れていた。
「何があった?」翔は頭を抱えながら起き上がった。
「急に魔法陣が光り出して、君が倒れたんだ」エリスは説明した。「数秒間のことだったが…」
「数秒?」翔は驚いた。彼の体感では、少なくとも15分以上が経過していたはずだ。
「大丈夫か?」エリスが手を差し伸べる。
「ああ…」翔は立ち上がり、周囲を見回した。塔は再び廃墟の状態に戻っていた。「レイモンド・アスターナという名前を聞いたことある?」
「アスターナ?」エリスは首を傾げた。「古代の有名な魔法研究者だな。500年ほど前の人物だが、なぜ?」
「彼に会ったんだ…」翔は呟いた。「彼は、研究ノートが残っていると言っていた」
「何を言っているんだ?」エリスは混乱した様子だった。
翔は簡単に説明した。魔法陣に入ったこと、500年前にタイムスリップしたこと、そして研究者のレイモンドに会ったことなどを。
「信じられない…」エリスは魔法陣を見つめた。「だが、古代の魔法は現代では理解されていないものも多い。特に時間に関する魔法は…」
「彼の研究ノートを探そう」翔は提案した。「三階にあるかもしれない」
二人は急いで螺旋階段を上り、三階へと向かった。三階は一部が完全に崩落しており、足場が危険な状態だった。それでも慎重に調査を進めると、塔の最も奥まった一室で、魔法で封印された金庫を発見した。
「これだ」翔は確信した。「中に研究ノートがあるはずだ」
「でも封印が…」エリスは金庫を調べた。
翔は深呼吸し、レイモンドから学んだ呪文を思い出した。「アストラ・テンポリス・オープン」
驚くべきことに、金庫から淡い光が放たれ、錠前が音を立てて開いた。中には古びた革表紙のノートが収められていた。
「本当に開いた…」エリスは驚いた。
翔はノートを取り出し、慎重にページをめくった。中には複雑な魔法陣の図と研究記録が記されている。そして最後のページに、翔の名前を見つけた。
「未来から来た若者、佐藤翔へ。もしこのノートを見つけたなら、私の実験は成功したのだろう。時間の流れを操作する魔法の秘密はこのノートに全て記した。だが、警告しておく。時間を操ることは危険だ。歴史を変えようとするな。ただ学び、理解するために使うべきだ。そして、『影の主』に注意せよ。彼らは時間の歪みを望んでいる。」
「影の主…」エリスが息を呑んだ。「私が話した組織と同じ名前だ」
翔は重大な何かに触れたような感覚があった。500年以上前から存在する「影の主」という組織。それは彼の祖父の秘密とも関わっているのかもしれない。
「このノートを持ち帰ろう」翔は決断した。「エレアに見せたい」
「エレアに?」エリスは眉をひそめた。「彼女を信用するのか?」
「ああ」翔は頷いた。「彼女なら、このノートを理解できるはずだ」
二人は調査を終え、塔を後にした。帰り道、翔は考え込んでいた。時間を旅したこと、500年前の魔法研究者に会ったこと、そして「影の主」という謎の組織。全てが何かの糸口になるような気がしていた。
「シャア」エリスが真剣な表情で言った。「今日起きたことは、簡単に人に話さない方がいい。特に『影の主』については…彼らは強大な力を持っている」
「わかった」翔は頷いた。「でも、僕たちだけでは対処できないかもしれない。信頼できる仲間が必要だ」
「そうだな…」エリスは同意した。「セリアは信頼できる。そして…」彼女は少し躊躇した。「エレアのことは、もう少し様子を見てからだ」
ミリアの町に戻ると、二人はギルドに報告書を提出した。発見した小箱と、魔法陣のこと。しかし、タイムスリップや研究ノートについては触れなかった。
「今日はもう遅い」エリスは疲れた様子で言った。「休もう。明日また考えよう」
翔は同意し、石のアーチに向かった。帰る前に、彼は再びレイモンドのノートを開き、最後のページを読み返した。そこには更に小さな文字で、こう記されていた。
「P.S. もし君が本当に二つの世界を行き来できる者なら、それは古代の予言と一致する。『二つの世界の扉を開く者、時の流れを理解する者、彼こそが闇と光の均衡を取り戻す』。私の研究が君の助けになれば幸いだ。」
翔は深い息を吐き出した。彼の冒険は、ますます複雑になっていくようだった。そして、魔法と知識が彼の最大の武器になることを、今日ほど強く感じたことはなかった。
石のアーチをくぐり、現実世界に戻ると、翔はすぐにレイモンドのノートを安全な場所に隠した。そして今日の出来事を詳細に記録した。明日は学校の後、再びエレアに会い、この不思議な日に起きたことを相談しようと決めた。
彼の頭の中には、今日聞いた古代の予言が繰り返し響いていた。
「二つの世界の扉を開く者、時の流れを理解する者、彼こそが闇と光の均衡を取り戻す」
その言葉の真の意味を、彼はまだ理解していなかった。だが、それが彼の運命と深く関わっていることだけは、確かなようだった。
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