第4話 父さんがやって来た
今日から新しい父さんが俺たちの部屋に来ることになっている。母さんは「いまさらだから」と言って結婚式も何もしないで籍だけ入れた。
「ただいま。父さんは?」
学校から帰って玄関扉から入ったところでキッチンに立つ母さんに俺は小声で聞いた。
「帰ってるわよ」
小声で聞いたんだけど気づかれたらしく、奥のリビングから父さんが出て来た。
「ケンジ、お帰り」
「あ、ただいま、帰りました」
もう親子だもんな。当然なのに下の名前で呼び捨てにされたことに俺は動揺して思わず敬語になってしまった。俺も親し気に「父さん」って呼び返したかったんだけど出来なかった。
俺をケンジって呼び捨てにするのは母さんとソウちゃんだけだ。友人はたいていケンちゃんって呼ぶ。やっぱり、母さん以外の大人で、しかも男の人が同じ部屋にいるってシチュエーションはやり
「あ、うん」
父さんはそう言って照れたように微笑んだ。言葉が続かない。
「俺、荷物おいてくる」
俺はそう言って自分の部屋に入っていった。
晩ご飯ではテーブルに俺の好きなおかずが並んだ。それにたぶん父さんの好きなおかずも。
「ケンジ、一杯やるか?」
父さんがビールを薦めてくる。
「いや、俺、未成年だし」
俺は助け船を出してほしくて母さんをちらっと見る。
「あら、ケンジも飲む?」
いや、飲みませんって! なんで今日に限ってそんなこと言うかな。ああ、母さんも3人で夕食のテーブルを囲むのが嬉しいんだなって理解した。仕方なく母さんが差し出したコップを俺は受け取った。父さんがそのコップに並々とビールを注ぐ。ちょっとだけ口に含んでみる。
「う…… にが! こんな苦いもん、よくあんなにうまそうに飲めるよな!」
そんなことを言う俺を見て父さんと母さんが笑う。
2LDKの町営住宅。今日、父さんが俺たちの部屋に引っ越してきた。俺の部屋はそのままで母さんの部屋が両親の部屋になった。彼の荷物は驚くほど少なかった。ちょっとの衣類と本、ノートパソコン。それだけ。
「冷蔵庫、洗濯機、テレビ、掃除機、箪笥に本棚。全部この家にあるものの方が上等だったから捨てちゃったら、これだけしか残らなかったんだよー。俺ってたったこれだけの物で生きてたんだなって自分でもびっくりしちゃった」
「都会の大学を卒業してそのままIT関連の会社に就職したんだけど体調を崩しちゃってね。そんなとき生まれ故郷のここの役場で採用してもらえて帰ってこれた
んだ。あのまま都会にいたら今の俺はなかった。生きてたかどうかも怪しいなあ」
父さんがビールを飲みながらぽつぽつと話をする。母さんはもちろん全部知ってるんだろう。おかずを口に運びながら微笑んで聞いてる。
「会社に就職して好きな人ができたんだ。でも、俺、分かったんだ。人を好きになるって自分を見つめ直すことでもあるんだ。俺は彼女に相応しいだろうかって考えたら自分には彼女に誇れるものが何もないことに気づいて。非人間的な職場環境のこともあって心を病んじゃってね」
「俺はそれ以来女性を好きになるのが怖かったよ。また心が病んでしまわないかって不安でね。そんな俺に加江さんはじっくりと寄り添ってくれた初めての女性だった。普通はこんな根暗な男、嫌がるでしょ?」
「以前こんなことがあったんだ。彼女といっしょに役場からの帰り道で捨て猫を見つけてね、ゴミを
ああ、あれは俺が中3のときだったかな。いっときだけ猫を飼ったことがあった。でもこのアパートはペットは飼っちゃいけないことになってるから里親を探して、あげちゃったんだ。本当は俺も飼いたかったんだけど、さすがに駄々を捏ねるほど子供じゃなかった。
「それを見た時俺はこの人と一緒に歩いて行きたいって思ったんだ。この人なら俺を見捨てたりしないって。なんか情けない話でしょ」
そうだね、とは言わないで置いた。そんな恥ずかしいことまで義理の息子に喋っちゃうなんて、この人、正直な人だなとも思った。
「ケンジは高3だろ。都会には憧れるよね。一人暮らしもしてみたいって思うのは分かるよ。それは君の人生だし君の自由だ。俺は心が弱かったからあんなことになっちゃったけど、都会には都会のよさがある。でもさ、ここっていいとこだろ? 空気はうまいし、緑も豊かだ。海こそないけど未だに泳げるくらいきれいな川もある。野菜も米もおいしいし、住んでる人もいい人が多い。みんなとは言わないけど」
「俺、丸神大学を志望なんだ」
「ああ、神戸の大学だね。国立だし凄いじゃないか!」
「ケンジ、この前の全国模試でもA判定だったのよね」
「そうか! たださ、いつでも帰ってきていいんだよ。せっかく家族になれたんだし、すぐ出て行っちゃうなんて寂しいからさ」
最後の方の言葉は詰まって尻すぼみになった。父さんの目から涙が溢れた。俺はびっくりした。大人の男の人がこんなに簡単に泣くなんて!
「この人、泣き上戸なのよ」
そう言う母さんを見て俺はドキッとした。母さんが女の人に見えたからだ。あたり前のことなのに俺は母さんを女の人って感じたことは今までなかったことにそのとき気づいた。父さんを愛おしそうに見るその眼差しは明らかに子供に向けられるそれとは違っていた。母さんは俺を育てるために「女性」ということをずっと封印してきたんだ。もう安心して「女性」に戻れるんだな。ちょっとくやしいけど、母さんの幸せそうに彼を見つめる顔を見ているとやっぱりよかったって思う気持ちの方が大きい。そんな自分に俺はほっとした。
酔っぱらって眠ってしまった父さんに2人で肩を貸して寝室の布団まで運んだ。
「父さんって酒弱いんだね」
「ふふ、そうなのよ」
「う……ん、ケンジ、俺、君の母さんを大事にするよ。幸せにできるように頑張るから…… 俺に加江さんを任せてください」
「父さん、分かった。任せたよ!」
「……ありがとう」
「父さんって呼んでくれて……」
父さんはそのまま寝息を立て始めた。彼の目から流れている涙を母さんが指で拭きとった。
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