第19話 年末カオスと秘密の部屋 前編
一
十二月も下旬に差し掛かり、街はクリスマスムードから一転、慌ただしい年末の空気に包まれていた。大学は冬休みに入り、俺、安倍晴太も、新年を少しでも気持ちよく迎えるために、意を決して自室の大掃除に取り掛かることにした。
普段は見て見ぬふりをしている換気扇の油汚れ、窓ガラスのくすみ、押入れの奥にしまい込んだままの不用品……。半日かけて徹底的に掃除し、ゴミ袋数個分の不要物を処分すると、六畳一間の俺の城は、見違えるように(と自分では思う)スッキリとした。
「ふぅ……やった……!」
久しぶりの達成感に浸り、綺麗になった部屋で一息つく。うん、やっぱり掃除は気持ちがいい。
しかし、そんな清々しい気分も束の間だった。自分の部屋が綺麗になればなるほど、どうしても気になってしまうのが……そう、隣の部屋、202号室のことだ。
あの狐宮九美さんが住む、魅惑と混沌の巣窟。最後にちらりと覗いたのはいつだったか……確か、クリスマスパーティーの後片付けを手伝った(というか、ほとんど俺がやった)時以来、まともに部屋の中を見ていない気がする。あの時ですら相当な状態だったのだから、数日が経過した今は、おそらく、想像を絶するカオスが広がっているに違いない。
(……年、越せるのか? あの部屋で……)
もはや、他人事とは思えない。世話焼きな性分なのか、あるいは単に隣人として見過ごせないだけなのか……いや、多分、九美さんだから放っておけないのだろう。
二
俺は覚悟を決めた。こうなったら、俺がやるしかない。新年をゴミ屋敷で迎える隣人(しかも正体は妖狐)なんて、寝覚めが悪すぎる。
俺は、掃除用具(ゴム手袋、雑巾、ゴミ袋、洗剤など)を手に、隣の部屋のドアをノックした。
「九美さーん! 安倍ですけどー!」
中から聞こえてきたのは、「んぅ……なぁにぃ……?」という、こたつの中から発せられたとしか思えない、くぐもった声だった。やっぱり、こたつむり状態か。
「大掃除、手伝いますから! 一緒にやりましょう!」
俺が一方的に宣言すると、「えー……めんどくさいぃ……。あたしは別に、このままでも……」と、予想通りの返事が返ってきた。
「ダメです! 新しい年は綺麗な部屋で迎えるものなんです! いいから、開けてください!」
半ば強引にドアを開ける(最近、九美さんは俺が来る時は鍵を開けておくことが増えた)。
そして、俺は目の前に広がる光景に、改めて目眩を覚えた。
足の踏み場がない、とはまさにこのことだ。床には、前回の大掃除(夏バテ編)で見た光景をさらにアップデートしたかのような惨状が広がっている。脱ぎ散らかされた服の山(冬物が増えて、さらにかさばっている)、空になった日本酒の瓶やビールの缶、コンビニ弁当の容器、読みかけの雑誌や漫画、そして……やっぱり今回も健在な、レースやらシルクやらの扇情的な下着類。部屋の中央には、魔王の居城のようにこたつが鎮座し、その主である九美さんは、布団から顔だけを出して、けだるそうにこちらを見ていた。
「……だから、汚いって言ったのに……」
「……とりあえず、始めましょうか」
俺は深く、深ーくため息をつき、ゴム手袋をはめた。長い戦いになりそうだ。
三
まずは、床に散らばったものを片付けることから始めた。ゴミ袋を二種類用意し、「燃えるゴミ」「燃えないゴミ」とマジックで書き、分別していく。……いや、その前に「九美さんの所有物」という第三のカテゴリーが必要かもしれない。
「九美さん、これ、いります?」
床に落ちていた、片方だけのファー付きの手袋を拾い上げる。
「んー……? ああ、それ、この前なくしたやつだ。ありがとー」
こたつの中から、呑気な声がする。なくしたって、自分の部屋の中でか……。
次から次へと、発掘作業は続く。
飲みかけで放置された高級そうなワインのボトル。(もったいない……)
なぜかクッションの下敷きになっていた、片方だけのハイヒール。(どういう状況?)
明らかにサイズの合わない、子供用のキャラクター靴下。(誰のだ!?)
そして、ソファの隙間から出てきたのは、艶やかな紫色のレースのブラジャー……。
(うおっ!?)
思わず手に取ってしまい、慌ててゴミ袋(燃えるゴミ行きでいいのか?)に放り込む。顔が熱い。九美さんはこたつの中から、「あー、それお気に入りだったのにぃ」なんて言っている。お気に入りなら、ちゃんとしまってください!
「ねぇ、はるくん、それ、捨てないでよー」
俺が、くしゃくしゃになった雑誌の束をゴミ袋に入れようとすると、こたつから抗議の声が上がった。
「これ、まだ読んでないんですか?」
「うん、そのうち読もうと思ってたやつ」
「『そのうち』って……。もう先月号ですよ、これ」
呆れながらも、雑誌の束は部屋の隅に積み上げておくことにする。
そんなやり取りを繰り返しながら、少しずつ床が見えてきた。だが、本当の魔境はこれからだ。服の山、書類(?)の山、そして、部屋の隅に置かれた、いくつかの曰くありげな箱……。
ふと、服の山をどかした下から、古びた桐(きり)の小箱が出てきた。装飾などはなくシンプルだが、かなり年季が入っているように見える。大きさは、弁当箱くらいだろうか。
「九美さん、これ、何ですか?」
俺がそれを持ち上げると、こたつの中にいた九美さんが、ギクリとしたように動きを止めた。
「……あ、ああ、それ? それは、ただのガラクタ箱だから。うん、開けないでくれる?」
妙に早口で、慌てた様子だ。普段の飄々とした態度とは違う。ますます怪しい。中には何が入っているんだ? 妖狐の秘密道具とか? それとも、過去の男からの手紙とか……?(それはそれで嫌だ)
「……わかりました」
とりあえず、追求は避けておく。これも部屋の隅に置いておくことにした。
さらに、本棚(という名の、本が雪崩を起こしているカラーボックス)の隙間からは、何やら奇妙な模様がびっしりと描かれた、和紙のようなものが出てきた。お札…のようにも見えるが、神社でもらうものとは明らかに違う、禍々しいというか、不思議なオーラを放っている。
「こ、これは……?」
思わず後ずさる俺に、九美さんは「んー? ああ、それはねぇ、お守りみたいなもん。気にしないで」と、これまた適当に答えた。
(絶対違う! こんな不気味なお守りがあるか!)
内心で絶叫するが、これも見て見ぬふりをするしかない。
四
色っぽいもの、だらしないもの、そして明らかにこの世のものではない(かもしれない)もの……。九美さんの部屋は、まさにカオスとミステリーが同居する空間だった。掃除をしているはずなのに、謎は深まるばかりだ。
そして何より、肝心の部屋の主は、こたつの中で微動だにせず、時折「お茶淹れてー」とか「みかん取ってー」とか、指示だけは一丁前に出してくる。
(俺は家政婦か!)
心の中でツッコミを入れながらも、言われた通りにお茶を淹れてしまうあたり、俺も相当絆されているのだろう。
時計を見ると、もう夕方に近い。掃除を始めてから数時間が経過しているが、部屋が綺麗になった実感は、まだほとんどない。むしろ、色々なものを掘り起こしたせいで、余計に散らかったような気さえする。
俺は、積み上げられたゴミ袋の山と、未だ手つかずの領域(クローゼットとか、あの桐箱とか)を交互に見比べ、途方に暮れた。
(これ、本当に今日中に終わるのか……? 年、越せるのか……? 俺……)
絶望感が、じわじわと背後から忍び寄ってくるのを感じていた。
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