第29話 湖で龍神に触れた日 前編

 夜、家の窓の外に、秋風が吹く。どこか湿った気配が混じっていた。

 優斗は、布団の中で目を開けていた。眠っていたはずなのに、夢の中で水音がして、ふいに目が覚めた。


 (……なんだったんだ、あれ)


 夢の内容は、朧げだった。

 ただ、静かな湖面にゆらゆらと揺れる波紋の先で、“何か”が、目を開けていた気がした。

 気味が悪いというより、重たいものが胸の奥に引っかかるような感覚。


「……兄貴?おきてんの?」


 隣の布団がもぞりと動いて、麻斗が寝ぼけた顔で顔を出す。半分閉じた目で、こちらを見ながら言った。


「……なんか、変な顔してたぞ」

「……気にすんな。もう寝ろ」


 言って、背を向ける。

 麻斗はふあぁとあくびをして、あっさりとまた夢の中に戻っていった。

 目を閉じた優斗の耳に、風の音が微かに聞こえた。ひゅう、と家の隙間をすり抜ける風。

 それがなぜか、水音に、似ていた気がした。


 ◆ ◆ ◆


 朝の柊神社。  

 社務所の畳の上、麻斗と優斗が正座し、目の前には机越しに資料を並べた柊がいた。机の上には、封じ符に包まれた首輪の残骸が置かれている。  

 柊は煙草をくわえたまま、資料の束をぱらぱらとめくりながら、重く口を開いた。


「……ざっと調べてみたが、かなり精密に“お前の身体”が解析されてるぞ、優斗」


 優斗の視線が資料へと落ちる。


「……解析って、どこまで?」

「遺伝子レベルだ。お前の霊的構造も含めて、術式に組み込まれていた」


 優斗の背筋に、冷たいものが走る。


「血液とか、毛髪とか……そういうもので?」

「それだけで、ここまでの精度は無理だな」


 柊は、書類を一枚抜き取って見せながら、静かに言った。


「ここまでの情報を持ってるとなると——“かなり近しい親族がいてもおかしくない”な」


 麻斗が「は?」と眉をひそめる。


「親族って……誰だよ、そんなの知らねえけど?」

「少なくとも、今まで表に出てなかった“誰か”ってことだな。一卵性の双子のお前も優斗と遺伝子同じなんだから2人揃って気をつけろってことだ」


 柊は、首輪を包んだ符を一瞥し、ぽつりと言い切った。


「術式の作りからしても、間違いなく黒月の仕業だ」


 柊はふと資料をパラリとめくり、一枚の古びた地図を取り出した。紙の端には、古い神社や封印地の名が細かく記されている。


「で、話は少し変わるが……」


 柊は地図の一部を指でとん、と叩いた。


「これがうちの先祖が封印したり結界張ったりしてる場所の、ウチが管理してる範囲の一覧だ」


 その指が止まった場所に、小さく書かれていた文字。

 ——龍神神社。


「ここの結界が、最近どうにも緩んでる気がしてな。もともとかなり頑丈な封印だし、お前らでも対処はできると思う」


 麻斗が顔を上げた。


「ってことは、叔父さんが行かなくても大丈夫ってレベル?」

「まあな。俺が直接出るほどじゃない。

優先度は高くないが……様子見くらいはしておいて損はねえ」


 優斗も地図を覗き込みながら、静かに言った。


「……でも、黒月が“神”を狙い始めてる可能性があるなら、見過ごせないね」


 柊はうなずいた。


「鷹司家の麒麟もそうだったが、“神クラス”の存在に狙いがいってるとしたら、次がどこでもおかしくねえ」

「だからこそ、地味でも封印の“綻び”がないか、見てこいってことか」

「そ。ま、お前らなら一晩ありゃ行って戻れる。何もなきゃ何もないでいいし、何かあれば、すぐに連絡入れろよ。いいな」


 双子は顔を見合わせ、うなずいた。


「了解。……ってことは、今夜出発?」

「おう。さっさと行って、さっさと戻ってこい」


 ◆ ◆ ◆


 月の光が、山道を淡く照らしていた。

秋の空気は冷たく、葉擦れの音が足元からも頭上からも、静かに響く。


「……なあ、優斗。遠くね?」

「あともう少しで鳥居が見える。……我慢して歩け」

「うぅ〜……てか、俺の退魔の波長、今日ぜんっぜん反応ないな。怪異どころか、気配すらねぇ」

「そういう日はありがたく思うべきだよ」


 麻斗は文句を言いながらも、ちゃんとついてきていた。その一方で——優斗は黙ったまま、ふと歩く足を少しだけ緩める。


(……やっぱり)


 山道に立ち込める湿った空気、木々の隙間からちらちらと光が揺れる感覚…夢で見た光景と、まるで同じだった。

 静かな湖面。

 水音。

 “何か”が、目を開けていた気配。


(夢の中で見たのは、まさか……いや。たかが夢だ)


 麻斗には、言わなかった。言えば心配される。それに、確証なんて何もない。


「……兄貴、どうした?」

「いや、何でもない」


 優斗は、いつも通りの声で応えると、やがて朽ちかけた鳥居が姿を現した。その奥にある、龍神神社。封印の気配は、確かに弱まっていたが——


「……すぐに修正できそうだね。破られてはいない」

「そっか。ま、俺がしっかり見張ってっからさ。安心して修復してくれよな!」


 麻斗は所在なさげにふらりと歩いていた。

 優斗は、淡々と結界を確認し、術式のずれを整えていく。封印陣は古くとも精度は高く、再調整は難しくない。

 

 そして——その双子の背後。


 少し離れた木立の上、闇よりも深い影の中に、仮面をつけた“何か”が静かに立っていた。

 声も、気配もない。

 ただ、じっと。

 優斗の術式を、麻斗の動きを、封印の様子を。黙って“見て”いたが、やがてその影は、ふっと風とともに姿を掻き消す。

 社の前——そんなことは知らず、優斗が術式に指先で最後の調整を加えると、周囲の霊気がぴたりと静まった。


「……よし、できた」


 術式の光がすうっと沈静化し、封印は再び整った。


「俺な〜んにも仕事なかったな!」


 麻斗が背伸びをしながら、ちょっと不満げに言う。


「じゃあお前も術式、覚えればいいだろ」


 優斗が軽く肩をすくめる。


「いや〜俺の波長と術式、相性悪いって柊に言われたし〜。でも、兄貴がいてくれるなら安心安心♪」

「はいはい、またそうやって甘える……」


 優斗が踵を返して歩き出すと、麻斗もすぐに後をついていく。石段を下りながら、夜風がふたりの髪を揺らした。


「今日はもう夜も遅いし、報告は明日だな」

「賛成〜。飯食って寝て、明日でいいっしょ〜。俺なんかもう、完全に疲労モードだわ……」

「仕事してないのに?」

「……心のサポートって、結構疲れるんだよ?」

「……はいはい」


 ふたりの背中は、静かな山道を、家路へと戻っていった。


 ◆ ◆ ◆


 柊神社・社務所の朝。

 空気は澄んでいるのに、どこか肌寒さが残っていた。畳の上、麻斗と優斗が並んで正座している。目の前の机には、昨夜の報告用にまとめた資料と、柊が用意した地図が広げられていた。


「……で、封印は?」


 柊が煙草をくわえたまま、低く問いかける。


「ゆるみはあったけど、破られたり壊されたりはしてなかった」


 優斗が端的に返す。


「術式の配置が一部ずれてただけだったから、すぐに修正できた」

「なんか変な気配とかは?」


 今度は麻斗が答える。


「退魔の波長にはほとんど反応なかった。なんなら、近くに怪異も寄ってきてなかったっぽい。ただ、神社全体の空気は……なんつーか、重かったな」


 柊は地図の一角、龍神神社の位置を指で押さえながら、小さくうなずいた。


「まあ、そもそもあそこにある封印は古いが堅牢だ。簡単には破れねぇようになってる……けどな」


 彼の視線がゆっくりと優斗に向く。


「……お前は?何か感じたか?」

「……特に」


 一瞬、答えを迷ったように言葉が止まりかけたが、優斗はそのまま短く答えた。


(……夢の中で見た光景に、あの神社はよく似ていた。あの水音と、湖の揺らぎ。でも——“ただの夢”だ)


 話しても、意味はない。そう判断した。


「そっか。まあ、お前らが言うなら大丈夫だろ。とりあえず……監視は続けとくか」


 柊は煙草の火を灰皿に押しつけ、立ち上がった。


「お疲れ。飯食って寝とけ。変に霊気に触れてると、地味に疲れるもんだ」

「はーい!」


 麻斗は伸びをしながら返事をし、

 優斗は少し遅れて、静かにうなずいた。


 ◆ ◆ ◆


 夜。

 家の中は静まり返り、秋風が窓をかすかに揺らす。優斗は布団の中、眠っているはずだった。だけど——また、聞こえてきた。

 “水音”。

 ぽちゃり、ぽちゃりと、波が揺れるような音。耳の奥から、意識の底を打つように響いてくる。

 ゆらりと瞼が開いた。

 目の前は、見慣れた天井のはずなのに、どこか、揺れていた。床が、空気が、水のように。


(……夢?)


 でも、寒い。

 布団の温もりがないことに気づいたとき、優斗ははっとする。

 手足が、動かない。

 重い鎖のようなものが、手首と足首に絡みついている感覚。

 視界が、ぼんやりと赤黒い。


(……いや……これ、夢じゃ——)


 ふいに、ふっと体が浮いた。

 風の音が消え、代わりに湿った空気が鼻を突いた。それが、かすかに“血”のにおいを含んでいることに、優斗は気づいた。


(連れて……行かれてる……?)


 目を開こうとしても、まぶたが重くて上がらない。意識の縁で、どこかの鳥居をくぐる気配と、足元から、術式の光が這い上がってくる感覚があった。

 そのまま、体が地面に触れる。

 ごつ、と冷たい石の床の上。

 次の瞬間、両手両足を締める“何か”が固定される音がした。

 ——優斗は、封神の鎖に縛られ、

 龍神神社の社殿へと連れてこられていた。

 目の前には、広大な湖。

 水面はぴたりと静まり返り、まるで何かが目を覚ますのを、ただ待っているかのようだった。


(……これが……黒月……)


 意識が落ちていく寸前、

 社殿の奥で、誰かの足音が静かに近づいてくるのが聞こえた。

 ——コツ、コツ、コツン。


「……目覚めていなくても、繋がることはできるんだよ」


 コツ、コツ、コツン——

 

 石の階段を登る足音と共に、社殿の中へと現れたのは、黒い装束に身を包み、仮面をつけた男だった。

 その気配は、異様なほど静かだった。

 声も、まるで風の中から滲み出るように淡いのに、耳の奥に直接響く。


「龍神神社は昔、ある陰陽師が災厄をもたらす龍神を封印した……と言い伝えられている」


 仮面の男は社殿の中心、術式の縁をなぞるように歩きながら、微かに口元を綻ばせた。


「一から神を降ろすとなるとね……罪と罰の均衡、術式の複雑さ、制御の困難さ——いろいろと面倒なんだよ、やっぱり」


 手をひらひらと振りながら、男は言う。


「でも、“封印を解くだけ”なら話は別だ。

すでに鎖がある。式がある。そこに鍵があれば、あとは……開けるだけだ」


 優斗の身体は、封神の鎖で縛られていた。

手首、足首、喉元にまで薄く淡い術式の鎖が絡みついている。


 術式は社殿の床全面に張り巡らされており、

どの線も、すべてが中心にいる優斗へと繋がっていた。

 仮面の男が、ゆっくりと優斗の前に立ち、そして、指先をふわりと空に向けて翳す。


「君の惹魔体質は特異だ。“惹き寄せる”ということは、“繋がる”ということでもある」


 術式のラインが淡く、じわじわと光を帯び始める。


「君と龍神を同期させる。この術式は、君の縛めをそのまま龍神に転写する構造になってる。

君が縛られれば縛られるほど、龍神もまた縛られる」

「……っ……!」


 声が出ない。

 まぶたが重く、言葉が出せない。


「安心して。君はまだ、器として完璧じゃない。だから今は、ただ繋がるだけだ。けれど、起きれば……君を経由して、龍神は“封印から外へ”現れる」


 男が、にやりと仮面の奥で笑った気配がした。


「さあ、始めようか」


 ——術式が、淡い光から深紅へと変わる。

 まるで湖の底から何かがゆっくりと浮かび上がってくるような、静かな“解放”が始まろうとしていた。

 仮面の男の言葉に合わせるように、術式がゆっくりと色を変えていく。

 赤、朱、深紅——まるで血潮のような気配が社殿の床を這い、優斗の足元からじわじわと身体を包み込んでいく。

 そして——その瞬間だった。


(……っ)


 何かが、優斗の“内側”を叩いた。

 視界は暗いはずなのに、胸の奥に、焼けつくような感覚が走る。


(……これ……は……)


 ——怒り、だった。はち切れんばかりの、理性を焼き尽くすほどに、純粋な“怒り”。

 それは術式の向こう、湖の底にいる“何か”から伝わってきた。そしてどうやら、黒月の男も、他の誰も感じていない。


 けれど、封神の鎖を通じて“同期”されつつある優斗には、はっきりとわかった。


(なぜ、この存在が——“封印された”のか)

(いや、“封印せざるを得なかった”のか)


 その存在は、神だ。

 けれど人と相容れるような温和なものではない。怒り、嘆き、長い封印の中で煮詰まった激情が、今にも形を持って噴き出そうとしていた。


(……やばい……)


 そう思った。

 これは、もし“起きてしまえば”——倒す手段などない。神であるがゆえに、壊すことなど許されない。

 ただ、この場にあるのは“理不尽な力”だけだった。

 優斗の体が、細かく震えた。

 恐怖とは少し違う、繋がったことで、ただひとり“気づいてしまった”者だけが抱く戦慄だった。けれど——


(……僕が……起こすわけには、いかない……!)


 喉に絡む鎖に逆らいながら、

 優斗は必死に、精神を繋ぎ止めた。

 そのとき——術式の縁が一瞬だけ、ビクリと波を打つ。


(……麻斗……?)


 わずかに、微かな、かすれたノイズのような感覚が、遠くから優斗の意識に触れかけた。





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