第15話 黒月の手 中編
月明かりが静かに差し込む、洋館の一室。
壁も天井も黒く塗られたその空間には、ひたすらに冷たい空気が満ちていた。
その中心。膝をついたのは、仮面をつけた黒いフードの男。
その周囲には、同じ装束を纏った者たちが静かに座っている。
そして、彼らの目の前――宙に浮かぶように設置された一枚の液晶画面には、艶やかな黒のドレスを纏った女の姿が映し出されていた。
逆さ三日月のネックレスが、月の光を受けて鈍く輝いている。
その女は薄く笑っていた。表情は柔らかいのに、その瞳には底知れぬ“格”が滲んでいる。
「……召喚の儀は、失敗しました」
仮面の男の報告と共に、空気が凍る。
「何だと……?」
誰かが低く呟く。
だが、画面の女は一言も発しない。わずかに首を傾けるだけで、その仕草だけで仮面の男の背に冷や汗が伝った。
「……なぜ、日吉麻斗がいきなり来たのか……わかりません。奴は場所も知らないはず……感知もできないように、術式も完全に遮断していた……それなのに――」
弁明のような言葉が、途中で詰まる。
画面の中の女が、口元に細く長い指を当てると、まるで愛おしむように囁いた。
「……“器”が、“鍵”を呼んだだけのことでしょう?」
その一言に、仮面の男の肩が小さく震えた。
「“あの双子”は、離れていても通じ合う。……それだけのことよ」
「っ……なぜ……そこまで」
仮面の男が呟くように問うが、女は微笑を崩さず、ただ事実を淡々と告げる。
「日吉優斗に例の装置を取り付けられたことだけでも、充分成果はあったわ。ついでにあの“波長”が、どこまで怪異を惹き寄せるかを試す――それが召喚の本懐だったのでしょう?思った以上だったわ」
静寂の中、誰一人として反論する者はいない。女の声が、まるで絹を撫でるように続いた。
「……あの波長で、この世の怪異の目を呼び覚ましましょう。“惹魔”という器は……今後、存分に利用価値がある」
画面がふっと暗転する。
ただ冷たい空気だけが残り、洋館の闇がまたひとつ、深まっていった。
◆ ◆ ◆
夜の帳が降りる頃、優斗と麻斗はようやく柊神社の鳥居をくぐった。
山の冷たい風が、戦いの疲労をさらに際立たせるように吹き抜けていく。
その気配を感じたのか、社務所の引き戸が音もなく開き、柊が顔を覗かせた。
そして、白装束のまま首に奇妙な首輪をつけた優斗を見た瞬間――柊は目を細めて、低く呆れたように言った。
「……どうなったらそうなるんだ」
「俺も聞きたいっての……」
麻斗がぼやくように言いながら、よろよろと階段を登る。一方の優斗は、肩で息をしながらも、淡々と説明を始める。
「……召喚術式に巻き込まれた。首輪は多重術式で制御されてて……今も霊気が少しずつ流れてる。外そうとすると暴走の兆候が出るから、解呪には注意が必要」
「……はあ」
柊は額を押さえ、煙草に火をつけた。
くゆる煙の向こうで、彼は一歩二歩、近づいてきてから言う。
「で、お前ら。何回目だ?俺のところにボロボロで戻ってくんの」
「3……いや、4回目じゃね?」
麻斗が指を折りながら数える。
「違う、6回目だ」
優斗の即答に、柊が盛大にため息をついた。
「……ったく。じゃあ、さっさと上がれ。風呂沸かしてやるから。ついでにそこの首輪も俺が見といてやる」
そう言って、背を向ける。
「ありがとう、叔父さん」
優斗のその一言に、柊は手をひらひらと振っただけだった。
社務所の畳に座らされると、優斗は素直に背を預けた。柊は静かにしゃがみ込み、首元へ指を伸ばし、麻斗は少し離れたところで見守っていた。
指先が金属に触れた瞬間、チリチリ……と、まるでガス漏れのような霊気の音が微かに響いた。
「……ッたく」
舌打ちと共に、柊の顔がしかめられる。
「呪具に術式の多重仕込み……こんな手間のかかること、できるのは黒月くらいだろうなぁ」
言葉の端に、苦いものが滲んでいた。
指先をしばし首輪に添わせたのち、柊はふうっと長い息を吐いた。
「……解析に時間がかかる。急いで無理に外せば、お前ごと爆ぜるぞ。下手すりゃ記憶すら飛ぶ」
優斗が黙って頷く。
柊は立ち上がりながら、くしゃっと頭をかき、振り返った。
「取りあえず……お前ら、風呂入ってこい。飯食いながら説明してやる」
そして、ふっと優斗に目をやり、苦笑するように言った。
「特に優斗。お前……妖怪にでもベタベタ触られたか?ってくらい、残穢が濃い」
優斗は無言で目を逸らした。
麻斗が「そりゃそうだろ」とボソッと呟き、すぐにぷっと笑いを噛み殺した。
「……言うな」
優斗の低い一言に、麻斗が「わりぃ」と肩をすくめた。
柊は肩を回しながら歩き出す。
「湯、ぬるめにしといてやるよ。あんまり強く刺激すると……妖怪に触られたとこ、反応すんぞ」
「ほんと黙ってくれ」
「はは、素直な反応。よし、元気そうだ」
二人が風呂から出ると、茶の間の卓上には湯気の立つ白飯と味噌汁、そして浅漬けが並べられていた。
ありふれた、だがどこかほっとするような光景。けれど――そのそばで、柊は術式を展開しながら、優斗の首輪に霊気を流し込んでいた。
「……黒月の話は、前にしたな。覚えてるか?」
低く、静かな声が室内に落ちる。
麻斗は湯気の立つ白飯をぱくりと口に放り込みながら、軽く頷いた。
「うん。なんか……神がどうのとか、魂がどうのとか言ってたやつ」
柊は眉をひとつ上げ、小さく「まぁそんな感じだ」とだけ返した。
そして、指先を再び首輪の術式のラインへと這わせながら、淡々と告げる。
「術の複雑さ、拡張式、呪具…黒月のせいで間違いない。ソイツらは、おそらく優斗に狙いを定めてきてる」
優斗が少しだけ、箸の動きを止めた。
「惹魔の波長を利用して、この世界に化け物を召喚する――そのために、優斗という“器”を選んだ」
その言葉に、麻斗の顔がわずかに強張る。
「だがな。この首輪……ただ一体を召喚するためのもんじゃねえ」
柊はそう言って首輪に組み込まれた術式の層を撫でるように確認する。
「これは、優斗に“常に”首輪をつけさせて、霊気を放出させ続けるための装置だ。優斗の霊気に惹かれた怪異やら怨霊やらを、自然と引き寄せる……要するに、“誘導灯”だな」
「……っ、それって……!」
麻斗が声を上げると、柊はふっと眉を寄せた。
「ちょっとやそっとじゃ外せねぇようになってる。……術式が深く、しつこい。優斗の体質にピッタリ合わせて作ってやがる。……つまり、俺たちのこと、かなり細かく調べられてるってことだ」
術式に集中しながらも、柊の声には確かな怒りがにじんでいた。
「……かなり、厄介だぞ」
その一言が、静かに卓の上に落ちる。
味噌汁の湯気だけが、変わらずふわりと昇っていた。
「……どうすればいいんだよ」
低く搾り出すような麻斗の声が、空気を揺らす。柊は淡々と肩をすくめると、指先を滑らせて空を二度切った。呪文の囁きが霊気を纏って消えていく。
「……とりあえず、一般人にはその首輪は見えねぇだろう。隠し結界を張った。少なくとも見た目は日常通りだ」
そう言って、柊は再び優斗の方へ目を向ける。
「……首輪を外すには、少なくとも数日はかかる。理想は7日間。その間、霊気を極限まで出さないことだ」
優斗が小さく眉を寄せた。だが、言われる前からその覚悟はしていた。
「もちろん、術式も、結界も、全部禁止な」
その言葉に、麻斗の表情がはっきりと強ばる。
「……霊気を切ったら怪異は寄ってこないのか?」
その問いに、柊はふっと鼻で笑った。
「来るに決まってんだろ。生きてる以上、霊気をゼロにはできねぇ。つまり――7日間、霊気を絞った優斗の代わりに、寄ってくる怪異をお前が祓い続けるしかねぇ」
「……!」
麻斗が息を呑む。優斗が何かを言いかけたが、柊がそれを制すように立ち上がった。
「霊気を極力抑える訓練は……散々しただろ、優斗。7日間。その後に、俺がこの首輪を解いてやる」
静かで、だが間違いなく命を預かる者の言葉だった。部屋に再び、重い沈黙が落ちる。
「……7日間、取りあえずウチで寝泊まりしろ。外よりはまだマシだろ」
柊の言葉に、優斗と麻斗は頷いた。
古びた神社の境内は、確かに外界より霊気の流れが整っている。だが――
それでも。
夜の帳が下りた静かな境内で、建物の脇や鳥居の影――その“隙間”から、ゆらりと現れる影がある。
黒く滲んだその“何か”は、はっきりと形を持たぬまま、じっと優斗を見ていた。
いや、“見ている”というより、“値踏みしている”。
――これは“喰えるのか”?
――近づけば、触れられるのか?
そんな問いが、まるで視線のように突き刺さってくる。
神域であるはずの神社に、こんな風に怪異が入り込むのは、異常だ。
本来なら、結界に弾かれてその手前で薄まるはずの存在が、じっと様子を窺っている。
「……まーじで寄ってきてんな」
麻斗が渋い顔で、軒下の闇を見た。
「優斗、お前、ちゃんと抑えてんのか?」
問いかけに、優斗は無言で小さく頷いた。
呼吸を整え、丹田に意識を落とし、体内の霊気の流れを制御する。
あの頃と同じ。昔、柊に叩き込まれた“抑制訓練”のやり方。
「……抑えてても、これだけ寄ってくる。首輪が、拡散してる」
優斗の呟きに、柊が低く舌打ちした。
「……この調子だと、外に出るのは数日後にしといた方がいいかもな。まずは神社の中で様子を見るぞ」
そんな会話の最中も、境内の影では――
怪異が、にちゃりと、音を立てて地面を舐めるように移動していた。
“惹かれてきた”ものたちは、今まさに、神域の外縁から這い寄っている。
そして、優斗と麻斗が境内の階段を下りかけたその時、社務所の奥から柊の声が飛んできた。
「学校は行っとけよ」
ふいにかけられた言葉に、優斗が足を止める。
「怪異っつーのはな、基本的に“人をいきなり即死させる”ほど邪悪なもんじゃねえ。ほとんどはちょっかい出したり、霊障起こしたり、そういうのがせいぜいだ。……まあ、例外もいるが」
そう言って、柊は手をひらひらと振った。
「学生は学生らしく、勉強しろ。日常をやめたら、ホントに引きずり込まれるぞ」
そして、軽く息を吐く。
「じゃ、俺は結界張り直してくる。……なるべく、七日間、持たせられるようにな」
その背中に、麻斗が「了解!」と声をかけ、優斗はただ黙って頭を下げた。
◆ ◆ ◆
翌朝。空はまだ薄青く、神社の森にかかる朝靄がゆっくりと晴れていく。
柊神社の縁側で、制服姿の優斗がゆっくりと靴紐を結んでいた。首元の首輪は、依然として外れていない。だが、柊の術式によって一般人には見えないよう覆われている。
「……大丈夫そうか?」
麻斗が、パンを口にくわえながら言った。
優斗は立ち上がり、制服の襟を軽く整えながら小さく頷く。
「霊気も抑えてる。……多分、今日は問題ないはず」
“多分”――その曖昧さを、麻斗は聞き逃さなかった。
「ま、何かあったらすぐ連絡しろ。校舎ぶっ壊してでも迎えに行く」
「壊すな。余計な仕事増やすな」
無表情なまま返す優斗の肩を、麻斗が軽く叩く。
「じゃ、行くか」
境内を出るとき、鳥居の脇で何かがカササッと動いた。優斗はわずかに目を細めたが、霊気は抑えたままに歩き出す。
神社の外の世界は、何も知らない人々の朝が始まっていた。だけど――優斗の背後では、未だ鳥居の下に、何か“見えないもの”がにじんでいた。
それでも彼は、何もなかったように制服のポケットに手を入れ、通学路を進んでいく。
朝のチャイムが鳴ってから、既に三時間以上経っているが、数学、英語、古文と続く授業の最中。窓の外、廊下の隅、階段の踊り場、そして教室の天井近く――
優斗はずっと“視線”を感じていた。
ぴたり、と吸いつくような気配。
教科書の文字を追っている間も、移動教室へ向かう廊下でも、休み時間のわずかな息抜きのときも、それは途切れなかった。
あからさまな“敵意”ではない。
けれど確実に、彼を“見ている”存在がいた。
首輪に組み込まれた術式が霊気をじわじわと放出し続けている。抑えてはいるが、滲み出るものまでは完全には止められない。
昼休み。校舎裏の人気のない場所で、優斗と麻斗は肩を並べて立っていた。
春の陽射しが射す中、優斗はじっと立ったまま、霊気を抑える集中を続けている。
その横で、麻斗はパンを片手に肩をすくめた。
「抑えてんのが疑わしいくらい、数が多いって……雑魚ばっかだけどさ」
優斗は短く息を吐き、ゆっくりと目を閉じた。
「霊気は抑えてる。術式の輪郭も崩してない。
でも……首輪が、余計な拡散してるみたいだ。僕の波長じゃなく、“器”そのものが反応されてる」
「なるほどなー……なるほど。……めんどくさすぎんだろ」
麻斗は空を見上げて、パンをかじる。
「ま、すぐ命に関わるほどじゃねえけどさ、
チリツモで精神やられそう。なんつーか、蚊が二十匹ずっと顔の周り飛んでる感じ?」
「……そんなに?」
「いや、だって実際、今二十くらいいるぞ?」
優斗は無言で周囲を見渡した。教室の窓の影、校庭の片隅、植え込みの奥――確かに、目には見えない“視線”が、じっとこちらを見ていた。
それでも、優斗は崩さなかった。
首輪の中で、霊気がじわじわと滲み続けている。
「……午後も気を抜くなよ」
「こっちのセリフだっての」
◆ ◆ ◆
放課後。
教室には、すでに生徒の姿はほとんどなかった。日が傾き始めた窓の外を眺めながら、優斗は机に教科書をしまっていた。
その時だった。
――ガタン。
誰もいないはずの席が、軋むように鳴った。
優斗は目線を動かさず、微かに息を吸う。
(……また、来たか)
“それ”の気配は、明らかに近づいてきている。視界の端で、黒く歪んだ人影が机の下から這い出してくる。
関節が逆に折れたような足。顔に目はなく、ただ“霊気”を嗅ぎつけるように、首をかしげている。
霊気は抑えている。それでも、首輪からにじみ出るものまでは完全に止められない。
(麻斗……お前、今どこだ)
優斗が麻斗にテレパシーを流すと、しばし沈黙が流れる。
だが、次の瞬間、頭の中にやや間の抜けた声が響いた。
(え、優斗?今購買。パン買ってた。つぶあんとクリームどっちがいい?)
(いらない。来い。今すぐ)
(……了解)
返事のトーンが、一瞬で切り替わる。
ふざけた雰囲気は一切なく、鋭く研がれた意志の波長が、脳内に響いた。
“それ”が這い寄ってくる。
顔のない頭が優斗にぐいと近づく――その瞬間、
ガンッ!!と教室のドアが弾けるように開かれた。
「離れろ、クソ雑魚!!」
麻斗の拳が閃く。退魔の波長が炸裂し、怪異が空中で裂け、残穢の靄を残して消えていく。
静まり返った教室に、乱れた空気だけが残った。
「……助かった」
優斗が呟くと、麻斗は息をつきながらパンの袋を握りしめて言った。
「こっちはパン選んでたのに、テレパシーで“今すぐ”って……それヤバい合図じゃん」
「正解だったろ?」
「……まあな。あんパンは諦めたけどな」
◆ ◆ ◆
夜の柊神社。境内には虫の声と風の音だけが響いていた。
社務所の中。柊は卓上の明かりの下で、優斗の首元に手をかざし、首輪の霊気の動きを確かめていた。
「……うん、抑えられてるな。この調子だ」
そう呟くと、ひと呼吸の間を置いて、ふっと息を吐いた。
「……黒月の話だがな」
柊の視線が、徐々に鋭くなる。
「奴ら、あまりにも優斗のことを知りすぎてる。この首輪の作りも……攫い方も……あまりにもピンポイントだ」
優斗はわずかに顔をしかめ、視線を落とした。
「……僕が攫われる直前、最後に声をかけてきたのは……他校の女子生徒だった」
その言葉に、柊の目が細くなる。
「そんなところにも、黒月の手の者がいるってこと?」
柊は、ゆっくりと頷いた。
「十分あり得る。……だがな、情報の伝わり方が早すぎる。首輪の術式も、優斗の体質に合わせすぎている……もしかしたら――」
言葉の切れ端が空気を重くする。
「……身内の中に、黒月に繋がっている者がいる可能性もある」
空気が、ぴたりと静止した。
優斗の手が膝の上でぎゅっと握られる。
麻斗が珍しく言葉を失い、ただ隣で顔を上げる。
「俺の術式にも、気配の遮断にも、奴らは全く引っかからなかった。この感じは……内部から情報が抜けている証拠だ」
柊の声は、低く、どこか苦々しかった。
「……誰だよ、それは」
麻斗の声が低く落ちる。
怒気というより、戸惑いと苛立ちが混ざったような声音だった。
柊は手を止めることなく、淡々と肩をすくめた。
「知らん。知ってたらさっさと言ってるに決まってんだろうが」
ぽつりと吐き出すように言ったその声には、いつもの軽さはなかった。
「柊の身内、お前らの身内……含めて“それなりに”人間はいるんだぞ。俺だって全員の行動まで逐一見張ってるわけじゃねえ。……それに、黒月ってのはそういう“そういう繋がり”を使うのが得意な連中だ」
麻斗は拳を握りしめ、しばらく黙っていたが、やがてゆっくり息を吐いた。
「……だったら、何か起きる前に潰すしかねぇじゃん」
その言葉に、柊はふっと目を細める。
「それができりゃ、話は早い。でもな――一番厄介なのは、“何も知らずに黒月の駒になってるやつ”だ」
柊の視線が優斗に向く。
「そういう奴ほど、“本人に悪気がない”から、罪悪感もない。情報を流すことすら、“善意”でやってたりする」
その言葉に、優斗の目が静かに揺れた。
◆ ◆ ◆
翌日。
放課後の西陽が校舎のガラスに赤く反射していた。
一日中、霊気を抑え続け、授業に集中しながらも怪異の視線を受け流していた優斗は、
校門を出た瞬間、長いため息をひとつこぼした。
「……疲れた」
隣を歩く麻斗が、制服の襟を緩めながら振り向いた。
「だろうな。見てて思った。顔、引きつってたぞ」
「そりゃ疲れるよ……昨日の話も気になってたし」
「……“身内の誰かが黒月に繋がってるかもしれない”ってやつか?」
麻斗の問いに、優斗は小さく頷いた。
「……でも、心当たりが全くない。
父さんも母さんも“視えない”から、黒月には入れないはずだし……」
見えなければ黒月として活動できないはず…ということは黒月に繋がるとすれば視える人間であるはず…ぽつりと漏らしたその瞬間だった。
空気が――ひとつ、変わった。
ふと足を止めた優斗の周囲に、ぞわりと何かが走る。
感情に気を取られた一瞬。
霊気の制御が一拍、遅れた。
その“隙”を、確実に嗅ぎ取った存在がいた。
――ギィ……
背後の地面に、何かが這いずるような音が響く。振り返るよりも早く、重く、冷たい“気”が、背中に圧し掛かった。
廃油のような臭気。
歪んだ影が、夕陽に黒く滲む。
「っ、優斗、下がれ!」
麻斗が即座に前へ出て、右拳に波長を込めた。だが、その目の前に現れた怪異は、今までの雑魚とは違った。
巨躯。
異様に長い四肢と、潰れたような顔。
そしてその口元からは、優斗の霊気と同じ波長が漏れていた。
「……これ、昨日の残穢を喰って進化してる……?」
優斗が息を飲む。
「“しっぽ”じゃねえ、こいつ、“本体”だ」
麻斗が構え直したその瞬間、怪異がぬらりと腕を振り上げ、振り下ろされる。
麻斗が飛びのきながら地面を蹴り、回り込む。
(優斗!あいつ、霊気の動きが読めねぇ!)
テレパシーが一瞬で飛んでくる。
(…あれ、形が不安定すぎて波長の表層が乱れてる。でも……コアは胸元、中心に“抜けない軸”がある。そこを狙って!)
優斗の頭の中には、敵の構造が透けるように見えていた。術式は使えない。けれど、見ることはできる。分析も、伝えることも。
「よしっ……!」
麻斗が地を蹴る。ぐわりと伸びてくる怪異の触手のような腕を紙一重でかわしながら、
拳に退魔の波長を込める。
(もう少し右、そこだ!)
優斗の声が脳内に響いた瞬間、麻斗の拳が怪異の胸元に突き刺さる。
ドガァッ!!
怪異の身体が内側から爆ぜたように、霊気の塊が弾けた。
地面を這う影が悲鳴のような風を撒き散らしながら、空へと消えていく。
息をついた麻斗が振り返る。
「……まじで、声だけで誘導されて倒すのやめたほうがよくね?バケモンかよお前」
「僕は今、波長も術式も使えないんだよ。
……なら、口だけでどうにかするしかないだろ?お前を見てるだけだとヒヤヒヤするからね」
優斗は肩を上下させながら、静かに答えた。
背後には、まだわずかに漂う残穢が揺れている。
「“霊気を抑えながら戦う”って、想像以上にきついわ」
「お前がしゃべるたびに“ブワッ”て波長漏れてたからな。あとで柊にまた怒られるぞ」
2人は顔を見合わせ、ふっと笑った。
◆ ◆ ◆
夜の神社。社務所の一角に、灯油ランプの柔らかな光が揺れている。
その下で、柊が優斗の首元にそっと指を当てていた。冷たい金属に触れた指先から、霊気の流れを読み取っていく。
――チリ、チリ、と微かに霊気の残滓が首輪から立ち上る。
けれど昨日より、ずっと静かだった。
「……まあまあ、うまいことやってんじゃねえのか」
ぽつりと漏らしながら、柊は煙草をくわえ、火を点ける。
白い煙が、ゆるく天井へと昇っていく。
今度は、対面のソファで足を投げ出している麻斗に目を向けた。
「……で? 今日出てきた怪異、どんなもんだった?」
麻斗は少し肩をすくめ、頭をソファの背にもたれかける。
「でっかいの一体。昨日のとは段違いだったな。中身に残穢溜め込んでて、しかも首輪から漏れた波長にも反応してた。……多分、昨日倒した奴の“しっぽ”じゃなくて、本体のほう」
その言葉に、柊の目が細められる。
紫煙を吐きながら、低く唸った。
「この程度の怪異出すためだけに……わざわざこんな精密な首輪を作って、優斗に嵌めるか?」
言葉の切れ目に、僅かな苛立ちが滲む。
「……まさか。目的は“怪異を呼び寄せること”そのものじゃねえのかもしれん」
優斗が、ぴくりと眉を動かす。
柊の目は、静かに優斗へ向けられていた。
「優斗の“惹魔の波長”を、首輪で常に垂れ流すことで……“惹魔の流れ”自体を強化してるんじゃねえか。妖怪なんかよりもっと上の、上位の存在を、この地に引き寄せるために」
社務所の空気が、ひとつ重くなる。
窓の外、風がざわりと木々を揺らした。
誰も言葉を継げないまま、柊の煙草の先だけが、じりじりと燃えていたが、しばらくの沈黙の後、柊が煙を吐きながらぼそりと呟いた。
「……まあ、これはあくまで“想像”だがな」
紫煙の向こうにある目は、どこか遠くを見ているようだった。
「だが、黒月がやろうとしてることなんざ、ロクなもんじゃねえ。用心するに越したことはねえよ」
そう言って、柊は手元の術式資料をぱたんと閉じた。
「……今はとりあえず、“それ”を外すことだけ考えろ。変に動いて余計な気配を撒くな。霊気を切り続けることだけに集中しろ」
優斗は小さく頷いた。
首元の首輪は、未だひんやりとした金属の感触を残したまま。
何も言わず、ただ静かに、確かにそこに在り続けていた。
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