第7話 九尾と契る・前編

放課後の教室で、上級生に囲まれている麻斗は困ったように頬をかいていた。


「なんというか…部活やる暇ないんスよ」  


 上級生たちは口々に麻斗に懇願するように手を合わせる。


「頼む!運動神経いいらしいじゃん!体力テストの成績も良かったんだろ!?」 「見学だけでも!」


 部活に入部できない本当の理由は"陰陽師見習いだから"なのだが…。麻斗は、怪異の見えない彼らに本当の理由を明かすこともできず、困っていた。


「うーん、じゃあ…見学だけなら」


 麻斗が、喜ぶ彼らを横目にちらりと時計を見た。


(優斗、すまねえけど部活の見学だけして断るから先帰ってて) 


 双子の兄、優斗にそんなテレパシーを送った。


(了解。無理はするなよ)


 優斗は、麻斗からのテレパシーに短く返すと、鞄を手に立ち上がった。

 夕焼けが窓の外を染め、教室の中は静かだった。椅子の引かれる音や笑い声はもう遠く、校舎全体がゆっくりと眠りにつくような、そんな時間帯。


(今日は、いつもより静かだな)


 優斗はそんなことを思いながら、優斗は昇降口へ向かって歩いて階段を下り、靴を履き替えて――そのまま、校門を出る。


 風が一段と冷たくなり始めた頃。

 久しぶりに麻斗のいない、一人で人通りの少ない帰り道。通学路から一本外れた裏手の細道。


 す、と。

 耳に届くはずの雑音が、ふっと消えた。


(……結界か!?)


 咄嗟に足を止めた優斗は、即座に手を滑らせて護符を握る。指先に霊気を通しながら、周囲の波長の歪みに集中する。


 次の瞬間、目の前に“それ”はいた。

 フードを深く被った男――否霊気を纏う術者が、足音もなくそこに立っていた。

 男の胸元には三日月が光っていた。


「日吉優斗」


 低く、感情の読めない声に、優斗の背に冷たい汗が伝う。


「誰だ。……何者だ」


 返答はなく、ただ術者の足元に霊符がひらりと舞い落ちる。と同時に、空間がねじれた。


(結界――展開!)


 優斗は即座に足元へ結界術式を描き、周囲の霊流を組み換える。だが。


「読みやすい」


 術者はそう呟くと、術式を上書きするように自身の符を放った。優斗の結界が、内側から“崩れていく”。


「ッ……!」


(こんな術、初めて……)


 まるでこちらの術を知っていたかのような動き。防ぐことに全てを注いでも、力は拮抗すらしない。


「君は、器ではない。しかし――“扉”にはなれる」

「我らの理に適した、理想的な“入り口”だ」


 再び術が展開される。

 優斗の視界がぼやけ、膝が崩れ落ちる。


(麻斗……――)


 意識が、すとんと闇に落ちた。


 ――そして、目覚めたとき。


 優斗は気がつくと、洞窟のような広い空間の中に両手は後ろに回され、膝立ちしていた。 洞窟には明かりがいくつかあり、奥には薄暗い通路が伸びる。

 優斗が立ち上がろうとすると、キン、と金属が擦れる音がして地面に固定されているかのように動けない。

 目の前には注連縄の貼られた岩があり、邪悪で鳥肌が立つような恐ろしさを放っていた。

岩の表面に貼られた注連縄が、じわり…と焼け焦げていく。波のように漂ってくる、異様な気配。優斗の肌に粟が立つ。


(……なんだ、この霊気…)


「目覚めたか。日吉優斗」


 男の声が、響く。優斗が前にいる男に目を向けると、帰路で優斗に襲いかかってきた術者の男が笑った。後ろには術者がさらに2人控えていた。


「目の前のそれは、かつて恐れられ、“災”と称された存在――九尾の狐。それが封印されておる殺生石だ」


 優斗は無言のまま睨みつけるが、術者の男は構わず続ける。


「だが、封を解くには君の“惹魔の波長”が必要でな。君の体質はちょうど良かった…君の惹魔体質は、神であろうと怪異であろうと惹き寄せ、導くだけの魅力を持っている」


 優斗は目を見開いた。


「君は、九尾を呼び、九尾は君に宿る。そうして、我らは“九尾”を手に入れる」


(……ふざけるな…!)


 だが霊気の濁流が岩の中から吹き出し、優斗の体が勝手に震える。

 そのとき――


『……あァ……この匂い。懐かしい』

『久しいな……封の外。血の匂い。空気の味……』


 耳の中に、誰かの声が入り込んできた。その声は、ゾッとするような人ならざるモノの声。


「……っ!」


 注連縄が、ふわりと宙に浮いた。まるで命あるもののように、優斗の方へと“触れよう”としてくる。岩の奥――その内部から、何かが、何者かが、目覚めようとしていた。


(止めないと……!これ以上封印が剥がれたら、絶対に……!麻斗…!)


 だが両腕は地に縫いとめられたように動かない。霊気は術式で封じられ、声すら震え、波長がまとまらない。


「こいつを出せば、現世のバランスが壊れる……!お前ら、本気で……!」


 優斗の叫びも、術者たちは鼻で笑うばかりだった。


「破壊と創造は常に隣り合わせだ」

「これは、神をこの地に戻すための必要な通過儀礼にすぎない」

「君はただ、そのために選ばれた“扉”だ」


 その時だった。


 ――ボウ……ッ。


 岩の表面が淡く光り始めた。赤黒い燐光が、注連縄の内側から滲むように浮かび上がる。

 優斗の背筋が、ぞくりと震えた。

 そして、耳に――いや、頭の中に、声が響く。


『俺様をこんなところに封印した人間ども…憎いなァ…恨めしいなァ…』


 九尾の狐の怨嗟の声が優斗の頭に響く。


『またあの日のように、人間どもを焼き殺し、八つ裂きにしてやる…!』

「やめてくれ…」


 優斗が振り絞った声に、怨嗟の声がピタリと止む。


『…ほぅ?我を惹きつける霊気を持つ人間…俺様に語るか?』


 嘲笑うような、しかし興味を示すような声に、優斗がその邪悪な霊気にさらされながらも低く呟いた。


「頼む…やめてくれ…」 


 九尾の狐の声は男たちには聞こえないのか、単調な呪文の声が洞窟内に響く。


『ふ、ふはっ……ふはははは!』


 まるで張り詰めた糸が切れたように、九尾の笑い声が優斗の頭の中に響き渡る。


『俺様に供物として捧げられている惹魔の波長をもつ人間か…哀れだな。だが俺様の怒り…お前を見ると怒りが萎えるなァ…。変な奴だ……まるで、俺様の前に供えられる、甘美な酒のような霊気だ』


 九尾の狐の怒りが緩む。


『……面白い奴だ。焼き殺される立場で、俺様に“やめてくれ”とは…フッ、よかろう…お前のその霊気、もっと味見させてくれよォ…お前の身体に巣食ってやる…!』

「だめだ…そんなことは……!」


 優斗が緩く首を振ると、九尾の狐の霊気が揺れる。九尾の霊気が、蛇のように優斗の身体を這い上がってくる。

だが、それは支配や侵蝕というよりも、“値踏み”するような、冷たくじっとした眼差しに近かった。


『……俺様に抗うつもりか。お前のようなひ弱な人間が?』


九尾はくつくつと喉を鳴らす。


『だがまぁ、悪くない……お前の中は居心地が良さそうだ。…なぁ、契約してやってもいいぜ?』


 優斗は目を見開いた。


「……契約?」


『こんな石ころじゃねえ…。俺様をしっかり“祀る”って条件でな。…祠を建て、神として扱え。

そうすれば、今すぐ暴れることも、やめてやる…目の前にいる、お前を戒め、臭い口を開き、ブツブツと忌々しい言葉を並べるあいつらも、八つ裂きにしてやるぞ?』


 優斗の喉がごくりと鳴った。邪悪な存在が、契約を持ちかけてきている。こんな存在から力を借りてもいいのか…だが、迷っている暇はない。男たちの呪文はまだ続いている――もう長くはもたない。

 幼い頃聞いた柊の言葉が蘇る。


「覚えとけ……人ならざるものと契約は絶対するな」

「霊、妖怪、神、悪魔……呼び名はどうでもいい。人ならざるものである怪異は、人間の常識なんざ、通用しねえ」

「たとえ自分にとってかなり有利な契約だと思ってもな、あいつらが“そうしてくれる”保証は、どこにもねえ」


 安易に人ならざるものと契約はしてはならない。しかし、九尾の霊気が、まるで逡巡する感情を読み取ったかのようにふっと優しくなる。


『どうした?怖いか?しかしお前は、ここからどうにかなる術を持つのか?』

「僕は…、」

『それなら…お前も、あの日の人間どもと同じ末路を辿るだけだ』


 優斗の心臓が、不規則に高鳴っていた。

 霊気の圧は、もはや呼吸さえままならないほど強く、骨の髄まで染み渡った冷気が、逆に意識を冴え渡らせる。

 柊の言葉が頭に響く。 


(“契約はするな”……“人ならざるものに人の常識は通じない”……)


 人ならざるものとの契約がどうなるかわからない。暴走するかもしれない。けれど、

 それでも。


(……僕は、死にたくない)

(こいつが暴れれば…世界も…麻斗も…危険に晒されてしまう)


 静かに目を閉じ、優斗は口を開いた。


「……わかった。契約する。……その代わり、条件は守ってもらう」

『言ってみろ』

「――暴れないこと。僕の身体を勝手に使わないこと。そして……麻斗に手出しをしないこと」


 洞窟の空気が、ぴたりと止まった。

 そして――ふっ、と九尾が笑った。


『……人間のくせに、なかなか言うな。気に入ったぜ。いいだろう、契約は成った。俺様を受け入れろ』


 九尾がそう言うと、優斗の身体に九尾の霊気が一気に流れ込み、脳裏に熱の閃光が走り、視界が白に包まれる。

 その瞬間――

 注連縄が、ふっと切れた。


 ぞわり、と。


 空気が震え、地面の霊脈がぐらりと揺らいだ気がして、不快な感触が優斗の全身を這い回る。皮膚の上を、肉を、血を、骨を。

ぬるり、ぬめりとした“何か”が這いずり回り、内側へと侵入してくる。


(……ッ、う……)


 思わず歯を食いしばる。

 心臓が早鐘を打ち、吐き気にも似た嫌悪感が喉の奥にせり上がった。

 これは“力”じゃない。

 これは“毒”だ――優斗の中の何かがそう叫んでいる。だが、


(……受け入れるって、言ったんだ……)


 本能が拒絶する。

 身体が拒む。

 霊気が悲鳴を上げる。

 それでも、優斗は――耐えた。

眉を寄せ、奥歯を噛み締めながら、

まるで全身を針で貫かれるような感覚に、ただ黙って耐えた。


(逃げるな……受け止めろ……)


 すると、不思議なことに――一瞬、九尾の霊気の中に“寂しさ”のようなものが混じった気がした――その寂しさが、優斗の中の何かを、ほんの少しだけ、揺らした。そして、流れ込む。

 強く、重く、鋭く、気持ち悪く、それでもどこか美しい、異質な力が、優斗という器に刻まれていく。身体から力が溢れ、頭からは狐の耳が生え、臀部から狐の尻尾が生える。

 契約は、結ばれた。


『……さて。俺様を起こしてくれた礼でもしてやれよ、優斗』


 パキンっと両腕の戒めが爆ぜ、術者たちが驚きに目を見開いた。その時、懐かしい波長と早足で此方に向かってくる足音がする。


「優斗!お前こんなとこにいたのかよ!なん…、え?」


 洞窟に飛び込んできた麻斗が、目を見開く。

 淡く光る燐光の中。

 優斗は立っていた。

 その姿――頭からは狐の耳。背にはふわりと揺れる尾。九尾の霊気を纏い、優斗の目はどこか遠くを見ていた。


「……うそ、だろ……」


 声が漏れた。

 まるで“別人”に見えるのに、

 それでも――波長は、

 いつも喧嘩して、いつも心配して、いつも一緒に戦ってきた、兄のそれだった。


「……優斗、だよな?」


 その声に、優斗がゆっくりと振り返る。

 金と紅の揺れる瞳が、麻斗をまっすぐ見据えた。


「……ああ。僕だよ、麻斗」


 微かに笑うその姿は、

 確かに、優斗だった。


(色々あったことは後で説明する。こいつらを片付けるよ、麻斗)


 テレパシー越しに、優斗がにやりと笑った。


(上等!)


 麻斗はすべての疑問を飲み込み、手のひらで拳をトンッと叩いた。


「お前ら……よくも兄貴を連れてってくれたなぁ……」


 低く唸るような声。

 そして麻斗の全身から、ぶわりと退魔の波長が立ち上る。

 優斗も、九尾の霊気を淡くまといながら、静かに術式を展開し始める。


「君たち、僕を使って神を得ようとしたね。……なら、そのツケ、払ってもらうよ」


 術者のひとりが焦ったように後退る。


「結界が――破られてる!?九尾の封印も……!なのになぜ呑まれていない!?」

「いや、奴はまだ完全に“器”じゃないはずだ!倒せ!力を回収しろ!」


 術者たちが再び術符を構える。


(優斗、行くぞ!)

(うん。合わせる)


 二人の思考が重なると同時に、麻斗が先に踏み込んだ。麻斗が退魔の波長を拳に込め、真正面から一人を殴り飛ばす。術式の壁を打ち砕き、男が悲鳴を上げて吹き飛んだ。

 同時に、優斗の掌に淡く灯る狐火が揺れた。九尾の霊気に混じった術式が敵の足元を絡め取り、逃げ道を奪う。


(今だ、麻斗!)


「っしゃああああああッ!!」


 麻斗が跳び上がり、二人目に回し蹴りを叩き込む。霊気が炸裂し、壁が崩れる。

 残る一人が結界の修復を図るが――


「無駄だよ」


 優斗がそう囁いた瞬間、狐の尻尾がふわりと宙を裂き、術者の符を飲み込んだ。

 その瞬間――斬撃が走った。

 霊気が弾け、洞窟の空気が真っ二つに裂ける。術者たちは、返す暇もなく――次の瞬間には、術者三人の身体からは、血が流れていた。

 断面は鋭く、焼け焦げたように黒く変色している。地に伏していた。

 静寂。

 優斗は、息を止めた。


「……っ……」


 そんなつもりはなかった。

 あくまで術を無力化し、拘束しようとしただけだったのに。


「優斗…優斗!大丈夫かよ」


 麻斗の心配そうな声がしたその時。


『何を驚いている?』


 九尾の声が、頭の中にふわりと響く。


『俺様はお前の力に、少し“俺の力”を乗せただけだ"暴れないこと"って言う契約は守っているぞ』


 呆然と立ち尽くす優斗に、麻斗が心配そうに優斗を見る。


『宣言通り八つ裂きにしてやっただけだ』


 くく、と喉を鳴らすような笑い声が、優斗の脳髄を揺らした。優斗は、柊の言葉の意味を理解した。"人間の常識なんざ、通用しねえ"と言ったその意味が。


「僕は…ひどいことをしてしまった…」


 優斗が呟く声に麻斗が目を瞬かせた。


「僕は、連れ去られて、それで九尾の狐の封印を解くのに利用されかけていたんだ。今は、暴れないように俺の中に契約で大人しくさせてるけど…九尾は危険だ」


 優斗の呟きに、麻斗はじっと見つめていたが、やがてそっと手を伸ばして優斗の肩に触れた。


「……なあ、兄貴」


 言葉は静かだったが、その指先にはしっかりとした温もりがあった。


「お前、連れ去られて、変な術かけられて、ヤバいやつに身体貸す羽目になって、しかも封印まで壊されそうになってさ。……それで『大変なことしてしまった』って。お前のせいか?」


 ぐっと、麻斗は優斗の目を真っすぐに見つめる。


「大変なことされたのは、お前だろ。……俺は、兄貴がここにいるだけで十分だと思ってる」


 優斗は、その言葉にふっと目を細めて、小さく笑った。


「……ありがとう、麻斗」


 その笑みに安堵したのか、麻斗が「っしゃあ!」とばかりに大きく息を吐いて肩を回した。


「んでさ。……その九尾ってやつ、どうにかする方法あるのか?なんか、耳とか尻尾も生えてるけど?」


 ぽつりと告げられた一言に、優斗が「え?」と首をかしげる間もなく。


 ――むんっ。


「ひゃうっ!?」


 思わず跳ね上がるような声が出てしまった。

 麻斗が、優斗の腰元に伸びた白銀の尻尾を、無造作につかんだのだ。


「え、どういうこと!?どこ捕んだの!?」

「いやどうもこうも、ここだけど」


 麻斗が片眉を上げたまま、尻尾を指でちょいちょい、とつつく。

 慌てて優斗が自分の頭に手をやると――ふわり。指先に触れる、柔らかな毛並み。


「はぁぁあっ!?耳!?耳生えてる!?なんで!!?」


 混乱する優斗に、頭の奥で、ぞくりと笑う気配が満ちる。


『――狐耳と狐の尻尾を生やさないでください、ってのも契約にはなかったからなァ?』


 くつくつと喉を鳴らすような、九尾の笑い声。優斗は思わず頭を抱えた。


「なんだこの状況……」

「いいじゃん、似合ってるぞ兄貴。かわいいっていうか、ちょっとキツネっぽい顔してるし」

「お前は黙ってろ麻斗!!」 


 ふう、と優斗は肩の力を抜いて、大きく息を吐いた。それは、自分の体の奥に“異物”がいることを、改めて実感したからかもしれない。


「……九尾が出ていく条件は、“九尾を祀る祠を建てること”……だ」


 静かに口にしたその言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。


「そして……九尾の危険性が、よくわかった」


 言い終わると同時に、頭の中でくぐもった声が聞こえる。


『おいおい、酷い言い草だなァ。俺様なりに協力してやってるってのによ……』

「……」


 優斗は完璧にスルーした。

 麻斗が一瞬、肩を震わせながら口元を押さえる。


「ぷっ……ご、ごめん、兄貴、顔がめっちゃ“関わりたくない”ってなってた」

「関わりたくないよ。できるなら今すぐ出てってほしいよ」

『泣くなよォ、俺様だって寂しいんだぜ?』


 その言葉にも優斗は応えず、ただ静かに歩き出す。


「とりあえず、柊叔父さんに相談しに行くよ。……祠、どう建てるか含めて、ね」


 その背中に、麻斗が続く。

 そして頭の奥では、九尾が愉しげにくつくつと喉を鳴らしていた。


『祠かァ……どうせなら、立派なの頼むぜェ?神様なんだからなァ……』


 優斗が九尾を無視して歩き出したその隣で、麻斗がひょいと肩を並べる。


「しかしさ〜…九尾、めっちゃ喋るんだな!ぜんっぜん黙らねえ!」


 優斗が疲れ切ったように「うるさいんだよ…」とぼそっと呟くのをよそに、麻斗はどこ吹く風でニコニコしながら頭の中で九尾に語りかけた。


「俺、優斗の弟の麻斗な!なんか色々あったみてえだけど、とりあえず祠?立ててやるからさ!超立派なの!」


 その瞬間、優斗の頭の奥で――いや、今は麻斗にも“直に”届く、くぐもった笑い声が響いた。


『くく……くくくっ……魂の片割れ、か』


 九尾の声は、どこか喉の奥で愉しげに鳴っている。


『……面白いじゃねえの。お前らは、なかなかに香ばしい匂いがするんだよなァ……』


 ぴたりと優斗の眉が引きつる。


「やめてよ、匂い嗅がないで……」

「え、俺らってそんな美味しそうな波長してんの?」

「真面目にやれ麻斗」


 すると、九尾が何か観察するような、考え込むように言う。


『こいつの魂…どこか足りないようなズレた感じ………気のせいか。けどなァ、魂ってのは、意外と“数”が合わねぇこともあるんだよなァ』 「はぁ?数ってなんだよ」


 麻斗が食い気味に尋ねると、九尾の狐が見下すように鼻を鳴らした。


『人間にはわからねえだろうよ』

「本気にするな麻斗。妖怪の戯言だ」


 優斗が淡々と返すと、麻斗は「ふーん?」と納得したような、してないような顔で首を傾げた。が、あっさりと気を切り替えてポンと手を打った。


「ま、いっか!それより、祠の場所どこにする?やっぱ柊神社の裏山とかか?」

「……その前に、ちゃんと柊叔父さんに相談する。祠の建設ってレベルじゃない。あれは、封印用の結界構造を兼ねた祭祀場にする必要がある」

「うへえ、急に専門用語〜」

「九尾がいつ暴れ出すかわからないんだ。下手したら、僕ごと暴走するかもしれない」

「そん時は俺も、柊のおっさんも止めるって!」


 麻斗の言葉に優斗がポツリと呟いた。


「柊叔父さん、ちゃんと対策考えてくれるといいけど」


 九尾の気配が、くつくつと喉の奥で笑ったまま、三人(?)は柊神社へ向けて歩き出すのだった。 柊神社の鳥居をくぐった瞬間、空気が変わる。ぴりりとした霊気が肌を撫でるのを感じながら、境内の奥へと歩いていくと――


「おーおー、お帰り双子ちゃん」


 縁側の端で煙草をふかしながら、柊宗一郎が足を組んで座っていた。見慣れた灰色の作務衣に無精髭、気だるげな目元でこっちを見てくる。


「……叔父さん。ちょっと、相談があって」

「“相談”ねぇ…その狐耳と尻尾つけたまま言われても、説得力ゼロだぞ優斗」


 優斗がピクリと眉を動かす。横で麻斗は笑いを堪えながら、そっと優斗の尻尾を撫でようとして――


「……触るな」

「バレたか!」 


 柊が呆れたように煙を吐いた。


「で?優斗は何がどうなったらそうなるんだ?」  


 優斗は小さく息を吸って、真っ直ぐ宗一郎を見据えた。


「…よくわからない奴らに学校帰りに攫われた…。かなり手練れの術者だった。それで、殺生石の前に連れて行かれて……九尾の狐の封印を、僕の体質を利用しようとしたんだ」


 宗一郎の目が細くなる。煙草の火先がじりじりと赤く揺れた。


「九尾の狐ね……そりゃまたえらく面倒なもん起こしたな」


 柊が煙草を咥え直し、ふと空を仰いだ。


「確か、あの殺生石……封印したの、俺らのご先祖だったはずだ。何代か前の陰陽師が、九尾を討伐してあそこに封じたって聞いたことがある」


 柊の目が鋭くなった。


「九尾の封印を解いた奴らは、恐らく"黒月"だろうな。黒い服装で三日月のマークをつけた奴らなら間違いない。最近俺の周りでもコソコソしていたはずだ」

「黒月……?」


 優斗が眉を寄せると、柊は煙をくゆらせたまま低く呟いた。


「俺たちの界隈じゃ最近名前が出始めた組織だ。“神を現世に降ろす”とか“魂を糧にする”とか、穏やかじゃねえことばっかやって…こっちの社会の犯罪に手を染める集団だ。もちろん正式な陰陽師登録もしてねぇ奴らの集まりだよ」

「初めて聞いた……」


 優斗が唇を噛む。柊はふうっと煙を吐き出しながら、優斗の狐耳をちらと見た。


「それで、九尾は――今、どうしてんだ?」


 訊かれて、優斗はほんの一瞬だけ視線を泳がせてから、静かに答えた。


「……契約した。暴れない代わりに、祠を建てて“祀る”って条件で……。今は僕の中にいるけど、ずっと長くは無理だと思う。体力も、霊気も、保たない」


 宗一郎は眉をひとつ上げてから、呆れたように鼻を鳴らした。


「……馬鹿が」


 静かに、けれどどこか怒りを孕んだ声だった。


「俺は人ならざるものと契約するなって話をしたと思うが聞いてなかったのか?」

「……聞いてたよ。でも、他に方法がなかったんだ」


 優斗はまっすぐ宗一郎を見た。その目は、迷いの残る覚悟と、どこかに罪悪感を滲ませている。


「九尾が暴れたら、あの場にいた術者も、その周囲の村も壊滅してた。僕が抑え込まなかったら、被害はもっと……」


 優斗は少し言葉を切って、続けた。


「でも、柊叔父さんが人ならざるものと契約するな、って意味はわかった。九尾は、危険だ」


 柊がふん、と鼻を鳴らす。


「…で、契約条件と解除条件は」


 宗一郎は煙草を揉み消しながら、低く続けた。優斗は一拍置いてから、ゆっくりと答えた。


「契約条件は、“暴れないこと”、“身体を勝手に使わないこと”、そして“麻斗に手を出さないこと”。解除条件は、祠を建てて祀ること。……それだけだ」


 柊は黙って、じっと優斗を見つめた。その視線は厳しいが、どこかに微かな安堵も含まれている。


「……祠を建てるまで、そいつはお前の中に居続けるってわけだな」

「うん。九尾自身も、長居する気はないみたいだけど……でも、“そのとき”がいつ来るか、僕にもわからない」


 柊は組んでいた腕を解き、深く息を吐いた。


「じゃあ、さっさとやるぞ。祠を建てるための準備、こっちでも手配してやる。…どうせ、お前らだけじゃ不安だからな」

「ありがとう、叔父さん」


 優斗が頭を下げると、柊は肩をすくめて笑った。


「準備が要る。しばらくはそのまま普通に暮らせ。その狐耳と狐尻尾は怪異が見える奴以外には見えないから特別隠さなくても変に思えないだろうとは思うがな」


 柊がそう言いながら煙草を指先でくるくると回すと、麻斗がぽんと手を打った。


「じゃあ、俺はその間に祠のデザイン考えとくわ!超立派なやつな!屋根の端にこう、クルッとしたのつけたりして!」

「……お前、屋台と神殿の区別ついてる?」


 優斗がじとっと睨むと、麻斗は「なんだよ夢ぐらい見させてくれよ〜」と笑って肩をすくめた。

 柊はふっと鼻で笑ってから、優斗を改めて見た。


「……まあ、今回はその判断で正解だったかもしれん。だがな、優斗。次は――」


 ゆっくりと指先で優斗の額を小突いた。


「次は、俺がいないときでも“お前の判断”で終わるように、もっと鍛えとけ。命賭けるのは、それからでも遅くねぇ」


 その言葉に、優斗は小さく頷いた。


「……うん。僕も、そう思う」


 九尾を抱えたままの日常は、まだしばらく続く。  

 だが、それでも、兄弟と、叔父と――繋がっているこの場所でなら、少しずつでも、進んでいける。


◆ ◆ ◆


優斗と麻斗は、「とりあえず今日は帰れ」と言われて帰路についていた。


「怪異の見えない人には見えない…と言われても落ち着かないな」


 優斗から生える、少し透けた尻尾はゆらりゆらりと優斗の落ち着かなさに共鳴するように揺れてしまう。

 麻斗はちらっとその尻尾を見て、にやりと笑った。


「でもさ、透けてる分、ちょっと綺麗だな。なんかこう……月光でできたみたいっつーか?」

「褒めるところじゃないよ……」


 優斗は溜息を吐きながら、背中をすくめた。ゆらり、と耳も揺れる。

 すると、


『褒められて照れるとは、殊勝な器よのォ』


 頭の奥でくぐもった笑い声が響き、優斗がぐっと眉を寄せる。


「……黙っててくれ」

「なあ優斗。あいつって四六時中喋ってんの?」

「……四六時中、機嫌がいいときはずっと、ね。あと、たまに寝てる」

「ほら、なんかもう一緒に飼ってるペットみたいじゃん」

「やめて、九尾だから」

『ペット……? 俺様を……?』


 怒るかと思いきや、九尾の声は意外にも楽しげだった。


『フン、まあよい。今日のところは、機嫌も良いしなァ』


 その「機嫌」が、どう転ぶか分からないのがまた厄介で。

 優斗はふっと顔を曇らせて、空を見上げた。


「……せめて、早く祠ができて出ていってくれればいいのに」

「任せろって!」


 麻斗は元気よく拳を掲げる。


「超絶技巧の彫刻付き、九尾の大広間みたいなやつ考えとくから!」

「それは……祠じゃない」


 そんな風に、狐の尻尾を揺らしながら、ふたりはゆっくりと家路をたどっていった。

 玄関のドアが開き、バタンと閉じる音。


「ただいまー……」


 麻斗が靴を脱ぎながら声を上げると、その後ろで優斗が静かに「……ただいま」と呟く。


 ふたりが揃って居間に入ると、どこか安心したような空気が流れた。日常の匂い。洗濯物の柔軟剤、置きっぱなしの漫画、座布団の乱れ具合までが、現実に戻ってきたことを感じさせる。


「ふー……」


 麻斗がソファにばたりと倒れ込む。その横をすり抜けて、優斗はまっすぐ洗面所へと向かう。鏡の前に立ち、そっと髪をかき上げると――ぴく、と狐耳が揺れた。


「……本当に、ついてるんだな」


 指先で触れると、ふわふわとした感触。けれど、触ったのが自分であるにも関わらず、違和感があった。

 不意に、頭の中にぬるりとした気配が混ざる。


『さっきから触りまくって、そんなに俺様が気になるかァ?』

「気になるに決まってるだろ……見慣れないんだよ、こんなの」

『ならいっそ、愛でてみるかァ? 尻尾なんて抱き枕にもなるぞォ?』

「寝かせてくれないくせに何言ってるんだよ……」


 呟きながら、顔を洗い、タオルで拭くと、優斗は居間に戻る。麻斗が顔を上げた。


「お、戻った。でさ、その耳さ、ちゃんと動くんだな。めっちゃ感情出てるぞ?」

「出てない。出すつもりもない」

「ピコピコしながらそれ言っても説得力ねぇよ兄貴」


 にやけながら麻斗が飛びついて、尻尾をむんず。


「うわっ、ひゃ……っ!」


 不意打ちに声が漏れて、優斗が顔を真っ赤にして跳ねのけた。


「やめろって言ってるだろ!」

「へー!やっぱここ敏感なんだ!かわい~」

『うむ、尻尾は魂の通い道。そこを乱暴にされれば、魂の振動も乱れるというものだァ』

「……今の台詞だけ聞くとえっちに聞こえるからやめて」


 兄も弟も、九尾も含め、夜のリビングはカオスと化していた。そして晩ごはんを食べ終え、各自好きなようにくつろいでいた頃。

 優斗はリビングのソファで、ぽふ、と座布団に身体を預けていた。


「……はあ。明日、学校か……」


 呟いたその声は小さくても、しっかり弟の耳に届く。


「お〜、兄貴がため息ついてる〜。めずらし〜」


 麻斗がゲームのコントローラーを置いて、横目で優斗を眺めながらニヤニヤと笑った。


「そりゃため息もつくよ。こんな耳と尻尾つけたまま登校するの、緊張しない方がどうかしてる……」


 優斗が眉を寄せながら自分の耳を押さえる。ぴく、と勝手に動くそれに、再び小さくため息。

 すると麻斗は、ソファの背に顎を乗せて覗き込むように言った。


「でもさ〜、見えないんだろ?怪異見えない奴には。だったら気にするなって!」

「見えない“はず”だろ。100%じゃないんだよ……万が一、怪異の素質持ってる奴がいたら……」


 優斗が目を伏せると、麻斗がにやっと笑った。


「じゃあさ〜、そのときは言い訳考えようぜ。“狐系VTuber目指してる”とか?」

「それで納得すると思う……?」

「イケるだろ?兄貴、顔は良いし。あ、むしろ今日からその路線で行けよ!」

「やめてくれ……」

『その方が我も表に出やすいぞ?耳も尻尾も演出になるしなァ』

「君も黙っててくれ……」


 ぐったりと頭を抱える優斗に、麻斗は肩を揺らして笑うと、ぽんっと背中を叩いた。


「ま、兄貴は兄貴だろ。狐耳ついてようが、波長ぶれようが、俺は変わらねえからさ」


 その言葉に、優斗は少しだけ顔を上げる。


「……ありがと」


「いいって。明日も一緒に登校しよーぜ。お前が変なこと言い出しそうになったら、俺がフォローしてやるよ」


「……すごく不安になったんだけど」


 ふたりの間に、くつくつと喉の奥で笑う九尾の気配がまたひとつ、加わるのだった。


 ◆ ◆ ◆


 チャイムが鳴り、ようやく放課後。

 優斗は教室の隅でそっと息を吐いた。

 今日一日、神経は張りつめっぱなし。自分の後頭部からぴょこりと覗く“耳”と、腰元からふわふわ揺れる“尻尾”――

 怪異が見えないはずのクラスメイトには見えない。けれど、それでもなぜか気配を感じられているような、そんな気がしてならない。


(疲れた……)


 背筋を丸める優斗に、休み時間に顔を出した麻斗からテレパシーが届く。


(おい優斗、お前さー…さっき廊下歩いてたとき、しっぽちょいちょい揺れてたぞ。バレてね?)

(やめて…!余計なこと言わないで!)

(いやでも…なんか面白くて。すれ違った生徒、めっちゃ“視界の端”で何か見た顔してたし)

(……っ、だからやめろってば…)


 優斗は机に顔を伏せるようにして、心の中で悲鳴を上げた。


(てか耳もぴこぴこしてたぞ。あれ集中できないだろ絶対)

(うるさいうるさいうるさい……!)


 そして放課後、昇降口で合流した麻斗は、ニヤニヤと優斗を出迎える。


「おつかれ兄貴、しっぽ絶好調だったな。今日一日で十ぴょこはいってたぜ」

「数えないで……本当に数えないで……」

「いやだって可愛……いやいや、なんでもない!」

「言いかけたな。今“可愛い”って言いかけたな?」

「言ってなーい!」


 二人の影が夕陽の道を並んで歩く。


「でもまじで、早く祠できないかな。しんどそうだぞお前」

「……僕もそう思う」


 ふわりと揺れる尻尾の先、さっきよりもほんの少しだけ軽く見えたのは――

 麻斗のからかいが、ちょっとだけ優斗を安心させていたからかもしれない。朱塗りの鳥居をくぐると、空気が変わる。

 夕暮れの金色の光が境内の砂利道を照らし、鈴の音が風に揺れて微かに響いていた。


「ただいま戻りましたー…」


 麻斗がぐいっと肩を回しながら拝殿の方へ歩き出す。

 その後ろを、少し疲れた様子の優斗がついていくと、柊が社務所から出てきた。


「よう、疲れてそうなとこ悪いが、祠を建てる準備はまだ少しかかるから結界の見回りを頼むわ。俺は祠を建てる準備のために動けねえからな」


 優斗は小さく息を吐いて頷いた。


「……わかったよ。どうせ、暇じゃ落ち着かないしね」


 肩にずしりと乗ったような疲労感。授業中、誰にも見えない尻尾を気にして神経をすり減らした一日が、優斗の顔に影を落とす。

 麻斗がにっと笑って、優斗の背中をぽんと叩く。


「んじゃ、任務ってやつだな。俺たちの得意分野!」


 そう言って、自分の拳を軽く打ち合わせる。


「優斗が術でバチッとやって、俺がドカンと締める!いつもの連携で問題なし!」

「……そんな単純にいけばいいけど」


 優斗が眉をひそめて言うと、麻斗は肩をすくめて笑う。


『やれやれ、また騒がしくなりそうだなァ……』


 頭の奥で、九尾のため息混じりの声が響いた。


「……うるさいよ」


 ぼそっと返す優斗を横目に、麻斗はふふんと笑いながら前を歩き出す。塗りの鳥居を背に、夕焼けの中を二人の影が山道へと伸びていく。


「……なぁ優斗、さっきから空気、ちょっと重くね?」


 麻斗がふと足を止めて、周囲を見回す。風が止まり、木々のざわめきも消えていた。

 優斗は立ち止まり、指先に霊気を集める。


「……いや、嫌な感じがする。妙に……静かすぎる」

『ふ、ふふふ……もう来てるかもなァ?お前らを狙う、もっと“香ばしい連中”が』


 九尾がくすくすと笑う。耳の奥を撫でるようなその声に、優斗の肩が強張った。


「……気を抜くなよ、麻斗。今回は、何かあるかもしれない」

「上等。どっからでもかかってこいや」


 麻斗が笑う。

 そして――二人は、闇の中へと足を踏み入れていった。


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