第95話 震える子鹿、名前を抱える――忘れられたくない人と、忘れたふりできないぼく
名を刻むたび、記録は揺らぐ。
だが、そこから始まる物語もある。
──そのときだった。
ひゅう、と冷たい風が封印領域を貫いた。
リオがアノニムと向き合っていた空間に、“もうひとつの扉”が軋みを上げて開く。
ギィ――。
現れたのは、禍々しいまでの静寂。
そして、その中心に立っていた男――
ヴァルド・ルセリウス。
漆黒の外套に身を包み、氷を孕んだようなまなざしが、ゆっくりとリオを射抜いた。
「……なるほど。“記録に名が記された”か」
低く、よく通る声に、場の空気が凍りつく。
アリステアが、リオの前へ一歩進み出る。
「気をつけて。あれは“記録の改竄者”――名前の歴史を書き換える、危険な存在よ」
フェンがリオの耳元で囁いた。
「キュルル曰く、“設定とか伏線とか、ぜんぶ編集しなおす系ラスボス”だってさ」
だが、ヴァルドは動じることなく、静かにリオを見据える。
「君が、“記録を残す子”か」
リオは息を呑む。けれど退かない。
「……ぼくは、名前を“書き残したい”だけです。誰かの“いた”を、消したくない」
「……その純粋さこそ、脅威だな」
ヴァルドの掌に魔刻石が現れる。淡く赤い脈動が、リオの胸の“共鳴の涙”と共鳴するように震えた。
封印の牢が崩れる音とともに、宙へと浮かび始める。
「“名を刻む者”よ。君の記録は、私の“封印計画”の障害だ。名に重力を持たせるなら、それは“呪い”にもなる」
「……でもそれが、希望でもある」
リオの声は震えていた。
けれど、確かな意志があった。
「だって、“名前がある”ってことは……誰かが、その人を忘れたくなかったってこと、でしょう?」
沈黙が世界を満たす。
その瞬間――
仮面が落ちた。
白無垢の仮面。その奥で笑う口元。だが、そこに“目”はなかった。
それでも、鋭く突き刺すような視線だけが存在していた。
現れたのは――レイ・トロン。
「……初々しいですね。まるで“名前がまだ柔らかい”子の匂いです。噛んだら、ぷちって音がする」
声は、壊れたオルゴール。不協和音が重なり合い、男でも女でもない。
「ねえ、小さなお客さま。……記録って、噛んだらどんな味がするんでしょうね」
「……やめてくださいっ……!」
リオの声が裏返る。それでも一歩、前へ出る。
きゅるる……。
「キュルル曰く、“ムリだよムリだけど……誰かが止めなきゃ、怖いことになる”」
フェンがリオの背中にそっと手を添える。
レイ・トロンは芝居がかった一礼をした。
「やあ、キュルルも元気そうで何より」
ユウレイはわずかに目を伏せる。
彼はかつて、名を奪った者。
そのとき、影が動いた。
床に這う影。その中心から現れたのは――カナタ。
「……おまえ、ナマエ、もらってない」
裂けたような口が、小さく動く。
「もらってないのに、うばうナ。ゼッタイ」
その隣に、ツキヨが立つ。
「……あげた。だから、わたさない」
その幼い声は、“記録”ではなく“選択”を語っていた。
「……へえ。じゃあ、ぼくも選ぶとしましょうか」
レイ・トロンが指を鳴らす。
空間が軋み、空気が歪んだ。
ヴァルドの背後に、“裂け目”が生まれる。
「名を持つ者の最期は、その名を“消される”ことですよ」
残酷なほど優雅に、彼は詠う。
「や、やめてっ……! ヴァルドの“名”を……!」
記録の渦がヴァルドを包む。氷の瞳が一瞬だけ揺らいだ。
「……私は、消えるのか」
その声は風に飲まれそうに小さかった。
けれど、その瞳は――救いを求める子どものように揺れていた。
リオは確かに見た。その揺らぎを。
「……まだ、あなたは贖罪していない」
震える声で、リオは絞り出した。
「だめっ!! その人は……まだ、“贖罪”してないっ……!!」
リオの声は震えていた。けれど、その震えの奥で光る意志があった。
「……いなかったことにしちゃったら、もう、何も始まらない……!」
リオは胸の飴袋を三度、ぎゅっと握った。
それだけで、不思議と声は震えなくなった。
アリステアが動こうとした瞬間、レオンが手を差し出して制した。
「……見ろ」
リオの胸の“共鳴の涙”が、淡く、しかし力強く光を放っていた。
――レイ・トロンの手が止まる。
「……なるほど。“いた”と記される覚悟、か」
そして彼は、小さな手紙をリオの前に落とした。
「これは、未来のきみに。ぼくの、最後の“いた”、記しておくね。……きみなら、拾ってくれると思ったから」
その言葉を残し、レイ・トロンはヴァルドを飲み込み、影へと消えた。
静寂が戻る。
リオは震える手で、地に落ちた手紙を拾い上げた。
“未来の小さなお客さまへ”
きみは、まだぼくを許さなくていい。
でも――“いた”を守ることは、きっと、それだけで物語になる。
追伸、
誤字あったらごめんなさいね。きみ、そういうの気にしそうだから。
「……あのね、レイさん……“いた”じゃなくて、“いたよ”が自然なんです……」
リオがぽつりと呟いた。
きゅるる。
「キュルル曰く、“今のタイミングはズルいってば”だと、泣きながら文法チェックすな」
フェンが眉をひそめる。
「……でも“最後のいた”って、たぶん誤用じゃなくて、ワザとだと思うよ」
「えっ」
「や、たぶん“きみならツッコむ”って確信犯……」
「やっぱりワザとじゃないですかあぁっっ……!」
小さく、誰かが吹き出した。
誰の声だったのかはわからない。
でも――あたたかかった。
ユウレイがそっとリオの隣に立つ。
「……ありがとう、リオ」
それは、“名を持つ者”の声だった。
リオは少しだけ、胸を張った。
でもやっぱり、震えていた。
「ぼく、強くなんて……なれないよ……でも……“いなかったこと”に、だけはしない……」
ポケットの中の、空の飴袋を握りしめる。
「……うぅ、フェン、大好きぃ……」
「うん。知ってる」
その答えに、皆が笑った。
その瞬間、風が吹いた。
甘い薬草飴の香りが、リオの歩いた道にだけ、そっと寄り添っていた。
リオはまだ知らない。
“名前を呼び続けること”が、この世界に、静かに奇跡を起こしていることを。
でも、それでも、彼は今日も――誰かの名前を呼ぶ。
そしてそのころ、別の場所で。
水晶鏡の前、静かに座す者が、ふと空を見上げて呟いた。
「……また、“記録の綻び”が、縫われたな」
だがその声もまた、風にかき消された。
風がリオの袖をふわりと揺らしたそのとき。
――きゅるる(訳:あっ、飴、フェンが食べてる!!)
「……あ、ごめん。気づいたら、俺の口の中に“いた”。」
「……え、それ、“最悪のいた”じゃないですか!」
リオが涙声で叫ぶと、場に小さな笑いがこぼれた。
泣き声と笑い声が混ざるなんて――そんなの、優しい奇跡だ。
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