第94話 震える子鹿、名前呼ばれる――胃袋は鳴るし、物語は勝手に深刻になる
その記録は、まだ途中。
風がめくる頁に、次の名が待っている。
かすれた灯火が、ひび割れた天井を照らす。
壁は古く、記憶の重みで軋んでいた。
ここは“セレン・コーテ製造記録工房”。
かつて、名前を奪われた子どもたちが“記録削除兵装”へと再構成された場所。
そして、彼らの存在が忘れられた証――名もなき墓標でもある。
静寂。
だが、沈黙の中に、一陣の風が紛れ込む。
鋼鉄の床に、コツ、コツと靴音が響いた。
光と影の狭間を、一人の少年が歩く。
その名は――シャド太郎。
かつて“R0-77”と呼ばれた、記録実験体だった。
「……名前を、もらったんだ。だから、ぼくたちは――」
その声は、まるで失われた記憶に染み込むようだった。
「記される、価値がある」
その言葉に、もう一人の少年――リオは、そっと目を伏せる。
「……なんで“太郎”なのかは、ぼくにもよくわからないけど」
「うぅ、ごめんなさいっ! そのとき、他に案が浮かばなくて……!」
リオの謝罪に、太郎は肩をすくめて、やわらかく笑った。
「でも、“呼ばれた”とき……胸が、あったかくなったんだ」
その言葉に、リオの胸の奥――かつて涙を失った場所が、ふっと鳴いた。
それは、懐かしくも、少しだけ痛い音だった。
――そのとき。
工房の最奥、“封印領域”の空気がわずかに震える。
壁に埋め込まれた記憶の焔が、赤く瞬きを始めた。
その様子を、水晶鏡越しに見つめる男がいる。
黒の外套に、冷ややかな眼差し。
ヴァルド・ルセリウス――通称“ボルケ”。
「……“名”が揺れる」
封印石が淡く脈打ち、彼の瞳に冷たい光を映す。
「感情が、記録を書き換える……」
鈍い音が奥から響いた。
封印の奥、“記憶庫”から、赤く鈍い光が滲み出す。
「……これは、忘却の魔素を、兵装に……?」
アリステアが思わず息を呑んだ。
現れたのは、“牢”――記憶を封じた器具を背負う、異形の兵装。
額に刻まれた古文字は解読不能。
だが、それは誰の名でもなかった。
「……“名を与えられなかった子”……」
ホシノは目を伏せ、拳を握る。
「私も、名前で救われたから」
レオンが矢を構えながら、静かに告げる。
「記録名――アノニム。“名無し”って意味だ」
リオが、そっと呟いた。
「……名を呼ばれることが、怖いんだ。
自分が“いなかった”ことに、戻される気がして……」
きゅるる……
小さく、胃が鳴る。
リオは眉をひそめ、思わずお腹を押さえた。
「……いまのは、ぼくの……」
誰も何も言わない。
ただの空腹音のはずなのに、なぜか“会話”のように響いた。
フェンがリオの肩をぽんと叩く。
「リオ。怖いのはわかる。でも、あれを“他人”にしたら、君の記録も他人になってしまう」
「……」
「行くんだ。自分の痛みは、自分で抱くしかない。
でも、それは独りじゃない」
足が、震える。
心臓が叫び、胃が泣いている。
それでも、リオは一歩前に出る。
「……こんにちは。ぼく、リオ」
アノニムは応えない。
“忘却の刃”を構えたまま、ただ静かに見ている。
リオは胸元の“共鳴の涙”に触れた。
二歩目。
記憶を照らす想いを、もう一度、胸に。
「……“記録の欠片”を生み出すって、聞いたことがあるけど……ね」
ポケットを探る。空だった。
「薬草飴、さっきので……最後だったか」
小さく笑って、リオはアノニムの瞳をまっすぐ見つめる。
「ねえ。“いた”って、書いてもいい?」
アノニムの肩が、わずかに揺れた。
けれど、刃はまだ手の中にある。
――一歩先に踏み出していたら、命はなかったかもしれない。
最初の一歩は、“名”を呼ぶこと。
二歩目は、想いに触れること。
そして、三歩目。
リオは、紙片を手に、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……だから、“ここにいた”って、ぼくが書く」
その瞬間――
アノニムの刃が、音を立てて床に落ちた。
目に浮かんだのは、ほんの一瞬――微かな、笑み。
「……ぼく、だったんだ」
静寂が、ひと呼吸ぶん、深く染みわたった。
リオは震える手で紙片を差し出す。
そこに記された名前は――「ユウレイ」。
“共鳴の涙”が淡く光り、背負われていた“牢”がからんと崩れ落ちた。
浮かび上がる、“記録の欠片”。
それは、“名を与えられた証”だった。
遠くで、古い頁がめくれるような音が響く。
空気が、ほんの少しだけ、あたたかくなった。
「……よかった」
リオの声に、静寂が重なる。
――きゅるる。
場違いな音が響いた。リオの胃が、小さく鳴ったのだ。
「……ちょっと待って。今のは、ぼくの……」
言いかけたとき、誰かの小さな笑いが漏れた。
それが涙に混じり、かすかに震えて――それでも、あたたかかった。
記録の最奥。
誰にも気づかれなかった片隅に、そっと刻まれた名前があった。
“リオ”という名。
風が、そっと震える。
まるで――その名前を呼ぶ声のように。
そのとき。
負零層には存在しないはずの“音”が、空間を震わせた。
それは、セミの声ではなかった。
けれど、“夏の音”の記憶に触れたリオは、そっと目をしばたたかせる。
「……あのとき胃が鳴ったの、やっぱり合図だったんだ……」
フェンが頷く。
「……合図でもいい。安心できる音なら」
「……ぼくの胃なのに」
リオが小さくつぶやくと、仲間の誰かがくすっと笑った。
その声も、やっぱり震えていた。
でも――あたたかかった。
物語の奥深く。
まだ名前を呼ばれていない“誰か”が、静かに待っていた。
リオの手元の絵本がふと開き、一枚の紙片がふわりと落ちる。
にじむように、文字が浮かぶ。
――「つづきは、君の番」
リオは、そっと微笑んだ。
「……うん。“いた”って、ちゃんと伝えるから」
その背は、ほんの少しだけ――大きくなっていた。
そしてその瞬間。
ふと、風が甘い気配を運んできた。
リオは気づかず、歩き出す。
砂糖菓子の香りは、彼の足跡にだけ、そっと寄り添っていた。
リオはまだ知らない。
“名前を呼び続けること”が、
この世界に、静かに奇跡を起こしていることを。
それでも、彼は今日も――誰かの名前を呼ぶ。
そのころ別の場所では、何者かがふと空を見上げ、こう呟いていた。
「……また、誰かの“いた”が、書き換わったな」
だがその声もまた、風にかき消された。
だからこそ――この物語は、まだ終わらない。
リオが去った工房には、静かな余韻だけが残っていた。
崩れた“牢”の破片は、やがて砂のように散り、床に溶けていく。
それは、長い封印が解けた証であり、同時に新しい物語が始まる合図でもあった。
太郎は、灯火の消えかけた天井を仰ぐ。
「……ぼくたち、ようやく“書かれる側”になれたんだね」
リオの名前と、ユウレイの名前。
その二つの“記録”が交わった瞬間、確かに世界の輪郭が揺らいでいた。
風が頁をめくるたび、物語はひそやかに続いていく。
――その名が呼ばれる日を、待ちながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます