第80話 震える子鹿、扉を叩く ――祈りと胃袋、どっちも手放せないぼく

 奪われた祈りが、

 いま静かに目を覚ます。




 その手紙を読み終えたとき、リオの指先にはじわりと汗がにじんでいた。

 記録石を包む薄霧が空気を湿らせる。

 深く吸い込んだ息が胸の奥を軋ませた。

 それは、過去からこぼれ落ちた感情だった。


 ――レギウス皇子。


 その名が空気に解き放たれた瞬間、リオの心臓がきゅうっと音を立てた気がした。


「……記録に、ほとんど残ってないんですよね」


 震える声が静けさを切り裂く。


「一応、帝の血筋には違いない。でも……本当にいたのかすら、誰も確かめられない。記録すら残ってないんです」


 フェンが資料を開きかけたが、アリステアがそっとその手を止めた。


「……消された記録なんて、冷たくて無機質なはずだったのに。……こんなに、優しかったなんて。

 もしこれが真実じゃなくても……願いとして残していいって、思ってしまったんです。変でしょうか」


 冷たさを装う声は、どこか柔らかかった。

 銀の瞳の彼女はまっすぐ前を見つめ、睫毛がかすかに震えている。


「“皇家の記録”って、もっと遠くて冷たいものだと思ってました。

 でも違った。これ……誰かの心そのままが残ってる。消された声が、まだここで――生きてるんだ」


 リオが囁くと、アリステアは記録石にそっと触れた。

 まるでそこに、まだ誰かの体温が残っているかのように。


「……ずっと“冷たい記録”だと思っていました。でも……ちがいました。

 こんなにも、あたたかい。まるで……祈りみたいです」


 リオは頷き、胸元の結晶――“共鳴の涙”に視線を落とした。

 それは、かつて姉セシリアが流した、たった一粒の涙。


 その小さな光を見つめながら、リオは言った。


「姉さまの笑顔……取り戻す。ぼく、がんばり……っ、うっ……」


 ――ぶるるるっ。


 静寂を破ったのは、リオの胃袋だった。


 アリステアの肩がぴくりと揺れた。……笑った? ように見えた。


「……フェン、通訳を」


「キュルル曰く、“怖いけどちゃんと聞いたよ。でも五分だけ現実逃避したい”……だとさ」


 相変わらず無表情のフェンが、さらっとメモ帳を読み上げる。


「……フェン、大好きぃぃ……」


 リオが感極まった涙声で崩れた。


「はいはい、ありがと。でもな、現実は逃げても腹は減る。

 よって、五分間だけ夢を見せてやろう」


 ぱちん、とフェンが指を鳴らす。


 煤けた影が、廊下の向こうから歩み出る。

 フェンが小さく呟いた。


「……来たか」


 ホシノ――“情報の器”と呼ばれる、失われた記録を宿す少女。

 違法魔力薬の情報を全身に刻み、帝都の闇を越えてきた、静かな証人。


「……ホシノ、呼ばれたぁ……解析、できるよぉ……」


 かすれた声に、しかし瞳は強くまっすぐだった。


「……ちゃんと、来てくれたんですね……」


 リオの目が潤む。


「リオ、泣くな。てか胃が鳴ってたぞ。泣いてんのか、腹減ってんのか、わかんねぇよ」


「ち、違います……これは、その……感動して……でも、ちょっと、お腹すいてて……」


「正直でよろしい」


 ホシノがリオの掌の結晶を見つめた。


「それ……開くの……? “中の声”、聞こえる……?」


「うん。だってこれ、“鍵”なんだよ」


 アリステアが装置を再起動させる。

 古代語の紋章が光とともに浮かび上がり、空間がわずかに震えた。


 “共鳴の涙”がやわらかく光を放ち、リオの掌でそっと震える。


 ――そして、“声”が降ってきた。


『……どうか……“やさしい間違い”でいてほしい』


 冷たくなっていく手のひらに、切なさが沁み込む。


『……わたしの選んだ“平穏”が、たとえ偽りでも……誰かを守る盾であってくれたらと、願っています』


「……っ、姉さま……」


 それは、誰かに伝える言葉ではなかった。

 セシリアが、自分自身へ遺した“祈り”だった。


 リオの喉が震えた。だが、涙は落ちなかった。

 胸の奥だけが、静かに揺れていた。


「……泣けないと思ってたのに……まだ、こんな風に震えるんですね」


 アリステアが、装置を止める。


「……記録としては未完成。でも……もしこれが彼の“願い”なら、未完成のまま残してもいいと思うんです。……甘いでしょうか? でも、私はそう思いたい」


 フェンが静かに手帳にペンを走らせる。


 『誤解こそが、祈りの入り口』


「フェン、それ……今思いついたんですか?」


「いや、昨日の夢でキュルルが言ってた」


「キュルル!? 夢に!?」


「忙しいらしい。夢にも顔出すってさ」


 リオが鼻をすすった。


「……ぼくの胃袋、人格持ってきてる……」


「キュルル曰く、“夢は逃げ場。でも現実は、胃袋に直撃”」


 リオはふっと笑った。


「……やだな、胃袋のくせに名言っぽい……」


「いい胃袋だな」


 ――ぴしり。


 空気が軋む音とともに、“光の縫い目”がぱんっと破れた。

 誰かの祈りが、長い沈黙を越えて鍵を回したような、そんな音だった。


「っ……アリステアさん、今の音……!」


 冷たい風が石の隙間を這うように吹き込んでくる。

 壁の石材が、鈍く「きし……っ」と軋んだ。


「……今の音、“共鳴の涙”が扉を解いたんです」


 現れたのは、赤銅の紋章に封じられた扉。

 その紋章を見た瞬間、リオの胸が強く跳ねた。


「……レギウス……?」


 刻まれていたのは――“第三皇子レギウス”の私印だった。


「……そこまで残してたのかよ……」


 レオンが低く唸った。


「最期まで誰にも届かないことを願って……それでも、誰より誰かに、伝えたかったってわけか。

 ――矛盾したままでよ……」


 リオが、小さく呟く。


「……姉さまを、“間違った笑顔”のまま、終わらせない。……そう、決めたから」


 誰も、その言葉を止めなかった。


 ただ、フェンが静かに手帳に書き留める。


 『行こう。怖い。でも、大丈夫。ひとりじゃないから』


「……フェン、それ……」


「俺じゃない。お前の胃袋が言ったことにしておけ」


 ――きゅるる。


 静かな記録核に、やさしい音が響いた。

 それは、“奪われた涙”が今、確かに戻ってきたという、証のように。


 赤銅の扉に触れた瞬間、かすかな熱がリオの指先を包み込む。

 それは冷たい封印ではなく、確かに「待ち続けた誰か」の温度だった。

 心臓の鼓動が一拍ごとに重なり、光の紋章が淡く震える。

 フェンが短く息を吐き、アリステアは言葉を失い、ホシノの瞳はただ真っ直ぐに輝いていた。




 扉の向こうにあるのは、記録か、祈りか、それとも――真実か。

 誰も知らない答えが、もうすぐ彼らを待ち受けていた。

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