第79話 震える子鹿、歩き出す――泣いてるのに、お腹はきっちり鳴る

 記憶は、ただの記録ではない。

 それは、未来へ続く“問い”である。




 静かな夜だった。帝都北区の地下、錬金ギルドの外れ。

 “黒薬室”前の広場には、魔導の光が淡く灯り、石畳に静かな影を落としている。


 そこに、ひとつの“気配”が戻ってきた。


 リオが、そろりと扉を抜けて現れる。

 金髪は少し乱れ、白い頬にはうっすらと疲労。

 けれど、その碧い瞳は――以前より、ほんのわずかに澄んでいた。


 フェンが迎える。


「……おかえり、リオ」


 リオは、こくりと頷く。その指先には、小さな結晶――“共鳴の涙”。


 それを見て、アリステアが静かに歩み寄る。銀の瞳は水面のように穏やかに揺れていた。


「解析装置は準備済みです。“残響”として保存された感情なら、拾える可能性があります」


「……っ、うぅ……でも、ぼく……あの、胃が……」


「はいはい、“きゅるる”ね」


 フェンがすかさず割り込む。


「キュルル曰く、“感情は胃袋に収まると静かになるらしい。根拠はゼロですが、キュルル的には真剣です”」


「……胃にくるんですか……?」


「リオの辞書では、“感情”と“胃の具合”は同義語だからね」


 アリステアは肩をすくめながら、魔導装置を設置した。

 古代語の呪符が浮かび、淡い光が“共鳴の涙”を包み込む。


 やがて――音がした。

 けれど、それは音というよりも“鼓動”だった。


 粒子のような光が舞い、そこから、か細い声が重なる。


「……この記憶が、誰かを傷つけるとしても……リオには、“わたしのままで”覚えていてほしい……」


 リオの手が、ふるふる震えた。


「姉さま……それ、ぼくに……?」


「どうやら“共鳴の涙”は、記録媒体というより、“鍵”でもあったようですね」


 アリステアの言葉に、レオンが眉をひそめる。


「つまり、まだ奥があるってこった」


「――“黒薬室”の記録核です」


 その一言で、広場の空気がひやりと変わった。

 そこはギルド員ですら踏み込まぬ“禁域”。

 帝都の記憶を閉じ込めるための封印扉――“皇家の記憶”が眠る場所だった。


 リオは小さく喉を鳴らす。

 深く、深く――呼吸を整える。……が。


 ――ぎゅるるるるっ。


 空気が、止まった。


 フェンがまたもや、神妙な顔で通訳する。


「キュルル曰く、“行かなきゃいけないのはわかってる。でも、ちょっとだけ怖がらせてください。怖がらないと、進めないから”」


 レオンが、ぽん、とリオの肩を叩く。


「“進むやつが強い”ってのはウソだ。震えながらでも進めるやつが、一番こえぇんだ。

 ……俺もな、かつて震えながら歩いたんだよ。無駄に光る筋肉抱えてな」


「……ぼく、ぜんぜん怖くないです……でも……レオンさんの筋肉、近くで見ると本当に怖いです……」


「それは照明のせいだろ」


 それでも、リオは歩き出す。“共鳴の涙”を胸に抱いて。

 封鎖区画、“記録核”への道を。


 扉が静かに開くと、冷たい霧が広がった。

 そこには、古びた机と記録石。

 そして、一通の“白い手紙”が置かれていた。


 封蝋には、“皇家の印章”。


 未投函のまま――誰かが、セシリア宛に書いた手紙だった。


 リオは震える指で、それを開く。

 そこに記されていたのは、第三皇子“レギウス”の筆跡。


 『セシリアへ。君の“穏やかな微笑み”は、人の心を鎮める。

 だから、君には“穏やかでいてもらう薬”を使わせてもらった』


 『これが正しい。人が人を導くには、心は“感情”ではなく“平静”でなければならない』


 『……どうか、誰にも伝えるな。俺の“過去”は、帝都の影に沈めてほしい』


 『……君に、“自分を責める選択肢”だけは与えたくなかった。それが、俺の……せめてもの、贖いだ』


「…………ッ」


 声にならない嗚咽が、リオの胸を打つ。


 “感情”を奪うことが、“平穏”と呼ばれたのだ。

 毒ではなかった。だが――それ以上に、残酷だった。


「姉さまの笑顔は、奪われたんじゃない……“定義し直された”んだ……っ」


 それは、リオが最も恐れていた“誤解”だった。

 誰かの価値観で、誰かの心が“形を変えられる”こと。


 帝都に伝わる迷信がある。

 『誤解の神』――思い込みが奇跡に変わる時、名もなき神が笑う……と。


 そして今、また一つの祈りが、それに届いてしまった。


 でも――リオは、逃げなかった。


 記録を胸に刻み、“共鳴の涙”を封筒に収める。


 これは、“証”だ。

 ただの怒りでも、悲しみでもない。


「……ぼく、もう逃げません。逃げ腰でも、ちゃんと見届けます。

 姉さまが、“ほんとうに笑えるようになるまで”……」


 リオはそっと目を閉じた。


 その時だった。


 ――ぐぅぅぅぅ……っ。


 レオンが、耐えきれず吹き出す。


「……腹は正直だなぁ」


 フェンが、淡々と通訳を挟んだ。


「キュルル曰く、“怖いけど、記録したから……スープください”」


 アリステアが、ふっと笑う。


「……泣いた後は、ちゃんと栄養取らないとね」


 誰も、笑わなかった。

 誰も、馬鹿にしなかった。


 なぜなら――それは“リオらしい”涙のかたちだったから。


 “泣きたくても泣けなかった子”が、ようやく取り戻した、“自分の声”での共鳴。


 フェンが、小さく呟いた。


「……ったく、やっと“自分の声”で泣けたんだな」




 夜の帳が、そっと降りる。


 リオは空を見上げた。

 遠く、星が瞬いていた。

 どこまでも、やさしく――まるで、笑ってくれているように。


「……ぼくは、強くなりたいわけじゃない。

 ただ、泣けなかった誰かの声を、ちゃんと聞けるようになりたい。


 そして――ぼくの“きゅるる”も、誰かの笑顔につながったら、それでいい」


 お腹は、また鳴いた。


 けれど今度のそれは――どこか、満たされた音だった。


 ――きゅぅぅぅぅるるるる……


 アリステアが、ふと空を見上げながら呟いた。


「……この先、“レギウス皇子”の遺した“記録”、私たちだけで済む話ではないかもしれません」


 フェンが眉をひそめる。


「帝都中の“記憶”が、今、ざわついてる感じ……しません?」


 静かな夜は、まだ終わっていなかった。


 霧の奥で瞬いた封印灯が、かすかな脈動を刻む。

 その光は、まるで帝都そのものが息をしているかのようだった。




 ――リオの旅は、まだ序章にすぎない。

 静かな夜が、明日の嵐を孕んでいた。

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