第11話 神、歯を磨き忘れる

朝、起きた。


光がまぶしい。


カーテンの隙間から射している。


たまが布団の上で寝ている。


丸まっていたが、ぴくりと耳が動いた。




「……もう朝か」




声に出して言ってみる。


特に意味はない。


たまは返事をしない。


たまに返事がないと、不安になる。




少し体を起こして、あぐらをかいた。


しばらくぼーっとする。


世界は静かだった。


昨日と同じ朝の匂い。


あまりお腹はすいていなかった。




台所へ。


ヤカンを火にかける。


音は小さく、湿気は多い。


棚の奥から味噌汁のパックを取り出す。


即席のやつ。


お湯を注ぐだけ。




湯気が立つ。


椅子に座って、それを飲む。


具はほとんど入っていない。


ネギだけが、妙に元気だった。




テレビはつけない。


スマホも見ない。




何も考えず、汁をすすった。




昼前。


たまがやってきて、こたつの上に飛び乗った。


足がこたつの縁にひっかかった。


ちょっとよろけた。


猫のくせに不器用だ。




「ねえ、神さま。口くさいよ」




「……は?」




「うん、なんか、もわっとする」




数秒沈黙してから、気づいた。


今朝、歯を磨いてない。




歯磨きという概念が、頭の中からすっぽり抜け落ちていた。


なぜだかわからないが、そういう日がたまにある。




洗面所へ向かう。


歯ブラシがそこにあった。


水気の残るコップに立っている。


いつものやつ。


いつもの場所。




手を伸ばして、止める。


昼に磨くのは変な気がした。


もう昼だし、もういいか。


そんな気持ちになる。




たまが首をかしげて見ていた。


俺は黙ってこたつに戻る。




午後。


時間だけが過ぎていく。


何もしていない。


それが悪いこととは思わない。


神なので。




カップのコーヒーをあたためて飲む。


砂糖は入れていない。


苦い。だが、それがいい。




飲み終えて、天井を見上げた。


雨漏りの跡が少しずつ広がっている。


そのままにしている。


直すのも面倒だ。


雨は今は降っていない。




たまがマスクをしている。


猫用ではない。


人間用をどこからか引っ張り出してきたらしい。




「お前、それ……」




「さっきのもわっと、残ってる気がして」




ムッとしたが、何も言わなかった。


神の威厳を保つには、沈黙がいちばん強い。




夕方。


スーパーに行く。


刺身が半額になっていた。


今日はいい日かもしれない。


ついでに弁当も買う。


カニクリームコロッケのやつ。




商店街を抜けて、コンビニにも寄る。


歯磨き粉を買う。


ミント強め。


刺激が欲しかった。




袋は断った。


ポケットに突っ込んだ。


冷たかった。




帰宅。


靴を脱ぐ。


たまが出迎えた。


なぜか機嫌が良さそうだった。




洗面所へ。


歯ブラシを取る。


今度は迷いがなかった。


歯磨き粉を出す。


思ったより粘り気が強かった。




口の中にミントの嵐がやってきた。


涙が出た。


でも、すっきりした。




たまが様子をうかがっている。




「やっとか」




「……今がそのときだったんだ」




「いや、朝だったと思うよ」




「うるさい」




夜。


風呂に入って、あったまった。


やや長めに浸かった。


風呂あがりに牛乳を飲んだ。


冷たくてうまかった。




こたつの中からたまの声がする。




「神さま」




「ん?」




「明日は、朝からちゃんと磨こうね」




「善処する」




返事をして、電気を消す。


暗い部屋。


静かな夜。


歯は、今、とても清潔だった。

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