悲しみの風景
祐里
オレンジ色
三月の寒い日だった。曇り空の下、私と
「あたしたちももうすぐ六年生かぁ」
杏奈は髪をいじりながら面倒そうに、でも少し誇らしげに言う。
「卒業式ってずっと座ってるのつらいよね」
「うん、じっとしてるのイヤ。あ、鉄棒やってこようかな」
「ここで? 低すぎない?」
「低いからだよ。ねぇ、来て」
杏奈は走りだし、その勢いのままひょいと低い鉄棒の上に立った。フラフラしながらも、端から歩を進めていく。
「そんなことしたかったの? 危ないよ」
「大丈夫。
「私、杏奈みたいに運動神経よくないから……」
鉄棒を両手でぎゅっと握り、ハラハラしながら見ていると、杏奈は一番低い鉄棒から一段高い鉄棒へと足を伸ばそうとする。
「危ないってば」
「こんくらい軽いって」
金属に温かさを奪われた手を、私は首とマフラーの間に入れた。淡いオレンジ色の、ふわふわのマフラー。
「そのマフラーかわいいね」
「……あ、お兄ちゃんが買ってくれたの」
不安定に揺れる体。一歩ずつ進む足。目はこちらを見ている。
「杏奈、やめて、もう下りて」
「大丈夫だよ」
彼女が前を見ずに更に高い鉄棒へと足を出した瞬間、体がこちらへぐらりと傾いた。
「うわっ!」
「きゃあっ!」
マフラーを掴もうとした杏奈の手を、私は避けてしまった。
「白杖、新しくしたの?」
「うん。軽くて丈夫なの」
右手の白杖を浮かせ、杏奈は軽く微笑んだ。
「そっか。次はどこに行きたい?」
「商店街のパン屋さん、かな」
杏奈の目は、あの鉄棒での事故で見えなくなってしまった。
「わかった、行こ」
「レーズンの買いたいな」
会話の最中もコツコツと地面を叩く軽い音。本当は、必要なかったはずの音。
「近付いてきた? いい匂い」
うれしそうに杏奈は言う。
「私もレーズンのにしよう。一緒に買うね」
「うん。あとでお金払うから」
会計を終えると、明るい笑顔が私を待っていた。
「夜食にするんでしょ? 受験勉強がんばってるんだね」
「え、受験勉強って、何で?」
杏奈の言葉に驚く。彼女に大学受験のことを話した覚えはない。
「何となくわかっただけ」
いたずらっぽく笑う顔は、私を見ない。
踏切を渡るときはまだ緊張すると杏奈は言う。
「誰かと一緒なら平気なんだけど」
商店街を抜けた先、カンカンカンと音が鳴って目の前に遮断器が下りた。しばらく待ち、遮断器が上がってから杏奈の手を取って歩く。
「段差気を付けてね」
「うん、ありがと」
杏奈は六年生になるタイミングで盲学校に編入した。それでも電話で話したり、たまに商店街で買い物をしたりと、付き合いは続いている。
二人の時間を私は気に入っている。奔放で活動的な彼女に小言をぶつける必要がなくなってからは、特に。でもそろそろ終わりにしないといけない。古いタオルケットをいつまでもベッドに持ち込むように、縋り付いてしまう、優しい時間を。
五月の風は気まぐれに向きを変える。
「ちょっと寒くなってきたね」
「もう夕方だもん」
「……あたし、行きたいところがあるの」
「どこ?」
「あの児童公園に行きたい」
鉄棒の向こうの夕日が眩しい。目を眇めて下を向いてしまうのはきっと、西空から射す光のせいだ。
「……公園、久しぶり」
「うん。あれ以来、来てなかった」
杏奈の白杖が、鉄棒から伸びた影を擦った。
「最後に見た色、オレンジ色だったんだ」
「えっ……」
胃のあたりに嫌な衝撃が走り、心臓が早鐘を打ち始める。
「香乃ちゃんのマフラー」
固く目をつぶる。私が杏奈の目と引き換えに守ったのは、オレンジ色のマフラーだった。あれからずっと、箪笥の奥に眠るだけの。
「あたし、利用したの」
おそるおそる目を開けて杏奈を見る。その瞳は、私のほうを向いていない。
「利用……?」
「香乃ちゃんが優しくしてくれるのが嬉しくて。自分のせいで失明したのに」
「優しく、って、当たり前よ」
「マフラーを庇ったんだもんね」
どくん、と心臓が大きく脈打った。自分勝手な心臓。
「……ごめん、咄嗟に……」
「謝ることない。香乃ちゃんの罪悪感を利用してたんだよ、あたし」
言葉が出てこない。杏奈の黒い瞳は、鉄棒のほうを向いている。
「あたしたち頭の出来が違うでしょ。高校生になったらたぶん連絡なんかしなくなってたと思う」
「そんな、こと」
「終わりにしたいの。自分のこと嫌いになりそうだから」
杏奈は顔をこちらに向ける。でも目は合わない。事故以来、一度も合っていない。
「ごめ、ごめん」
「香乃ちゃんのせいじゃない、あたしのわがままだよ。……ここらへん、いい大学ないもんね」
うなずくことしかできず、私は杏奈の左手をそっと握る。
いつの間にか溢れていた涙で濡れる目が、やっと杏奈と合った気がした。
その日を境に、私たちは連絡を取らなくなった。
オレンジ色の風景は今も私の中に、少しずつ溶けながら、横たわっている。
悲しみの風景 祐里 @yukie_miumiu
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