遅れてきた復讐

広川朔二

遅れてきた復讐

俺には、とても苦い思い出がある。


高校一年のある日のことだった。休日、街へ出かけた帰り道、駅前の広場を横切ろうとしたとき、嫌な気配に気づいた。数人の男たちがたむろしていた。髪を金色に染め、ジャージ姿で地べたに座り込み、明らかに同年代なのにタバコの煙をくゆらせている。いわゆる、ヤンキーと呼ばれる連中だった。


俺とは交わることのない人種だ。厄介事は御免だと、できるだけ視線を合わせないよう、足早に通り過ぎようとした。だが、それが逆に目をつけられた。


「おい、今、何チラチラ見てんだよ?」


一人が俺の肩を乱暴に叩いた。


心臓が縮み上がる。何か言い返したらいけない、そう思った俺は「い、いえ」と首を振った。だが、それが気に食わなかったらしい。彼らは俺を囲むように立ち、腕をつかみ、力ずくで人気のない路地裏へ引きずり込んだ。


そこで待っていたのは、殴打と蹴りによる暴行。手慣れているのか、大けがを負うようなものではないが喧嘩とは無縁に生きてきた俺には抵抗が出来なかった。


恐怖で声も出なかった。


何発も顔を殴られ、腹を蹴り上げられ、地面に倒れ込む。痛みと屈辱で涙がにじんだ。耐えていればそのうち飽きるだろうと微かな希望をもって。


だが彼らの行動はそれだけでは終わらなかった。


服を無理やり脱がされ、携帯のカメラを向けられる。何枚も、何枚も、写真を撮られた。


「警察に言ったら、こいつバラ撒くからな」


男たちは笑いながら脅してきた。俺は何も言えなかった。ただ、必死にうなずくしかなかった。


それを見て満足したのか彼らは去った。俺はボロボロの姿で、しばらくその場に蹲っていた。


あの日からだった。周囲の視線が怖くなったのは。たとえ誰も知らないはずなのに、道を歩いているだけで誰かが自分を指さして笑っているような気がした。あの写真が、どこかで、誰かに見られているかもしれない。そんな被害妄想にも似た恐怖が、俺を蝕み続けた。


学校でも、笑うことができなくなった。友人と呼べる存在も、いつしか遠ざかっていった。


けれど、俺には一つだけ、誇れるものがあった。幸いにも頭がよかったのだ。だから、猛勉強して地元を離れ、遠い都市の大学へ進学することができた。


あの町を出て、あの過去を、すべて捨てた。

そう信じたかった。


そして、そこそこの名の知れた企業に就職し、忙しい日々に身を任せているうちに――

俺は、過去の悪夢を、心の奥底へ封じ込めて生きてきた。


そう思っていた。……あの日、あの男と再会するまでは。





新しい派遣社員が隣の部署に入ったのは、春先のことだった。


俺には関係のない話だと、最初は思っていた。派遣なんて、すぐ入れ替わる。名前すら覚える必要はない。それに、俺自身、人付き合いに積極的なほうでもない。与えられた仕事を淡々とこなし、必要最低限の会話しかしない。それが、社会人になった俺の処世術だった。


だが、偶然耳にした休憩室での会話が、俺の中の何かをざらりと逆なでした。


「俺、昔はヤンチャしてたんすよー。まあ、若気の至りってやつ? 地元じゃ結構知られてたっすね~」


軽く笑いながら話す男の声。その口調、その軽薄な響きに、微かな違和感が生まれる。興味もないはずの雑談に、耳が勝手に向いてしまう。


「地元、どこなの?」


「××県の○○駅の近くっす。治安悪かったし、ガラ悪いの多かったっすよー。俺も、まあ、手あたり次第に喧嘩売ってたし、いろんな人に迷惑かけましたわ、ははっ」


その瞬間、俺の胸に冷たい針が突き刺さった。


○○駅。あの忌まわしい町の名前。手あたり次第に喧嘩を売った? 迷惑? 笑いながら?


まさか、と思いながら、ちらりと男を見た。茶髪に焼けた肌。軽いノリで、誰にでもフレンドリーに接するその態度。だが、目の奥に、あの日、路地裏で嗤っていた連中と同じ、鈍く濁った光を見た気がした。


間違いない。あれは、あの時、俺を踏みにじった連中の一人だ。


背筋が凍った。吐き気がこみ上げた。


俺がどれだけあの日から逃げ続けたと思っている。どれだけ努力して、過去を封じ込めて生きてきたと思っている。


それを、こいつは――

武勇伝のように、笑い話のネタにしている。


ふざけるな。


あの日、俺の人生をどれだけ歪めたか、知らないのか。いや、知っているはずもない。

こいつにとっては、名前も覚えていない、ただの一コマ。その程度の存在だったのだ。


俺の中で、何かがはっきりと切り替わった。


関わらない? 知らぬふりをする?


違う。


そんなことで、俺の中のこの痛みは消えない。こいつは、笑って生きてはいけない。俺の手で、潰す。静かに、確実に。あのとき、誰にも助けてもらえなかった俺自身のために。


俺は、復讐を決意した。





復讐は、派手にやる必要はなかった。いや、派手にやってはいけなかった。


あくまでも「偶然」を装う。周囲には「たまたま」起こったように見せかける。そして、奴自身の信用を、じわじわと削り取っていく。


俺は静かに計画を立てた。


まず、派遣男の仕事に小さな綻びを生じさせた。彼の使う業務ツールの設定を、わずかに狂わせる。ファイルのパスを一つだけ間違え、資料のデータを意図的に古いものにすり替える。


彼はそれに気づかず、提出した。当然、上司から叱責される。「確認が甘い」と、派遣という立場上、より厳しく責められる。


次に、彼の人間関係に亀裂を入れた。飲み会の場で、俺は何気ないふりをして、同僚たちに耳打ちした。


「聞いたんだけどさ、あいつ、前の職場でもトラブル起こして辞めたらしいよ」


裏付けはない。だが、人は噂に弱い。一度火がつけば、勝手に燃え広がる。人懐こい笑顔に潜んだ軽薄さが、逆に疑念を深めた。


日を追うごとに、彼の立場は悪くなった。


小さなミスを大きく責められ、同僚たちの態度が冷たくなり、上司からも目をつけられるようになった。


それでも最初のうちは、彼は笑っていた。軽口を叩き、空元気でごまかしていた。だが、次第にその笑顔が引きつり、目の奥に焦りと怯えがにじみ始めた。


それでも俺は、手を緩めなかった。必要な情報をわざと彼にだけ伝えず、孤立無援の状況を作り出した。


彼は空回りし、またミスを重ねる。

誰も助けない。

誰も味方しない。


やがて、彼は部署の空気を悪くしていると上層部に判断され、「派遣契約の打ち切り」が決まった。


あっけないものだった。


契約終了の日、彼は少し多めの荷物を抱え、うつむきながらオフィスを後にしようとしていた。


すれ違いざま、俺はわざとらしく声をかけた。


「……昔はヤンチャしてたんだっけ? 今もだいぶ迷惑かけてたよな。なぁ、お前がしてきたことが許されると思うなよ。言っておくが俺だけじゃないぞ。お前がお前たちが自分勝手に振るってきた暴力の被害者はどれだけいると思う?」


男は、ぎょっとした顔で俺を見た。


その顔を、俺は忘れないだろう。


俺のことに気づいたのか、気づかなかったのか。どちらでもいい。すべては、もう終わったのだから。


男は、黙って視線を逸らし、逃げるように会社を去った。


俺は静かに、誰にも悟られることなく、深く息を吐いた。





男がいなくなってから、オフィスは驚くほど静かになった。何か特別なことがあったわけではない。ただ、重苦しかった空気が少しだけ軽くなった。誰も口には出さないが、それが答えだった。


俺は、いつも通りに仕事をこなした。デスクに向かい、モニターを見つめ、静かにキーボードを叩く。何も変わらない、平凡な一日。ただ、胸の奥に一つだけ、静かな安堵が宿っていた。


昼休み、オフィスビルの裏手にある喫煙所で缶コーヒーを飲みながら、ふと思う。あの男は、これからどこへ行くのだろうか。またどこかで、適当に笑って、誰かに迷惑をかけるのだろうか。それとも、今度こそ、自分のやってきたことの重さに気づくのだろうか。


いや――

そんなことは、もうどうでもよかった。


あの日、踏みにじられた俺の高校時代は戻ってこない。傷が消えることもない。だが、それでも。


過去の亡霊に、今の俺が勝った。

それだけで、十分だった。


冷たい春風が、煙草の匂いを運んでくる。俺は空を見上げて、ゆっくりと目を閉じた。静かで、少しだけ、暖かい午後だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遅れてきた復讐 広川朔二 @sakuji_h

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ