第2話:すれ違いと小さな興味

 春の朝。

 制服の詰襟にまだ違和感を覚えながら、俺は靴を履いた。

 鏡に映る姿は、どこか借り物のようで、他人事に見える。


 入学式を終えて、今日から本格的な高校生活が始まる。

 そう思うと、漠然とした緊張が胸を締め付けた。


(でも、なんだか落ち着かないな)


 自分に言い聞かせるように、鞄を肩にかけた。

 重みが肩に食い込む感覚が、現実感を与えてくれる。


 「行ってきます」


 返事を待つでもなく、玄関を後にした。

 なぜか今朝は、家を出るのが少し名残惜しかった。


 校門をくぐると、昨日より賑やかな空気が広がっていた。

 皆、少しずつ馴染み始めている。

 俺だけが取り残されていくような気がした。


 


 教室には、すでに何人かの生徒たちが集まっていた。

 窓際には、小さな輪ができている。

 笑い声が行き交う。


 明るい声、初対面同士のぎこちない挨拶。

 友達を作ろうという必死さが、空気を緊張させている。


 その空気の中、俺はできるだけ目立たないように自分の席へ向かう。

 窓から差し込む光が、机の上で淡い模様を描いていた。


 隣の席はまだ空いている。

 昨日、ちらりと見かけたあの子の席だ。

 少しだけ、意識してしまう自分が嫌だった。


 鞄を机の横にかけ、椅子に座る。

 静かに待つだけ。それが一番楽な方法だった。


 


 朝のホームルーム。


 担任が壇上に立ち、淡々と自己紹介を促した。

 三十数名の生徒たちが、一斉に静かになる。

 期待と緊張が、教室に満ちていた。


「じゃあ、前の席から順番に、簡単に自己紹介をしていこうか」


 一番前の生徒が立ち上がる。

 ぎこちない声、遠慮がちな拍手。

 「趣味はサッカーで……」「中学では吹奏楽部で……」

 どこか型にはまった言葉が続く。


 順番は、じわじわと俺に近づいてくる。

 胸の鼓動が早まるのを感じる。

 自己紹介なんて、本当に苦手だった。


 何を言えばいいんだろう。

 何を隠せばいいんだろう。

 頭の中で言葉を探す。


 


 俺は立ち上がった。

 一瞬、視界がぼやける。


「神谷蒼司です。……よろしく」


 それだけ。

 必要最低限の言葉だけを口にして、さっと座った。

 自分の声が、どこか他人のもののように聞こえた。


 周りからは、小さなざわめきが起こる。

 もしかしたら、もう少し何か言うべきだったのかもしれない。

 でも、これで十分だ。これ以上、注目されたくなかった。


 身体の緊張が、ゆっくりと解けていく。

 椅子の背もたれに、少しだけ体重を預ける。


 


 次。

 隣の席の女子生徒。


 彼女が席を立つ音で、思わず顔を上げる。

 上品なツインテール。制服をきっちり着こなしている。

 カフェで見た姿と、教室の彼女が重なる。


「有栖川華音です。……普通に接してもらえれば」


 控えめな口調。

 でも、どこか周囲との間にうっすら壁を作っているような印象だった。

 その姿勢や、視線の向け方に、どこか他者を寄せ付けない雰囲気がある。


 華音が席に戻る。

 ほんの一瞬、俺たちの視線が交わった気がした。

 だけど、すぐにそれぞれ別の方向を見る。


(カフェの時のこと、覚えてるよな、絶対)


 胸の中で、小さな確信が燻っていた。


 


 自己紹介は流れるように続き、ひとまず一区切り。

 「バレー部に入りたくて」「絵を描くのが好きで」

 思い思いの言葉が、教室に響く。


 教室には少しだけ、柔らかい空気が流れ始める。

 俺だけが、取り残されているような気がした。


 


 次は、クラス委員決め。

 誰がやるんだろう、と思いながら、窓の外を見る。

 校庭では、部活の勧誘準備をしている先輩たちの姿が見えた。


「クラス委員、誰か立候補する人いる?」


 担任の問いかけに、教室が静まりかえる。

 誰も手を挙げない。言葉を発しない。

 そういう場の空気って、息苦しいものだ。


 


 その静寂を破ったのは、

 黒髪ショートカットの、明るい雰囲気の女子──朝倉澪だった。

 入学式でも、自然と周囲に話しかけていた子だ。


「はい。もし誰もいなければ、やります!」


 彼女の明るい声に、教室の空気がほぐれる。

 ほっとした表情が、あちこちに浮かぶ。

 自然と拍手が起こり、委員長が決まった。


(……なるほど)

(こういう空気読める奴って、すごいよな)


 こういう空気を読めるやつが、自然に場をまとめていくんだろう。

 俺には、絶対に無理だろうな。

 そう思いながら、ノートの隅に無意味な線を引いていた。


 


 副委員や係も順に決まり、クラスは少しずつまとまり始めた。

 俺は、特に何もやらないことになった。

 それでよかった。目立ちたくなかった。


 休み時間。

 担任が「席の近い人同士、軽く話しておこう」と促す。

 どこか強制的な空気が流れ、生徒たちが互いに向き合い始める。


 俺は一瞬、どうしようかと迷った。

 机の上の消しゴムを、何となく指で転がしている。


 


 隣の席──有栖川華音が、ちらりとこちらを見た。

 その目には、何か言いたそうな色が宿っていた。


「……あなた、なんだか目立たないようにしてるみたいね」

 小声。


 皮肉めいた口調だが、どこか観察眼の鋭さを感じさせる響き。

 ふわりと春の風のような声だった。

 一瞬、どう応えればいいのか迷う。

 当たり障りなく答えるべきか。反論すべきか。


「……そんなつもりはない」


 俺は努めて無関心を装った。

 けれど、心臓がほんの少しだけ跳ねたのを、自分でも自覚していた。


 喉の奥が、かすかに乾く。

 彼女の目が、わずかに細められる。

 何かを見透かすような、鋭い眼差し。


「ふうん、空気読みのいい人のふりかしら」


 くすっと笑って、まるで「見え透いてるわよ」と言いたげな表情。


「勘違いしないでね。私は別に興味があるわけじゃないから」


 華音はそう付け加えるとからかうような目配せをし、再び視線を教室の前方へ戻した。


 俺は返す言葉を探していると、彼女が再び顔を向けてきた。


「ごめんなさい、言い方が悪かったわ」


 意外な謝罪に、思わず目を見開く。


「私も、人と話すの得意じゃないから」


 華音は少し視線を落として言った。

 それは本心なのか、それとも単なる取り繕いなのか、判断できなかった。


「別に、気にしてない」


 俺はぶっきらぼうに答えた。


「そう」


 彼女の唇が、少しだけ動いた。

 何か言いかけて、やめたのかもしれない。


 少し離れた場所では、朝倉澪が周囲の生徒たちと笑い合っていた。

 彼女は誰の言葉も受け止め、返し、場の空気を自然と和らげていく。

 まるで、交差点の信号機のように、人と人をスムーズにつないでいる。


 でも──華音は違った。

 有栖川華音は、言葉を"試す"ようだ。

 皮肉の形をした、それは問いかけのようだった。

 観察して、反応を見て、また観察する。


「あなた、何か隠してるよね」


 突然、華音が言った。

 その言葉に、背筋が少し硬くなる。


「……何を?」


 とっさに答えた。

 視線を合わせないようにしながら。


「さあ、それが知りたいところ」


 華音は、くすっと笑った。

 まるで「見抜いてるわよ」と言いたげな表情。


「別に、隠し事なんて誰にでもあるものだから、気にしないで」


 それだけ言うと、再び視線を教室の前方へ戻した。

 黒板の方を見ているけれど、目は何も見ていないように思えた。


「昨日、あの子との会話。聞こえたわよ」


 小さな声で、華音が言った。

 それが何を意味するのか、すぐには理解できなかった。


「あなたの選択は、正しかったと思う」


 意味ありげな言葉。

 彼女は入学式で俺と乃々香のやりとりを見たのか。

 それとも、カフェでの出来事も知っているのか。


 俺は黙ったまま、机の上の消しゴムを指で転がす。

 返す言葉が見つからなかった。


 会話はそこで終わった。

 それ以上、どちらも何も言わなかった。

 窓から差し込む陽の光が、彼女の横顔を照らしていた。


(……なんなんだ、あいつ)

(ただの勘違い、って言えばいいのに)


 胸の奥に、妙な引っかかりだけが残った。

 こういう中途半端な関係って、なんだか居心地が悪い。


***


 放課後。

 新しい教科書の重みを感じながら、俺は教室を出た。

 ふと思い立って、俺は図書室に向かった。


 学校案内で聞いた限り、それなりに蔵書が揃っているらしい。

 できれば、次の作品の参考になるものが見つかれば……。


(まあ、資料でも探してみるか)

(いや、そもそも何を書けばいいのか、わからないんだけど)


 そんな軽い気持ちだった。

 廊下を歩きながら、頭の中では物語の断片が浮かんでは消えていく。


 


 図書室は、ひんやりとした静寂に包まれていた。

 空調の音と、ページをめくる音だけが響く。


 夕日が差し込む春の日差しが、長い影を落としている。

 埃っぽいような、古書のような香りが漂う。


 司書の先生に軽く会釈をして、奥へと進む。

 探していたのは、民俗学関係の資料。

 その棚を目指して歩いていた。


 適当に本棚を眺め、手に取った資料本を捲っていると──

 ふと、視線を感じた。


 何気なく顔を上げると、目が合った。


 窓際の席。

 制服姿の少女が、一心に本を読んでいた。

 つい先ほどまでは。


 ツインテール。

 控えめな制服の着こなし。

 そして、どこか他人を寄せ付けない雰囲気。

 光に照らされた横顔が、どこか絵画のようだった。


(……有栖川)

(なんで、ここにいるんだ)


 彼女もこちらに気づいたのか、一瞬だけ視線が交差する。

 その瞳に、驚きの色が浮かんだ気がした。


 けれど、すぐにお互いに目を逸らした。

 彼女は本のページをめくり、俺は資料棚の方へ視線を戻す。


 何も言葉は交わさなかった。

 でも、心の奥に、ほんの小さなざわめきが残った。

 見知らぬ誰かではなく、知っている誰かがいる安心感。


 やがて、俺は資料を借りずに図書室を後にした。

 まるで、何かから逃げるように。


 知らないふりをしながら、

 それでも、確かに、少しだけ心が動いていた。


 今日もまた、俺たちは──すれ違ったままだった。

 でも、その「すれ違い」の中に、かすかな期待が芽生え始めていた。


***


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

初回はプロローグから第3話まで投稿しています。


この回では、「噛み合わないふたり」のやりとりを中心に描いてみました。

意図せず突き刺さる言葉。伝えたかったことと、伝わったことのズレ。


それでも、どこか気になってしまう相手がいる。

その時点で、もう心は少し動いているのかもしれません。

AIアートhttps://kakuyomu.jp/my/news/16818622174260116880


▼次回:

一度も噛み合わないのに、どこか似ている。

距離感と視線の中で、ふたりの関係は微かに揺れる。


→第3話「近づかない距離、触れない想い」

次回更新は──**〔明日 20:00〕**2話更新予定です。

どうぞ、お楽しみに

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