第1章:すれ違いと小さな興味

第1話:入学式とクラス発表

 春の朝。四月の空気が肌をかすめる。

 制服の詰襟に指をかけながら、俺は小さく息を吐いた。じわりと広がる緊張感。鏡に映る自分が、どこか他人のように見える。


 ──制服の第二ボタンか。

 たまに漫画とかで描かれる卒業式の定番シーン。


 でも俺の場合は、それを誰かにあげる相手もいないだろう。

 そんなどうでもいいことを考えていた。


(……まあ、別に)


 期待なんかしてない。

 そう、期待なんて、しちゃいけないんだ。

 そんなことを、自分に言い聞かせながら。


 玄関を出ると、冷たい春風が頬を撫でた。

 少しだけ、心が揺れる。いや、単に気温が低いだけか。


 母親の「行ってらっしゃい」という声も、半分くらいしか耳に入らない。

 妹も今日から中学生になるはずだけど、もう先に出かけたらしい。


 家を出るとき、何も持たずに出ようとして慌ててカバンを取りに戻ったりもした。

 いつもより少し早起きしたせいか、頭がぼんやりしている。


 


 駅前は、同じ制服を着た生徒たちでごった返していた。

 まるで色のない魚の群れみたいに、押し合いへし合いしている。みんな同じ方向に向かって泳いでいる。


 知らない顔ばかり。

 見知らぬ声が交錯するたびに、俺の胸の奥が妙にざわついた。

 なんだろう、この感覚は。期待?不安?それとも単なる緊張?


 電車の中でも、新入生らしき生徒たちが小さな集団を作っている。

 もう友達ができてるのか。いや、おそらく中学からの知り合いだろう。


(誰も、俺のことなんか気にしてない)

(……いや、それが普通なんだけど)

(そもそも気にされたら気にされたで面倒だし)


 そう思いながら、無言で歩く。

 靴音が、春の空気に溶けていく。


 桜並木の下を通り抜ける。

 淡いピンク色の花びらが、ときおり風に乗って舞い落ちてくる。

 そんな風景を見てると、少しだけ心が和らぐ。


 


 校門をくぐると、白い校舎が陽光にきらめいていた。

 やけに眩しい。目を細める。


 私立葵ヶ丘高校。

 偏差値は中の上くらい。それなりに名の知れた私立高校だ。

 でも、俺にとっては新しい世界の入り口。


 三年間、どうやって過ごすんだろう。

 そんなことを考えていると、ちょっとだけ気が重くなった。


 掲示板には、クラス発表が張り出されている。

 人だかりができていた。声高に友達の名前を呼ぶ奴もいれば、一人で黙々と名前を探す奴もいる。


 群がる生徒たちを縫うようにして近づき、自分の名前を探す。

 少し息が詰まる。どうでもいいはずなのに。


 名前を見つけるまでの数秒間が、妙に長く感じられた。

 目が滑るように、名簿の上を走る。あ、あった。


「神谷蒼司──1年B組」


 小さく息をついた。

 名前の隣に書かれた文字が、現実味を帯びる。


 ただそれだけのことなのに、妙な安堵が胸を満たした。

 やっぱり、少しは緊張してたのかもしれない。


 B組か。特に意味はないけど、なんとなく悪くない響きだ。

 もし一組だったら、成績順とか思われていやだったかもしれない。


 


 そのときだった。


 ふと、隣から微かな気配を感じた。

 誰かが立っている。肩がかすかに触れそうになる距離。


 ほのかな香りが鼻をくすぐる。シトラス系の軽い香水だろうか。

 それとも、シャンプーの香りだろうか。


 横目で覗く。


 ──柔らかいツインテール。淡い光を含んだような黒髪。

 ──標準制服をきっちり着こなしつつ、どこか品のある佇まい。

 ──控えめなレースのリボン。丁寧に結ばれた淡いピンク色。

 ──周囲とは少しだけ違う、空気の層。


 その佇まいには、誰にも触れさせたくない沈黙があった。

 近づけば壊れそうで、離れれば忘れてしまいそうな、

 緊張と余白が同居する『気高い孤独』。


 他の女子たちとは、明らかに違う雰囲気を纏っている。

 どこかで見たような気が──。


「有栖川華音──1年B組」


 少女が小さく呟いた。

 聞こえるか聞こえないかの声。まるで自分だけに向けた言葉のよう。


 ふと、彼女が俺の方を見た気がした。

 一瞬だけ、視線が交差する。

 彼女の瞳は、何かを知っているような輝きを持っていた。


(──お嬢様っぽいな)

(って、いや、関係ないけど)

(でも、どこかで…)


 そんなことを思ったけれど、すぐに視線を戻した。

 見つめるのは失礼だから、というより——。


 関係ない。

 この春も、俺は誰とも特別な何かを作るつもりはない。

 ……たぶん。


 少女──有栖川華音は、名前を確認すると、ふわりと身を翻した。

 すれ違いざま、彼女の制服のスカートが風を切る音がした。


「同じクラスなんだ」


 あまりにも小さな声で、でも確かにそう言ったのが聞こえた。

 その声には、皮肉なのか、興味なのか、判別できない色があった。


***


 入学式。


 整列した一年生たちの列。

 体育館には、ざわめきと期待と、少しの緊張が満ちていた。

 背筋を伸ばして立つ生徒たち。俺もその一人。


 緊張からか、喉が渇く。朝ちゃんと水を飲んでおけばよかった。

 入学式の緊張感は、予想以上だった。


 壇上では、校長が延々と話している。

 建学の精神だとか、未来への期待だとか。

 どこの学校でも似たような話をするんだろうか。


 タブレットでメモを見ながら話す校長先生。

 時々画面をスクロールする仕草が、やけに気になる。


 俺は、適当に頷きながら聞き流していた。

 周りを見ても、真剣に聞いている奴はほとんどいない。

 中には、こっそりスマホを見ている奴もいた。


(眠い……)

(──っていうか、この校長、何分話す気だ?)

(スピーチ下手くそだな。原稿丸読みじゃん)


 そんなふうに欠伸を噛み殺しかけたときだった。


「──あの、よかったら、隣いいですか?」


 控えめな声が聞こえた。

 柔らかいけれど、芯のある声。


 顔を向けると、

 黒髪をまとめた、落ち着いた雰囲気の女子生徒が微笑んでいた。

 整った顔立ちと、どこか知的な印象。

 大きな瞳に知性が宿っている。


 そういうタイプの女子は、なぜか俺を不安にさせる。

 きっと頭がいいんだろう。


「朝倉澪です。同じクラスみたいなので」


 手際よく自己紹介を済ませ、自然な流れで周囲に話しかける彼女に、

 周囲の空気が少しだけほぐれるのがわかった。

 人と人をつなぐ才能というのだろうか。


 彼女の言葉に、周囲の男子が妙に生き生きとし始める。

 これがモテるってやつか。学校の華みたいな存在になりそうだ。


(……すごいな)

(コミュ力お化けか何か?)

(俺なら絶対にできない芸当だ)


 俺は、心の中で素直に感心していた。

 言葉にはしなかったけれど。


 こういう奴が、委員長とかやるんだろうな、たぶん。

 きっと、俺とは真逆の人種だ。

 でも、悪い人じゃなさそうだった。


 ──と、ふと横を見ると、さっきの名簿前で見た女子がいた。

 有栖川華音。

 少し離れた場所に立ち、周囲の様子を静かに観察している。


 彼女は誰とも会話せず、一人でいた。

 けれど、その姿には孤独さよりも、何か別の意志のようなものが感じられた。


 誰かが話しかけようとすると、微かに身を引くような仕草をする。

 あの距離感は、計算されているのかもしれない。


 そこには、「近づかないで」という無言のメッセージがあった。

 でも同時に、どこかそれは演技めいてもいた。


 華音は気づいたように、こちらを見た。

 一瞬、視線が合う。

 彼女の目には、何かを知っているような光があった。


 すぐに視線を外したが、なぜか胸の奥がざわついた。

 あれ、もしかして同じクラスなのか?

 もしそうなら、やけに偶然が重なる気がする。


***


 式が終わり、流れ解散になった。

 誰かと話すでもなく、ただ流れに身を任せる。

 これが俺のいつものスタイルだ。


 朝倉とは、軽く会釈を交わしただけ。

 深入りする気はない。


 俺も、人混みに紛れて校舎を出ようとする。

 このまま教室に行って、静かに一日を終えるつもりだった。

 初日は自己紹介とか面倒なことが多いけど、それもなんとか乗り切るしかない。


 桜の花びらが、そよ風に乗って舞っている。

 春の光景としては、まさに絵に描いたような美しさだった。


 その時。


「──あんた、昨日の……カフェの男でしょ?」


 背後から、ふいに声がかかった。

 心臓が、一拍だけ跳ねる。


 ゆっくりと振り返る。

 そこには──。


 振り返ると、制服姿のお嬢様風の少女──

 有栖川華音が、こちらを見ていた。

 どこか意地の悪い笑みを浮かべて。


 その佇まいには、誰にも触れさせたくない沈黙があった。

 近づけば壊れそうで、離れれば忘れてしまいそうな、

 緊張と余白が同居する『気高い孤独』。


 ツインテールが、春風に揺れる。

 陽の光を受けて、ほんの少しだけ煌めいた。

 その姿が、昨日のカフェで見た少女と重なる。


(──バレてた?)

(いや、何がバレるんだよ)

(そもそも隠してたわけじゃないし…)


 思わず固まる。

 言葉が出てこなかった。

 彼女が自分のことを知っていると思うと、なぜか胸がざわつく。


 華音は、皮肉っぽく口の端を吊り上げた。

 どこか上から目線の、それでいて捉えどころのない表情。

 制服姿でも、どこか「普通」とは違う雰囲気を漂わせている。


「別に、興味ないけどね」


 それだけ言うと、くるりと背を向けて一歩踏み出した。

 そして、再び振り返る。


「でもね、あそこで断った彼女のこと、私は少し見直したわ」


 華音の言葉に、胸が締め付けられる。

 昨日のこと、ちゃんと見ていたんだ。


「あなたの方は……どうだろう」


 鋭い視線が、俺の内側まで見透かすようだった。


「あたしが何を言ってるのか、わかるでしょ?」


 それは質問ではなく、確信だった。

 二人だけの、共有された記憶についての。


 言葉に詰まる俺を見て、彼女は小さく息をついた。


「まあいいわ。偶然、同じクラスになっちゃったけど……」


 少し間を置いて、彼女は付け加えた。


「お互い、知らないふりしときましょ」


 くるりと背を向けて歩き出す。

 ほんの一瞬の出来事だった。


 桜の花びらが、彼女の背中と俺の間を舞った。

 まるで、俺たちの間に壁を作るように。


 


 俺は、取り残されたようにその背中を見送った。

 何か言い返すべきだったのか。

 でも、何を?


 彼女の言葉には、どこか挑発的な響きがあった。

 「興味ない」って言うくらいなら、声をかけなきゃいいのに。

 矛盾している。


 でも、最後の「知らないふりしときましょ」という言葉には、

 妙な共犯関係のようなものを感じた。

 二人だけの秘密。


 春の陽射しが、眩しかった。

 瞳をつぶっても、光の残像が消えない。

 そして、彼女の姿も、妙に鮮明に残っていた。


 あれが、俺たちの最初の言葉。

 棘のあるすれ違い。


 知らないふりをするには、少しだけ遅かった。

 そして、これから先がどうなるのか——誰にも分からなかった。


 だけど、何かが始まる予感だけは、確かにあった。


***


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

初回はプロローグから第3話まで投稿しています。


この回では、ふたりの再会──というより、"出会い直し"を描いてみました。

隣の席。でも、簡単には近づけない距離。


会話の奥にある「読み合い」や、ほんの少しの戸惑いが、

誰かとの関係の始まりに、実はいちばん必要なのかもしれません。

AIアートhttps://kakuyomu.jp/my/news/16818622174260116880

▼次回:

クラス委員決め、自己紹介、そしてすれ違う視線。

隣の席の"皮肉屋"は、何を見ているのか。


→第2話「すれ違いと小さな興味」


次回更新は──**〔明日 20:00〕**2話更新予定です。

どうぞ、お楽しみに

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