第29章 おじさんと自家製乳製品作り
第353話
「……うまいチーズが食いたい」
コーヒーの湯気をぼんやりと見つめながら、そんな言葉が不意に口をついて出た。
きっかけは単純だ。コーヒーの横にあった小皿のパンに、昨日の残りのチーズをのせて食べてみた。だが、何かが足りなかった。
この世界のチーズは、決して不味くはない。ただ、もっと旨味と深みのあるやつが食いたかった。あの頃――前の世界で味わった、あの濃厚な熟成チーズが、ふと脳裏に浮かんだのだ。
「まあ、仕方ないか」
そう言って残りを平らげたが、頭の中では既に別のことが動き始めていた。
もし自分で作れたらどうだ?
この世界の牛乳は新鮮で濃厚だ。発酵の知識もある程度は通用する。万能生成スキルも使えば、必要な材料や器具も揃えられる。
――やれそうだな。
コーヒーを飲み干し、一服。煙草の煙をくゆらせながら、店の奥にある書棚へ向かう。
古ぼけた農業書、酪農の手引き、保存食に関する古書。あれこれ引っ張り出して、カウンターに積み上げた。
「さて、どれから読むか……」
手に取った一冊の表紙には、『農と酪の手習い』とある。ページをめくると、牛乳の扱い方からチーズやバターの作り方まで、素朴な言葉で丁寧に記されていた。
文章は古めかしいが、要点は掴める。チーズの製法に至っては、前世の知識があるぶん理解は早かった。
「やはり、乳の質がすべてか」
それがすべての基本になるのは、この世界でも同じだろう。
牛乳の質、温度管理、発酵と凝固、熟成環境。ページをめくるたび、工程が頭の中で組み上がっていく。
途中、現世でのチーズ作りを思い出していた。小さな工房で教わったこと、趣味で何度か試したこと、発酵の微妙な調整の難しさ……それらの経験が今になって役立つとはな。
「まずは計画だな」
記録用のノートを一冊引き出し、『乳製品探求記録』と書き込む。
最初のページに目標を記す。
――バター、ヨーグルト、フレッシュチーズ、そして熟成チーズ。
それらを一つずつ試し、完成させていく。
次に、必要な道具と材料のリストを作る。
万能生成スキルで賄えるものは極力活用するが、手間をかけて作ったほうが風味が良くなる工程は、あえて自作の道具を使うことにする。
「道具は……バターチャーン、チーズプレス、温度管理用の鍋……熟成庫もいるな」
熟成庫のことを考えて、ふと地下室のことが頭に浮かんだ。
あそこを改装すれば使えそうだ。温度と湿度さえ安定させれば、良質な熟成ができるはず。
さらに、牛乳の調達も課題だ。
「村の酪農家に直接頼むのは面倒だな……」
考えた末、店の前に木札を出すことにした。
『牛乳求む 代金は袋に』
木札にそう書き、革袋を括りつける。定期的に牛乳を届けてもらう仕組みだ。
これなら誰とも顔を合わせずに済む。
準備が整ったころには、陽が西に傾いていた。
一息つき、コーヒーを淹れ直す。煙草に火をつけ、湯気の向こうにノートを眺めた。
「さて、どこまでやれるか」
次第に胸が高鳴ってくる。自分の手で作る乳製品、その味を思い浮かべるだけで、面倒だった工程も楽しみに変わっていた。
目標はただひとつ。
――うまい乳製品を作る。それだけだ。
コーヒーを一口、煙を一筋吐き出し、次のページに道具の設計図を書き始めた。
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