第2話 獣人の集落と初めての道具

ジンに促されるまま、私は鬱蒼とした森の中を進んだ。足元の覚束ない私を、ジンは時折振り返りながら先導してくれる。彼の大きな背中は、不思議な安心感を私に与えていた。


『気をつけろ。その赤い蔓草は毒だ』

『むやみに木の実を拾うな。食えるものの方が少ない』


翻訳ペンダントを通して、ジンのぶっきらぼうな注意が頭の中に響く。言葉は理解できても、この森の知識が全くない私にとっては、彼の存在が命綱だった。どれくらい歩いただろうか。木々の密度が少しずつ薄くなり、前方に明るい光が見えてきた。


森が開けた先に広がっていたのは、想像していたよりもずっと穏やかな光景だった。いくつかの大きな木々を中心に、木材や石、蔓などで作られた素朴な家々が点在している。家々の間には畑らしき区画があり、見たことのない野菜が植えられていた。広場のような場所では、獣人の子供たちが毛玉を追いかけてじゃれ合っている。干し台には毛皮や魚が干され、燻製小屋からは香ばしい匂いが漂ってくる。


「わぁ……」


思わず感嘆の声が漏れた。まるで絵本に出てくるような、自然と調和した村。それが、この獣人たちの集落の第一印象だった。


しかし、私の姿を目にした住民たちの反応は、歓迎とは程遠いものだった。畑仕事をしていたウサギのような耳を持つ女性は鍬を持ったまま固まり、井戸端で話をしていた犬顔の男性たちは訝しげな視線を向けてくる。子供たちの無邪気な好奇の視線とは対照的に、大人たちの目には明らかな警戒心が宿っていた。


『ジン、それは……人間か?』

『なぜ人間の子などを連れてきたのだ?』


住民たちの声が、ペンダントを通して断片的に頭に流れ込んでくる。ジンは私を背後に庇うように立ち、集まってきた住民たちに低く何かを説明し始めた。彼の言葉は私には完全には理解できなかったが、森で私を拾ったこと、私が何者なのか分からないことなどを話しているようだった。


やがて、住民の中から一際大きな体躯の、年老いた熊の獣人がゆっくりと歩み出てきた。白く長い髭を蓄え、落ち着いた雰囲気を纏っている。彼が集落の長老なのだろう。


『ジン、事情は分かった。その娘をこちらへ』


長老の声は穏やかだが、有無を言わせぬ響きがあった。ジンは短く頷き、私に前へ出るよう促す。緊張しながら長老の前に立つと、彼は鋭い、しかし敵意のない目で私をじっと見つめた。


『名は?』

「ミコト、です」

『どこから来た?』

「……わかりません。気がついたら、森の中に……」


長老は私の首にかかったペンダントに目を留める。

『その首飾り……アーティファクトか。それで我々の言葉を?』

「は、はい。たぶん……」


長老はふむ、と一度頷き、ジンに向き直った。

『この娘からは悪意は感じられぬ。森で一人にしておくわけにもいくまい。ジン、お前が責任を持ってこの娘の面倒を見ろ。当面、お前の家に置くといい』

『……はぁ。仕方ねぇな』


ジンは面倒くさそうに頭を掻きながらも、長老の言葉に従った。こうして、私は一時的にではあるが、この獣人の集落で保護されることになった。ジンの家は、集落の少し外れにある、こぢんまりとした一軒家だった。


家の中は質素だが、きちんと片付けられている。壁には狩りの道具らしきものが掛けられ、部屋の中央には囲炉裏があった。ジンは毛皮の敷物を指差し、『今夜はここで寝ろ』と言い、干し肉と木の実のスープのようなものを出してくれた。味は素朴だったが、空腹だった私は夢中で食べた。


夜になり、囲炉裏の火がぱちぱちと音を立てる。言葉は通じるとはいえ、文化や習慣は全く違う。トイレはどうするのか、お風呂はあるのか、聞きたいことは山ほどあったが、疲れと緊張でうまく言葉が出てこない。ジンも口数が多い方ではなく、重い沈黙が流れた。それでも、彼は私が眠るまで、囲炉裏のそばで見守っていてくれた。


翌日から、私はジンの手伝いをしながら集落での生活を始めた。水汲み、薪割り、畑仕事の手伝い。どれも初めての経験で、都会育ちの私には重労働だったが、必死に食らいついた。集落の住民たちはまだ私を警戒しているようだったが、ジンが一緒にいるおかげか、直接的な危害を加えられることはなかった。


生活に少し慣れてきた頃、私は集落の道具に目がいくようになった。農具は石や木を組み合わせたものが多く、金属製のものは少ない。火起こしも火打石を使っているようで、時間がかかっている。特に気になったのは、井戸から水を汲み上げる仕組みだ。滑車を使っているものの、ロープは擦り切れかけており、効率が悪そうに見えた。


ある日、ジンに頼まれ、壊れた桶の修理を頼みに集落の職人の工房へ行くことになった。工房は様々な道具や素材で溢れかえっており、独特の油と金属の匂いがした。工房の主は、リスのような小柄で手先の器用そうな獣人だった。彼は「グルガ」と名乗り、ジンから事情を聞くと、私にも興味深そうな視線を向けた。


工房の隅には、ガラクタのように見えるものが積み上げられていた。錆びた歯車、割れたレンズ、用途不明の金属部品……。その中に、どこか見覚えのある、しかし明らかにこの世界の技術水準とは異なる意匠のものが混じっていることに気づく。


「あの、グルガさん。これは……?」

『ん? ああ、それは古い時代の……アーティファクトの残骸だな。たまに森で拾ったり、物々交換で手に入ったりするんだが、ほとんど壊れていて使い物にならん』


アーティファクト。翻訳ペンダント以外にも、この世界にはそう呼ばれる不思議な道具が存在するらしい。


グルガは、ちょうど修理にてこずっている様子の農具――水を撒くための簡単な手押しポンプのようなもの――を前に唸っていた。部品が摩耗して、うまく水を吸い上げられないらしい。


『こいつぁ、もう寿命かねぇ……。同じ部品を作ろうにも、なかなか上手くいかんでな』


私はその構造を覗き込んだ。基本的な仕組みは、私の世界の知識で理解できるものだ。摩耗した部品の形状を見て、ふと代替案が頭に浮かんだ。


「あの、もしかしたら……ここの部品の形を少し変えて、別の素材……例えば、硬い木材と、このなめした皮を使えば、代用できるかもしれません。摩擦を減らすために、ここに油を塗って……」


思わず口走ってしまった言葉に、グルガはきょとんとした顔をした。ジンも驚いたように私を見ている。ペンダントを通して意味は伝わっているはずだが、専門的な用語はうまく変換されていないかもしれない。私は身振り手振り、そして地面に簡単な図を描きながら、必死に説明した。


『ほう……? 人間の娘が、道具の仕組みに詳しいとはな』


グルガは半信半疑といった様子だったが、私の提案に耳を傾け、実際に試してみることにしたらしい。彼は器用に木材を削り、皮を加工していく。私はその横で、工具の使い方を教わりながら手伝った。


しばらくして、改良された部品がポンプに取り付けられた。グルガが慎重にハンドルを押すと、以前よりもスムーズに動き、勢いよく水が吸い上げられた。


『おおっ! こりゃすごい! あんた、何者だね?』


グルガは目を丸くして私を見た。ジンも、少しだけ感心したような表情を浮かべている。


「いえ、私は別に……ただ、こういう仕組みを考えるのが少し好きなだけで……」


自分の知識が、この異世界で初めて役に立った。その事実に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。元の世界に帰る方法はまだ分からないけれど、ただ怯えているだけじゃなく、私にも何かできることがあるのかもしれない。


グルガは興奮冷めやらぬ様子で、工房の奥からさらに古びた道具やアーティファクトの残骸を引っ張り出してきた。


『なあ、嬢ちゃん。こいつらも、もしかしたら直せるかもしれん! 手伝ってくれんか?』

『おいグルガ、あまりこの娘を困らせるな』


ジンは呆れたように言ったが、その声にはどこか面白がるような響きも含まれていた。


私の異世界での生活は、まだ始まったばかりだ。不安は大きいけれど、ほんの少しだけ、未来への希望の光が見えたような気がした。


(第2話 終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る