第10話 熱

 新歓公演の一日前、部室で綺羅さんと別れた後。久遠さんと私は演劇部の部室に残り、脚本の読み合わせを行っていた。


 久遠さんは既に頭に入れているという脚本について、改めて話す。


「つまり、この脚本の構造は、ロミオもジュリエットもマーキューシオも、この主人公――橘さんの内面から生まれた人物。私が三役を演じ分ければいい」

「ううん、正確には四役だよ。久遠さんには、私を演じてもらう」

「……橘さんを?」


 彼女が顔を上げて、少し驚いたように私を見る。


「そう。物語の最後で橘は気づいてるよね。彼らは誰かじゃなくて、私そのものだったんだって。だから最後のシーンでは、橘役を私から久遠さんへ切り替える」

「……入れ替えるタイミングは、私がマーキューシオを演じた後?」

「うん。橘とマーキューシオとのやり取りを終えたら、私たちは二人で一度スポットから外れる。久遠さんスポットの外で、用意していた私のもう一着の服を羽織って、橘として戻ってくる。スポットから出た瞬間に、私と久遠さんの橘役が入れ替わる。それで、観客には入れ替わりに気づかれないようにしたいの」

「それで、顔を隠すためのパーカー服という私服設定ね。……そうか。その後に、私がこれまでの三役を再び演じ分ける。ロミオたちが橘さんから生じた人物という回答を観客に与える……ということ」

「うん。それがこの脚本の仕掛けだから」

「でも、問題が一つある」

「……うん」


 私もそれには気づいている。


「私への負担が大きい」

「……うん、そうだね。一人四役だから」


 素直に頷く。でも私は、これを思いついてしまった。この尋常ではなくハードルの高く、久遠さん頼りになってしまうこの脚本を。


「無茶言う。上演は明日なんでしょう?」

「……やっぱり、難しいかな?」


 私が言うと、久遠さんはふっと立ち上がった。椅子を押しのけ、背筋をぐにゃっと曲げる。そこに立っているのは、私だった。


「が、頑張ってみる……」


 ――私の声だった。


 私の仕草、私の台詞回し、私の癖。

 目の前にいるのは間違いなく久遠さんなのに、そこに橘がいる。 


「す、すごい……!」


 私は確信していた。


 久遠さんなら、脚本を私の頭にあるイメージのまま、いやイメージ以上のものを舞台に再現してくれると。




 そして昨日のその目論見は、完全に成功した。

 私たちが舞台袖に下がっても、拍手は続いていた。


(すごい……すごいすごいすごい!)


 身体中を血が巡っている。顔が火照ってたまらなかった。

 目の前の久遠さんに、私は飛びついていた。


「すっ、すっごいよ、久遠さん! 最高だった! 私の想像なんか全部軽く超えてきた! 久遠さんは本当にすごい役者だよ! 久遠さんに演じてもらってよかった!」


 抑えていた感情が溢れ出して止まらない。


「……ちょっと、苦しいんだけれど」

「わ! ご、ごめんなさい……!」


 私が慌てて身体を離すと、久遠さんは少しだけ笑った。


「いい、別に。それに……礼を言うのは私の方。人生最後の舞台で、素晴らしい役を演じさせてもらってありがとう」

「……人生最後?」

「言ったでしょう。私の罹患している虚構症候群の完治は見込めない。もう二度と、私は舞台に立つつもりはないんだよ」

「演劇部に入って、久遠さん」


 反射的に私は言っていた。

 考えたものじゃない。胸の内から溢れ出した言葉だった。


 言った瞬間、久遠さんの表情が険しくなる。


「……しつこい」


 冷たく切り捨てるような口調だった。


「演劇部の存続なら心配いらないでしょう? 今回の公演で十分に存在感は示せた。例え部希望者がいなくたって、綺羅さんは演劇部を廃部にできないと思う」

「ち、違う久遠さん。何度も言っているけれど、私は、あなたと演劇がしたいの」


 久遠さんは俯き、何も喋らない。


「楽しかったでしょ、演劇が好きなんでしょ。じゃあ、やろうよ私と一緒に! 病気がどうなんて関係な――」

「関係ないわけ、ない!」


 久遠さんが怒鳴るように叫んだ。

 私を殺すような勢いで見つめている。


「私の病気の何を知ってるの? 虚構症候群に罹患した私は、みんなの記憶からも消えてくの。今日の舞台に立った私だって、何年後かには完全に忘れられている。そんな中で演劇をする意味なんてない!」


 吐き捨てるように言って、久遠さんは背を向けた。


「久遠さん、待って!」

「もう、話しかけないで」


 久遠さんが、舞台袖控室の扉を開けて、講堂の客席側へと出た瞬間だった。観客が久遠さんを見て、わっと再び拍手が起こった。


 舞台の上では次の部活、映画研究会が準備を始めているというのに、生徒たちの目は久遠さんを追い続けていた。先ほどの熱はまだ冷め切っていない。


(……!)


 拍手の圧を、私は肌で感じ取っていた。


 時に、拍手は口よりも雄弁だ。演劇に限ったことではないけれど、拍手の大きさは、観客の満足度に直結する。優れた作品には大きな拍手が起こり、実際に結果を残す。お世辞の拍手とは違う。これは、観客を興奮させた本物の拍手だ。


 久遠さんは戸惑うように立ち止まり、会場を見渡す。彼女は客席にほんの少し頭を下げて、それから講堂を抜けて行った。私もその後を追う。


 廊下は、さっきまでの熱気が嘘のように静まり返っていた。


「久遠さん、ごめん……」


 背を向けた彼女に対し、私は言う。


「ごめん……分かったみたいなことを言って。傷つけてるよね。でも、私それでもやっぱり、久遠さんを誘いたかった」

「……ふざけないで」


 背を向けたまま、久遠さんは言う。


「私がこの病気に罹ってから、どれだけ悩んだのか――」


 久遠さんが俯き、身体を震わせる。


「ねえ久遠さん。私、忘れられない景色があるの」

「……なんのこと?」

 久遠さんは、ゆっくりと私を振り向いた。

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