第五話:洞穴の夜と交わされる言葉

日が傾き、森が深い影に包まれ始める中、俺はバルガスを先導して自分の住処へと向かった。彼はまだ左腕の痛みが残るのか、時折顔を顰めながらも、しっかりとした足取りで俺の後についてくる。


「こっちだ。あと少し」

「ああ…それにしても、お前、よくこの森を知っているな。まるで庭みたいじゃないか」


感心したようなバルガスの声。俺にとっては文字通り庭のようなものだ。七年間、生きるために隅々まで歩き回り、危険な場所、安全な場所、水のありか、獲物の通り道、全て頭に入っている。


「まあね。生きるためには必要だから」


俺は素っ気なく答えながら、足元の木の根や、頭上の不安定な枝に注意を払う。バルガスも元騎士だけあって、周囲への警戒は怠っていないようだった。時折、鋭い視線が闇の奥に向けられる。


やがて、見慣れた岩壁が見えてきた。蔦に覆われた、目立たない洞穴の入り口だ。


「ここだ」


俺が言うと、バルガスは少し驚いたように入り口を見上げた。


「ここが…お前の住処か」


中へ入ると、すぐに焚き火の燃えさしに火を入れる。パチパチと音を立てて炎が立ち上り、洞穴の中を暖かな光で照らし出した。


バルガスは、入り口で立ち尽くしたまま、洞穴の中をゆっくりと見回していた。彼の驚きは無理もないだろう。そこは、ただの洞穴ではなかった。


奥には毛皮を敷いた寝床があり、壁際には俺が錬金術で形を整えた棚がいくつか設置され、そこには乾燥させた食料や、用途不明の鉱石、そして分類された薬草などが整理されて置かれている。壁の一部は平らにならされ、そこには木炭で描かれた無数の図形や文字、数式のようなものがびっしりと書き込まれていた。およそ子供一人が暮らすには異様な光景だ。


「…これは…全部お前が?」


バルガスが呆然と呟く。


「まあね。時間はいくらでもあったから」


俺は貯蔵しておいた木の実と干し肉を取り出し、これも錬金術で錬成した簡易な鍋でスープを作り始めた。ついでに、小川の水を浄化して飲み水も用意する。


バルガスは壁に描かれた図形…特に錬金術の概念図や化学式のようなものに興味を示したようだが、それが何なのか見当もつかない様子で首を捻っていた。


やがて、簡単な食事の準備ができた。俺たちは焚き火を囲んで向かい合い、木製の(これも自作の)器に入った温かいスープを啜る。味は保証できないが、冷えた体には染みるはずだ。


「…うまいな、これ」


バルガスが意外そうな顔で言った。


「そう? ただ煮ただけだけど」

「いや、ちゃんと塩味がする。森の中で塩なんて、どうやって…いや、まさか、これもあの力か?」


俺は小さく頷いた。岩塩の塊から、錬金術で不純物を取り除き、精製したのだ。


バルガスは感嘆とも呆れともつかない溜息をつき、しばらく黙ってスープを飲んでいたが、やがて意を決したように口を開いた。


「…アッシュ。改めて聞くが、お前のあの力は一体何なんだ? 魔法とは違うと言っていたが…」


やはり、そこが一番気になるのだろう。


「錬金術…だと思う。古い本で読んだことがあるだけだけど」

「錬金術だと!? まさか…あれは禁忌の術じゃなかったのか? 大昔に世界を滅ぼしかけたとか…」


バルガスは顔色を変えた。どうやら、この世界でも錬金術はそういう認識らしい。厄介なことになったかもしれない。


「俺も詳しくは知らない。ただ、物に触れるとその情報が分かって、少しだけ形を変えたりできるだけだ。それに、使うとすごく疲れるし、頭が割れそうに痛くなる」


呪いのことは伏せておく。力を使う代償があることだけを伝えた。


「…そうか。お前自身もよく分かっていない、と…」


バルガスは何か考え込んでいるようだったが、それ以上追及はしてこなかった。代わりに、彼は自分の身の上について少しだけ話し始めた。


「俺は、バルガス・ロウ。見ての通り獣人族…狼の血を引いている。元はとある王国の騎士団にいたんだが…まあ、色々あってな。今は追われる身のただの流れ者だ」


多くを語りはしなかったが、その目には無念さや悔しさが滲んでいるように見えた。


「追われる身…」

「ああ。だから、お前に迷惑がかかるかもしれん。それでも、俺をここに置いてくれるのか?」

「別に構わない。俺も一人でいるよりはマシかもしれないし…それに、聞きたいことがたくさんある」


俺はここぞとばかりに、外の世界について質問を始めた。


「外にはどんな国があるんだ? 街ってどんなところ? 冒険者ギルドって本当にあるのか?」

「おいおい、一気に質問するな。まあいい、順番に教えてやるよ」


バルガスは苦笑しながらも、俺の質問に丁寧に答えてくれた。


彼が語る外の世界は、俺の想像を遥かに超えていた。いくつかの王国や都市国家が存在し、人々は街を作り、法の下で暮らしていること。冒険者ギルドが存在し、魔物討伐や様々な依頼をこなして生計を立てている人々がいること。魔法使いや神殿、そして貴族といった存在。通貨の仕組みや交易について。


聞けば聞くほど、俺の知識欲は刺激された。前世の常識とは異なる文化、社会、そして魔法や魔物が当たり前に存在する世界。壁に書き留めた疑問符が、少しずつ埋まっていくような感覚があった。


「…錬金術は、やっぱり禁忌なのか?」

「ああ。少なくとも、表立って使える力じゃない。昔の大厄災の原因だと言われていてな。教団や国によっては、見つかれば即刻捕らえられるか、最悪処刑される可能性もある。…お前、その力は絶対に人前で見せるなよ」


バルガスは真剣な目で忠告してくれた。やはり、この力は慎重に扱わなければならないようだ。


話しているうちに、夜は更けていった。焚き火の炎が静かに揺らめき、洞穴の中には奇妙な共犯関係のような空気が流れていた。


追われる身の元騎士と、森で育った謎の力を持つ少年。


警戒心はまだ完全には消えていない。互いに探り合っている部分もある。だが、孤独だった者同士、僅かながらの繋がりが生まれ始めているのを感じていた。


「…そろそろ寝るか。俺はここでいい」


バルガスは壁際に寄りかかり、毛皮を被って目を閉じた。


俺も自分の寝床に入り、今日の出来事を反芻する。初めての他人との接触。錬金術の使用。外の世界の情報。そして、バルガスという存在。


これから、どうなるのだろうか。彼の傷が癒えたら、彼は去っていくのだろうか。それとも…。


答えはまだ見えない。だが、確実に何かが変わり始めている。


俺は、ほんの少しだけ、未来への期待と不安を感じながら、眠りに落ちていった。洞穴の外では、森の夜の音が静かに響いていた。

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