第23話
「え? 主? 俺が? なんで!? っていうか、観測者って何だよ!?」
俺の頭は、完全にキャパシティオーバーを起こしていた。
理解不能の事態に、パニックが徐々に広がる。
「俺、ただの見習い案内人なんだって! なんで神獣がひれ伏すんだよ!」
目の前で、絶対的な主であるはずの神獣が、得体の知れない若造(俺)にひざまずくという、信じられない光景を目の当たりにしたバルド・グライドは、その場に膝から崩れ落ちた。
杖が雪の上に転がり、彼の老いた体が震えている。
「そ、そんな……馬鹿な……」
彼の声は枯れた葉のようにかすれていた。
「エグザレイン様が……あの若造ごときに……膝を……?」
彼は茫然自失となり、打ちひしがれていた。
冷たい雪の上で、体育座りのような姿勢になり、虚空を見つめている。
……かに思えたが、次の瞬間、その目に「カッ!」と狂信的な光が宿る。
「…………はっ!」
バルドが突然立ち上がった。
その動きは老人とは思えないほど素早く、顔には奇妙な悟りの表情が浮かんでいる。
「そ、そうか! そうだったのか!」
彼は自分に言い聞かせるように何度も頷いている。
「これは試練! エグザレイン様は、この私があの若造に対して、真の敬意を払えるか、その度量を試しておられたのだ!」
バルドの顔に、狂気じみた安堵の表情が浮かぶ。
「なんと深き御心! さすがは我が神獣エグザレイン様!」
バルドは、目の前の現実を受け入れられず、自分に都合の良い、超絶的な勘違い解釈を見つけ出し、勝手に納得し始めた。
そして、俺を見る目が、憎悪と敵意から、畏敬と混乱、そして狂信的な何かが入り混じった、非常に複雑なものへと変わり始めた。
「や、やめてくれ、その目!」
俺は思わず声を上げた。
バルドの異様な視線は、まるで俺の皮膚を貫いて魂を覗き込もうとするかのようだ。
「ああ……! ハル様!」
リルナの声が、高く澄んだ音色で響いた。
彼女は両手を胸の前で組み、恍惚とした表情で、祈るように俺を見つめている。
その碧い瞳には涙が光り、金髪が吹雪の中で輝いていた。
「ついに伝説の神獣までもが、貴方様の御前にひれ伏したのですね! なんという偉業! なんという神々しさ!」
彼女の俺への信仰心は、もはやカンスト状態だ。
その表情は、聖母像のように清らかで、しかし熱に浮かされたような狂気も感じられた。
「う、嘘でしょ……?」
ラナは自身の常識がガラガラと崩壊していくのを止められず、顔面蒼白になって激しく動揺している。
彼女の剣を持つ手が、微かに震えている。
「あの古の神獣が……ひざまずくなんて……」
彼女の俺への認識が、ここで決定的に揺らぎ始めたようだった。
「やはり! 古代文献は正しかった!」
ピノが興奮して叫んだ。
その小さな体が、空中を舞うように動き回り、青い粉を撒き散らしている。
「『観測者』と『案内人』、そして神獣……! 世界の根幹に関わる、失われた秘密が、今ここに!」
ソフィアも眼鏡を直しながら、興奮気味に声を上げた。
「ハル殿! 貴方は一体何者なのですか!? どうしてご自身が『観測者』であることを隠していたのです!?」
ピノとソフィアは、研究者としての興奮を隠せない様子で、俺に詰め寄ってくる。
ピノは飛び跳ねるように宙を舞い、ソフィアはメモを取る手が震えている。
その勢いは凄まじい。
「いや、だから俺に聞かれても知らんって!」
俺は両手をバタバタと振りながら否定した。
「俺も今知ったんだよ! 観測者って何だよ! 誰か教えてくれよ!」
俺がそう叫んだ、その時だった。
俺たちがいる神殿の、奥の壁に描かれていた古い壁画が、淡い光を放ち始めたのだ。
氷と雪で半ば覆われていたその壁画には、古代の英雄らしき人物が、神獣エグザレインと共に描かれていた。
その英雄は長いローブを着て、杖を持ち、神々しい後光に包まれている。
光の中で、その英雄の顔の部分が、徐々に、徐々に、変化していく……!
ひび割れるように古い絵の具が崩れ落ち、その下から新しい顔が現れる。
まるで千年前から準備されていたかのような精密さで、新たな顔が姿を現す。
そして最終的に、その顔は――。
俺そっくりの、気の抜けた、間抜けな表情に、完全に変わってしまった!
「なっ……!?」
ピノの声が裏返った。
「れ、歴史が……! 目の前で書き換わっただとぉぉぉ!?」
「彼の『観測』が……」
ソフィアが絶句しかけた。
「過去の記録にまで影響を及ぼしているというの……!? そんなことが……!」
ピノとソフィアは、信じられない現象を目の当たりにして、絶叫する。
俺はもう、何も言う気力もない。
ただその場に立ち尽くし、人差し指で自分の頬をつねり、現実かどうか確かめるだけ。
(これ、夢じゃないのか……? 俺の夢オチだったらいいのに……)
ピロン♪
頭の中に聞き覚えのある音が鳴り、文字が浮かぶ。
【称号:【理(ことわり)の起源】を獲得しました】
(……はいはい、もう勝手にしてくれ……)
俺が遠い目をしていると、ひざまずいたままのエグザレインが、おもむろに口を開いた。
その巨大な口からは清廉な香りがして、意外と不快感はない。
そして、神獣の口の中から、不思議な輝きを放つ、コンパスのような魔道具を取り出した。
それは古びた銀の装飾と、青く光る水晶でできており、なんとも神秘的なオーラを放っている。
神獣はそれを、恭しく俺に差し出してくる。
巨大な舌の上にコンパスが置かれ、俺の方へと差し出された。
『主よ、これは世界の「理(ことわり)」の揺らぎ、その中心を示す、古(いにしえ)のコンパスにございます。』
エグザレインの声には深い敬意が込められていた。
『貴方様の「観測」の、ささやかながら助けとなるでしょう』
(理の揺らぎを示すコンパス……?)
よく分からないが、何か重要そうなアイテムっぽいので、とりあえず受け取っておく。
手を伸ばすと、コンパスが軽く浮かび上がり、俺の手の上に静かに降り立った。
触れた瞬間、軽い電流のようなものが体内を駆け巡る感覚がある。
コンパスを観察すると、針は常にグルグルと回っているが、よく見ると、常に俺自身の方向を指し示しているように見えた。
(……いらない機能だな、それ。自分を指すコンパスって何の役に立つんだよ……)
神獣鎮圧(?)という名の、勘違いと超常現象のオンパレードは終わり、俺たちは王都への帰路についた。
◇
飛行艇の中では、不思議と全員が静かだった。
窓の外には、夕日に照らされた雲海が広がり、美しいオレンジ色の景色を作り出している。
リルナは敬虔な表情で俺の横に座り、ピノとソフィアは受け取ったコンパスの分析に夢中になっていた。
ラナは窓の外を黙って見つめ、バルドは飛行艇の隅で瞑想しているようだ。
俺は疲労感と混乱で頭がぼんやりとしながらも、ふと、あることを思いついた。
(もしかして……俺が「何も起こるな」って強く願えば、逆に、本当に何も起こらないんじゃないか?)
おかしなことが起きる時って、大体俺が無意識か、あるいは軽い気持ちで何かをした時だ。
くしゃみをしたり、あくびをしたり、寝返りをうったり。
意識していない時に限って、とんでもないことが起こる。
だったら、意図的に、強く、逆のことを願えば、打ち消せるんじゃ……?
藁にもすがる思いで、俺はこっそり、飛行艇の窓の外を眺めながら、心の中で強く、真剣に祈ってみた。
(今日は! 今日だけは! 王都に着くまで、絶対に! 何も! 奇妙なことも! 面倒なことも! 起こりませんように! 頼む! マジで頼むから!)
俺は目を閉じ、全身全霊を込めて願った。平和な飛行だけを願いながら。
すると、どうだろう。
王都に到着するまでの数時間、本当に、嘘のように、何も起こらなかったのだ。
魔物の襲撃も、天変地異も、新たな勘違いも、称号の獲得も、何もかも。
あまりにも平和で、静かな空の旅だった。
(あれ……? もしかして、本当に効いた……?)
少し前までは絶望的な状況に目を背けていた俺だが、今は少し希望が見えてきた気がする。
(いや、まさかな。たまたまだろ、たまたま……)
俺は半信半疑だったが、ピノは逆に、「……静かすぎる……。静かすぎて、逆に不気味だ……。嵐の前の静けさ、でなければ良いのだが……」と、一人で警戒レベルを引き上げていた。
小さな体が緊張で硬直し、常に周囲を警戒している。
心配しすぎだって。
◇
王都に帰還すると、俺たちを待っていたのは、さらなる騒動だった。
「神ハル、古の神獣を使役す!」
そのニュースは、瞬く間に世界中に、それこそ飛行艇よりも速く広まっていたらしい。
王都の街は、俺の帰還を祝うかのように、多くの人で溢れかえっていた。
街路には花が撒かれ、旗が飾られ、至る所で俺の(似ても似つかない)肖像画が掲げられている。人々は俺を一目見ようと殺到し、その熱狂ぶりは、かつての王国では見られなかったほどだという。
各国は、俺の存在を、単なる「英雄」や「奇跡の人」ではなく、「世界の命運そのものを左右する、人知を超えた存在」として、明確に認識し始めた。
水面下では、俺(という名の規格外の力)を巡る、熾烈な争奪戦が激化し始めているようだった。
「……俺、もうマジで疲れた……」
迎賓館の自室に戻った俺は、ベッドに大の字で横たわった。
そばにはリルナもいる。
天井を見つめながら、今日起きた出来事を思い返す。
神獣に膝をつかれ、観測者と呼ばれ、コンパスなるものを受け取り……。
「俺がこの世界に来てから、日常なんて一日もなかったな……」
ため息をつきながらそう呟いた時、部屋の窓から何かが飛び込んできた。
それはピノだった。
「ハル! 大変だ! 今日の出来事を受けて、各国が動き始めた! 西の大帝国は栄誉大使を派遣すると言い、東の連邦は貿易特権を提案し、南の島嶼連合は聖地への巡礼を要請している! さらにバルドのやつ、『神の真意を探究する会』とかいう組織を結成して、信者を集め始めたぞ!」
ピノは息も絶え絶えに報告した。
その表情には、混乱と焦りが混じっている。
俺は顔を覆った。
なんか、面倒くさいストーカーが増えただけのような気がする……。
「ハル様、ご心配なく!」
リルナが前に出て、胸に手を当てた。
「このリルナが、どのような脅威からも、ハル様をお守りいたします!」
彼女の顔には決意の色が浮かんでいたが、同時に、少しだけ疲れた表情も見える。
いつも一人で頑張っているリルナの姿に、胸が痛んだ。
(そういえば、リルナはいつも俺のために……)
ふと、彼女に対する感謝の気持ちが湧き上がる。
「ありがとう、リルナ」
俺は素直に言った。
「いつも俺のこと、心配してくれて。助かってるよ」
リルナの顔が、夕日よりも赤く染まった。彼女は言葉に詰まり、口をパクパクさせている。
「は、はい……!」
ようやく返事ができたリルナだったが、次の瞬間、彼女は顔を両手で覆ってしまった。
恥ずかしそうにしている姿が、なんだか愛らしい。
俺は窓の外を見た。
夕陽に染まる王都の景色が広がっている。
どこまでも続く建物の屋根、そして遠くに見える山々。
俺の平穏な日常は、一体どこへ行ってしまったのだろうか。
でも、不思議なことに、今はそれほど悪い気分でもない。
この混沌とした世界と、リルナをはじめとする仲間たちが、少しずつ俺の居場所になりつつあるのかもしれない。
そう思いながら、俺は懐からコンパスを取り出し、眺めた。
針は相変わらず俺を指したまま、グルグルと回っている。
「まあ、どうにかなるさ……たぶん」
夕日を浴びながら、そう呟いた俺の言葉は、自分自身を励ますためのものだったのかもしれない。
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