第3話 「赤い夜、青い水」

乾いた空気が、森に満ちていた。

蝉の声もぴたりと止み、空気はじっとりと重い。


ケイは、山の池を見上げた。

水車を作るふりをして、ひたすら水を溜め続けた場所だ。

堰板に指をかけ、ぐっと押してみる。まだだ。

水は、いざというときのために眠っている。


 


広場では、子供たちが笑いながら踊っていた。

素早い足さばきで、ぐるりぐるりと駆け回る。

「回って!ステップ!はい、もう一回!」

ケイの掛け声に、歓声が応える。


踊りの輪のすぐ外には、土を盛っただけの、目立たない穴がある。

誰も気に留めない。

ただ、ケイだけが、汗をぬぐいながら見守った。





その夜、アッシュ村を包む木々が、ぎしぎしと軋む音を立てる。

空には雲ひとつなく、満月が照りつけている──はずなのに。

月は、にじむように赤かった。


 


ケイは、夜空を見上げたまま、ぎゅっと拳を握りしめた。


(来る……予知夢と同じ……!)


胸の奥で、心臓が高鳴る。

寒気にも似た震えが、背中を這った。


そして、体は迷うことなく動き出していた。


 


何度も心で繰り返してきた。

馬鹿にされても、笑われても、備えてきた。

──今日この日のために。


 


* * *


 


最初に異変に気づいたのは、子どもたちだった。


広場の片隅、寝静まった村に忍び寄る焦げた臭い。

鼻をつく刺激に、子どもたちは顔をしかめる。


「……なんか、くさい」

「火だー!!」


誰かが叫んだ瞬間、裏手の家から、黒煙が立ち上る。


それは、乾ききった木造の家々に瞬く間に広がった。


 


叫び声。

泣き声。

夢中で逃げ出す村人たちの足音。


闇の中で、火だけが燃え広がり、村全体を包もうとしていた。


 


だが──


子供たちは、体が勝手に動くように、素早く走り出す。

地面を蹴り、飛ぶように火の粉を避ける。

逃げ遅れそうな老人に駆け寄り、小さい手で必死に支える。


──ステップ、回避、反射的な動き。

それはダンス遊びの中で、いつしか体に刻まれていた。


 


煙に巻かれた広場に、ケイは駆け寄る。

土の盛り上がった場所を、迷わず手で掘り崩した。


「こっちだ!ここにもぐれ!」


小さな子たちが、もぐるように穴へ逃げ込んだ。

中は涼しく、煙も届かない。

次々と人々が滑り込む。


だが、火の勢いは衰えない。

木々が爆ぜ、屋根が音を立てて崩れた。


──足りない。

このままでは、全部、燃えてしまう。

火は止まらない。


建物が爆ぜる音。

赤黒い炎が、夜空を這う。

あっという間に、村の三分の一が呑み込まれた。


(間に合え──!)


ケイは、裏山へ駆けた。


燃え盛る光に照らされ、己の影が伸びる。

風に吹かれ、火の粉が肌を焼いた。


それでも、足は止まらない。


 


たどり着いた先。

そこは、裏山の小さな池であった。


夜空を映す黒い水面。

ただの飾りのように、ひっそりと息づいている。


「頼むぞ……!」


 


ケイは、堰に両手をかけた。


乾いた手のひらが、木の板に押し当てられる。

ぐっ、と体重をかけ──


バキィッ!


堰が割れ、水が一気に溢れ出した。


 


轟音が山肌を駆け下りる。


水路を走る音。

木々をなぎ倒し、火元へと突進する。


 


赤い夜を、青い水が裂いた。


ぱちぱちと燃える音が、水に叩かれて掻き消える。

火が、苦しむように縮む。

村を呑み込もうとした炎が、次第に力を失っていく。


 


ケイは、静かにそれを見届けた。


ずぶ濡れになった服。

破けた袖口から、火傷の痕が覗く。



 


* * *


 


「助かった……」「奇跡だ……!」


村人たちは、崩れ落ちるように座り込み、震えながら助かった喜びを口にする。


その中心で、ケイはただ、夜空を見上げていた。


燃え残った家々。

失われたものたち。


──それでも、全員生きている。


それだけで十分だ。




火傷の痕をそっと押さえながら、ケイは小さく呟いた。


「備えあれば、──救える!」


誰にも届かないような声で。


けれど、その言葉は、消えかけた夜の静寂に、確かに刻まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る