第3話 玲奈の野心の旋律
夕暮れの音楽室は、まるで別世界だった。
日ノ出高校の古びた校舎の中で、この部屋だけは時間がゆっくり流れるよう。窓から差し込む茜色の光が、木製の床に柔らかな影を落とし、開け放たれた窓から吹き込む春風がカーテンを軽やかに揺らす。
部屋の中央に佇むグランドピアノから、力強くも繊細な音色が響き始めた。ラフマニノフの『前奏曲 嬰ハ短調 作品3-2』――重厚な和音と情熱的な旋律が、まるで嵐の前の静けさを予感させる。
ピアノを弾くのは、棗椰京理(ナツメヤ・キョウリ)。高校2年生、漫研所属の「陰キャ」少年。普段は前髪で顔を隠し、気弱な笑顔でアニメの話を語る彼だが、今は別人だ。
髪はオールバックに整えられ、シャツの袖をまくった姿は、まるで舞台の上のピアニスト。鍵盤に触れる指は迷いなく、瞳はどこか遠くを見つめている。
カーテンが音に合わせて揺れ、夕陽が彼の横顔を劇的に照らす。その光景は、まるで一編の詩――いや、音楽そのものだ。
だが、この音楽室には、もう一人の影があった。
ドアの外、廊下の暗がりに立つ少女。氷室玲奈(ひむろ・れな)、3年生で生徒会副会長。彼女の冷ややかな瞳は、京理の演奏をじっと見つめ、唇にはかすかな笑みが浮かんでいる。
「この音色…ただの素人じゃないわね」
玲奈の心は、野心と好奇心、そしてほのかな懐かしさに揺れていた。彼女の手には、かつてのコンクールのプログラム冊子が握られていた。
玲奈のピアノとの出会いは、5歳のときだった。
裕福な家庭に生まれ、音楽を愛する母のもとで、彼女は早くからピアノを習い始めた。最初はただの遊びだった。鍵盤を叩くたびに、母が笑顔で褒めてくれた。それが玲奈の喜びだった。
だが、10歳で初めてコンクールに出場したとき、彼女の世界は変わった。厳しい審査員、緊張で震える指、そして舞台の上で味わった初めての「敗北」。2位の賞状を手に、母は「次は1位よ」と微笑んだが、玲奈の心には小さな傷が刻まれた。
中学時代、玲奈はピアノを「競争」としてしか見られなくなった。全国コンクールでの入賞、音楽教室でのトップの座――彼女は完璧を求め、完璧であることを自分に課した。
だが、高校1年生のとき、最大の挫折が訪れる。全国コンクールの最終選考で、彼女はミスを連発し、予選落ち。舞台から降りた瞬間、観客の囁きが耳に刺さった。
「あの氷室さん、こんなもんだったの?」
母の沈黙、ライバルの冷笑。玲奈はピアノを辞めた。鍵盤に触れるたび、敗北の記憶が蘇るからだ。
それ以来、玲奈は「完璧な自分」を演じてきた。生徒会副会長としての冷静な振る舞い、成績優秀な優等生の仮面。
だが、心のどこかで、彼女は音楽を恋しく思っていた。あの純粋な喜びを、鍵盤に触れるだけで感じられた日々を。
京理の演奏を初めて耳にしたのは、そんな彼女の心が揺れていたときだった。
玲奈が京理のピアノを耳にしたのは、偶然だった。放課後、生徒会の書類を整理するため校内を歩いていた彼女は、2年B組の教室から漏れる音色に足を止めた。
ショパンの『ノクターン』。その繊細さと情熱のバランスに、彼女は息を呑んだ。
「誰…? 音楽部にこんな才能、いたかしら?」
ドアの隙間から覗くと、そこには見知らぬ少年がいた。オールバックの髪、自信に満ちた指先。彼女の知る「漫研のオタク」とは別人のようだった。
その日から、玲奈は京理を観察し始めた。漫研の部室でアニメの話を熱弁する気弱な少年と、夕暮れの教室でピアノを弾く自信満々のピアニスト。
二つの顔を持つ京理に、彼女は強い興味を抱いた。
「この才能…私が磨けば、もっと輝くわ」
玲奈の心に、野心が再燃した。かつての自分を捨てたピアノの世界に、京理を通じて再び踏み入れるチャンスだと感じたのだ。
だが、それだけではなかった。京理の演奏には、玲奈が失った「純粋さ」があった。競争や評価を気にせず、ただ音楽を愛する心。それが、彼女の心を揺さぶった。
「彼を私のものにしたい」――野心は、いつしか個人的な想いに変わりつつあった。玲奈は決意した。京理に近づき、彼の音楽を、そしていつか彼の心を手に入れる、と。
ある放課後、玲奈は音楽室に京理を呼び出した。
「棗椰京理くん、よね? 生徒会でちょっと話があるの」
彼女の声は冷静だが、瞳には獲物を狙うような鋭さが宿る。
「え、俺、なんかやっちゃいました!?」
と慌てながら、しぶしぶ音楽室へ。玲奈は微笑み、ピアノの前に立つ。
「実は、君のピアノを聞いたの。2年B組の教室で、ショパンを弾いてたでしょう?」
京理の顔が真っ赤になる。
「う、うそ!? 聞いてたんですか!? あ、あれはただの…趣味で…!」
彼の動揺に、玲奈はくすりと笑う。
「趣味であのレベルは、ただ者じゃないわ。ねえ、連弾してみない? 私も、昔はピアノを弾いてたの」
彼女の提案に、京理は目を丸くする。
「先輩が…ピアノ? めっちゃ意外っす…!」
二人はピアノの前に並んで座る。玲奈が選んだのは、フォーレの『ドリー組曲』。優雅で親密な旋律が、音楽室に響く。
京理の指は最初こそ緊張していたが、玲奈のリードに合わせ、徐々に自由になる。窓から差し込む夕陽が二人を照らし、カーテンが音に合わせて揺れる。
玲奈は内心で驚いていた。京理の演奏は、彼女の予想を超えて自然で、まるで彼女の音と会話しているようだった。
「君、ほんとに素人? 信じられないわ」
演奏が終わると、玲奈は感嘆の声を漏らす。京理は照れ笑い。
「いや、ただアニソンを弾きたかっただけなんで…」
その言葉に、玲奈は目を細める。
「アニソン、ね。じゃあ、これ、知ってる?」
彼女は突然、『リリカル☆スターライト』の主題歌のイントロを弾き始めた。京理の顔がパッと輝く。
「うわ! 先輩、それ知ってるんですか!?」
二人は笑い合い、即興でアニソンのメドレーを弾き始める。
連弾の後、玲奈は京理に提案した。
「文化祭で、ピアノの伴奏をやってみない? 生徒会の出し物で、音楽が必要なの。君なら、きっと素晴らしいステージになるわ」
「え、俺、人前とか無理っすよ…!」と尻込みするが、玲奈の真剣な瞳に押される。
「君の音楽は、もっと多くの人に届くべきよ。考えてみて」 彼女の言葉に、京理は少し考え込む。
その夜、玲奈は自室でピアノの楽譜を眺めていた。京理との連弾の感触が、指先にまだ残っている。彼女は気づいていた。
京理の音楽は、彼女がかつて失った「喜び」を呼び起こす。だが、同時に、別の感情も芽生えていた。
「彼を私のものにしたい」――それは、野心を超えた、もっと個人的な想いだった。
しかし、玲奈の心に小さな不安がよぎる。京理のピアノを聞いていたのは、彼女だけではない。
廊下で見たあの2年生の少女――藤堂咲良の鋭い視線。そして、元気いっぱいにピアノを褒めていた1年生、星野陽葵。「ライバル、ね…」 玲奈は鏡に映る自分に微笑む。
「負けるつもりはないわ」
翌日の放課後、玲奈は再び音楽室に京理を呼び出した。
「もう一度、連弾しよう。君の音、もっと聞きたいの」
「先輩、めっちゃ音楽好きなんすね!」
と笑いながら応じる。二人は今度はラヴェルの『マ・メール・ロワ』を弾く。複雑なリズムと色彩豊かな音色が、音楽室を幻想的な空間に変える。カーテンが揺れ、夕陽が二人の影を長く伸ばす。
演奏中、京理がふと口を開いた。
「先輩、昔、ピアノやめて後悔したこと、あります?」
玲奈の手が一瞬止まる。
「…どうしてそんなこと?」
京理は照れて笑う。
「いや、俺もピアノ隠してた時期あって…でも、弾くとやっぱ楽しいなって。だから、先輩も楽しそうで、なんか嬉しいっす」
その無垢な言葉に、玲奈の心が揺れる。彼女の仮面に、初めて亀裂が入った。
演奏が終わると、玲奈は静かに言った。
「君の音は…人を変える力があるわ。ありがとう、京理くん」
「え、急に!? いや、俺、ただ弾いただけっすよ!」
と慌てるが、玲奈は微笑むだけ。その瞬間、廊下から小さな物音が。玲奈が振り返ると、ドアの隙間に咲良の影が見えた。
「ふん、盗み聞き? 面白いわね」
玲奈の瞳に、闘志が宿る。
その夜、玲奈はピアノの前に座り、久しぶりに鍵盤に触れた。京理の音色が、彼女の心に火をつけたのだ。
「もう一度、音楽を…君と一緒に」
彼女は呟き、静かにショパンを弾き始める。だが、頭の中には京理の笑顔が浮かんで離れない。
「これは…ただの野心じゃないわね」
玲奈は自分の心に気づき、頬を染める。
一方、京理は自宅で漫研の漫画を読みながら、玲奈の言葉を思い返していた。
「人前に出るの、怖いけど…先輩の連弾、楽しかったな」
彼は無自覚に微笑む。その背後で、咲良と陽葵の視線が、彼を巡る戦いの火花を散らしていた。
京理のピアノは、玲奈の心に新たな旋律を刻んだ。だが、その音色が引き寄せる嵐は、まだ始まったばかりだった。
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