第3話 由佳
九月の太陽は、まだ夏の残り火のような強さを持っていたけれど、朝晩の空気には、たしかに秋の気配が混じり始めていた。高く澄んだ空、風に乗って運ばれてくる金木犀の甘い香り。季節は確実に移り変わっているというのに、宮下香澄の心の中は、厚い灰色の雲に覆われたまま、停滞しているようだった。
二学期が始まって数週間が経った。美咲や陽菜との関係は、あの日以来、修復されるどころか、ますますぎこちないものになっていた。挨拶は交わすものの、そこには以前のような親しさはなく、透明な壁が一枚、確実にはさまっているのを感じる。クラスの他の生徒たちも、香澄に対してどこか距離を置いているようだった。夏休み前のあの出来事が、どれだけ広まっているのかはわからない。けれど、教室にいる間、香澄は常に誰かの視線やひそひそ話に晒されているような、針の筵に座っているような心地で過ごしていた。
孤独感は、日増しに深まっていた。その埋め合わせを求めるかのように、香澄の秘密の行為への渇望は、以前よりも強くなっていた。登下校の途中、人気のない道を選んでは、足元の小さな命や、無機質なものにローファーの底を重ねる。道端に落ちている乾いた蝉の抜け殻を踏めば、パリパリと軽い音がして砕け散る。熟しきって地面に落ちた、柔らかい木の実を踏めば、ぐちゅりとした湿った感触が靴底に広がる。
その瞬間、ほんのわずかな間だけ、心がざわめき、奇妙な満足感が得られる。けれど、それは刹那的なもので、すぐに虚しさと、自分自身への嫌悪感が津波のように押し寄せてくるのだった。こんなことを繰り返していても、何も解決しない。むしろ、自分がどんどん醜く、歪んでいくだけだ。わかっているのに、やめられない。ローファーの硬いゴム底が何かを捉え、押し潰す感触が、もはや習慣のように、香澄の日常に組み込まれてしまっていた。
そんな日々の中、週に一度の美術の授業は、香澄にとって少しだけ息のつける時間だった。広い美術室、イーゼルの並ぶ空間、絵の具や油の独特の匂い。ここでは、他の授業ほど周囲の視線を気にする必要がない。皆、自分の作品に没頭しているからだ。香澄自身も、絵を描くことは嫌いではなかった。上手くはないけれど、白い画用紙に向かい、黙々と手を動かしていると、少しだけ心が落ち着くような気がした。
今日の課題は「静物デッサン」。机の上に組まれたモチーフは、古びたブリキのジョウロ、数個のリンゴ、そして、ガラス瓶に無造作に挿された数本の枯れたヒマワリだった。夏の名残を感じさせる、どこか物悲しい組み合わせだ。香澄は、イーゼルに画用紙をセットし、鉛筆を握る。まずは全体の構図から。教師の説明が聞こえてくるが、香澄の意識は半分ほどしかそちらに向いていない。
ふと、香澄は数メートル離れた場所で制作している高槻由佳に目を向けた。彼女は、他の生徒たちとは少し違う角度からモチーフを捉え、すでに木炭で力強い線を描き始めている。長い黒髪が、うつむいた拍子にさらりと肩から滑り落ちる。その姿は、まるで周りの世界から切り離されたように、静謐な空気を纏っていた。
香澄は、自分のデッサンから目を離し、由佳の手元を盗み見た。彼女が特に焦点を当てて描いているのは、枯れたヒマワリのようだった。黒く変色し、萎びて垂れ下がった大きな花頭。乾燥して硬くなった茎。力なく折れ曲がった葉。由佳の木炭は、その朽ちていくものの質感、終焉の中にある種の形態美を、執拗なまでに克明に捉えようとしているように見えた。それは、香澄が以前見た、彼女の枯れた紫陽花の絵とも通じる、独特の感性だった。
美しい、と思う。けれど同時に、少しだけ、ぞくりとするような感覚も覚える。壊れたもの、朽ちたもの、死にゆくものへの、冷徹なまでの眼差し。それは、香澄が足元で密かに行っている行為と、どこか根底で繋がっているような気がしてならなかった。自分の中にある、暗く、破壊的な衝動。それを、由佳は芸術という形で昇華させているのだろうか。だとしたら、自分は…。
そこまで考えて、香澄は慌てて自分の画用紙に視線を戻した。いけない、また余計なことを考えてしまった。由佳は由佳、自分は自分だ。彼女のような才能も、美しさも、自分にはない。ただ、人には言えない歪んだ衝動を抱えているだけだ。
授業が中盤に差し掛かった頃、事件は起きた。モチーフの配置を変えるために、教師が数人の生徒に指示を出していた。香澄も、自分の席の近くにあった水の入ったバケツを動かそうとした、その時だった。バランスを崩し、手が滑った。
ガシャン!
バケツが床に落ち、中の水が派手に飛び散った。そして、その水の一部が、隣のイーゼルにかかっていた由佳の画用紙に、無情にも降りかかったのだ。
「あっ…!」
香澄は息を呑んだ。由佳のデッサンは、すでにかなり描き込まれていた。木炭で描かれた力強い線が、水しぶきを浴びて滲み、黒い染みを作ってしまっている。
「ご、ごめんなさいっ!」
香澄は顔面蒼白になりながら、由佳に駆け寄った。どうしよう、取り返しのつかないことをしてしまった。由佳は、クラスの中でも特に自分の作品にこだわりを持っているように見えた。きっと、すごく怒られるに違いない。
しかし、由佳の反応は、香澄の予想とは少し違っていた。彼女は、濡れて滲んでしまった自分のデッサンを、ただ静かに見つめていた。怒りや苛立ちといった感情は、その表情からは読み取れない。むしろ、どこか興味深そうに、水によって偶然生まれた滲みや掠れを観察しているかのようだった。
「…高槻さん、本当にごめんなさい! 私の不注意で…」
香澄が震える声で謝罪を繰り返すと、由佳はようやく視線を上げ、香澄を見た。その切れ長の、少し色素の薄い瞳は、相変わらず何の感情も映していないように見える。
「…別に」
由佳は、短く、静かにそう言った。
「…これも、何かの表現になるかもしれない」
そう言って、彼女は再び自分のデッサンに視線を落とした。その横顔は、やはり何を考えているのか、香澄には全くわからなかった。
教師が駆けつけ、床にこぼれた水の処理や、由佳のデッサンの処遇について指示が出された。幸い、滲みは一部分だったため、描き直しではなく、修正で対応できるだろうということになった。香澄は、ただただ縮こまって、謝り続けるしかなかった。
授業が終わり、片付けの時間になった。香澄は、罪滅ぼしのつもりで、率先して床を拭いたり、道具を片付けたりしていた。そんな時、教師から呼び止められた。
「宮下さん、ちょっと悪いんだけど、この棚の上の古い石膏像、準備室に運ぶの手伝ってくれる? 高槻さんも、一緒に頼むよ」
教師が指差したのは、美術室の隅にある棚の上に置かれた、少し埃をかぶった石膏の胸像だった。一人で運ぶには少し重そうだ。
「は、はい」
香澄は頷いた。由佳も、無言で頷き、二人は棚の前に向かった。石膏像は、思ったよりも重く、そして脆そうだった。二人で慎重に持ち上げ、ゆっくりと美術室の隣にある準備室へと運ぶ。
美術準備室は、薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。壁一面には棚が作り付けられ、様々な画材や資料、過去の生徒の作品などが雑然と、しかしどこか秩序を持って収められている。絵の具やテレピン油、古い紙の匂いが混じり合った、独特の匂いがした。窓は小さく、外からの光はあまり入ってこない。裸電球の頼りない光が、部屋全体をぼんやりと照らしていた。
指定された場所に石膏像を置くと、ほっと息をついた。これで、用事は終わりのはずだ。早くここから立ち去りたい。由佳と二人きりでいるのは、息が詰まりそうだった。
「…ありがとう」
香澄が小さな声でお礼を言うと、由佳は何も答えず、部屋の中を見回していた。そして、ふと、棚に置かれていた一つの箱に目を留めた。それは、昆虫標本の箱のようだった。蓋が少し開いており、中には色とりどりの蝶や甲虫が、ピンで留められているのが見えた。
由佳は、その箱に近づき、そっと手に取った。そして、蓋を開け、中の標本を静かに眺め始めた。その横顔は、真剣で、どこか恍惚としているようにも見えた。
香澄は、どうしていいかわからず、その場に立ち尽くしていた。早く部屋を出たいのに、なぜか足が動かない。由佳の纏う空気に、引き止められているような気がした。
しばらくして、由佳は標本箱から視線を上げ、不意に香澄の方を見た。その目が、香澄の足元、ローファーに向けられていることに気づき、香澄はどきりとした。何か、汚れでもついていただろうか。今日の放課後、何か踏んだ跡が残っていただろうか。
「…その靴」
由佳が、静かな声で言った。
「底、平らだよね」
「え…?」
香澄は、戸惑いながら自分のローファーを見下ろした。たしかに、学校指定のローファーは、底が比較的フラットなデザインだ。
「う、うん…そうだけど…」
「…踏んだ時、どんな感じ?」
由佳の言葉は、あまりにも唐突で、そして核心を突きすぎていた。香澄は、息が止まるかと思った。顔から血の気が引いていくのがわかる。まさか、見られていた? いつ? どこで?
「な、何のこと…?」
声が震える。必死に平静を装おうとするが、動揺は隠しきれない。
由佳は、香澄の反応をじっと観察するように見ていた。そして、ふっと、ほんのかすかに、口元に笑みを浮かべたように見えた。それは、嘲笑とは違う、何か別の種類の、例えば、秘密を共有する者同士が見せるような、そんな微かな笑み。
「…別に、責めてるわけじゃない」
由佳は、視線を標本箱に戻しながら言った。
「ただ、想像してみただけ。その靴底で、例えば…そう、この蝶を踏んだら、どうなるかなって」
彼女は、標本箱の中から、鮮やかな青い翅を持つ、大きなモルフォ蝶の標本を指差した。その翅は、光を受けてきらきらと輝いている。けれど、それはもう、命のない、脆い抜け殻だ。
「パリパリって、壊れるのかな。それとも、意外と弾力があったりして。粉々になった翅の色は、元の色と同じなのかな」
由佳の言葉は、淡々としていて、感情がこもっていない。それがかえって、香澄の心をざわつかせた。彼女は、本気で言っているのだろうか。それとも、ただの比喩? 香澄を試しているのだろうか?
「…どうして、そんなこと…」
香澄は、かろうじて言葉を絞り出した。
「さあね」
由佳は肩をすくめるような仕草をした。
「…でも、あなたも、考えたことない?」
彼女は再び香澄を見た。その目は、全てを見透かすように、香澄の心の奥底を覗き込んでいるかのようだ。
「壊れたものの方が、なんだか惹かれる、って。完成された美しいものよりも、欠けていたり、崩れかけていたりするものの方が、目が離せなくなる。…そういうこと、ない?」
香澄は、言葉を失った。由佳の言葉は、まさに、自分が心の奥底で感じていながらも、決して言葉にできなかった感覚そのものだったからだ。道端の花を踏み潰す時。虫の硬い殻が砕ける音を聞く時。そこには、たしかに、倒錯した美しさへの、歪んだ感嘆のようなものが存在した。それを、この人は、いとも簡単に言葉にする。
恐怖と、同時に、抗いがたい共感が、香澄の胸の中で渦巻いた。この人は、自分のことを理解してくれるのかもしれない。いや、理解しているのかもしれない。この、誰にも言えなかった、醜い秘密を。
「…私は、別に、あなたがおかしいとは思わない」
由佳は、標本箱の蓋を静かに閉じた。
「みんなと同じじゃなきゃいけない、なんて決まりはないでしょ。人には、それぞれ、違う感覚がある。それを、無理に押し殺す必要はないんじゃない?」
その言葉は、まるで優しい慰めのようにも、あるいは、危険な誘惑のようにも聞こえた。香澄は、混乱していた。由佳の真意がわからない。彼女は、自分の味方なのだろうか。それとも、ただ、自分の歪んだ感覚を肯定することで、香澄を弄んでいるだけなのだろうか。
「…そろそろ、戻らないと」
沈黙の後、由佳が先に口を開いた。
「先生、待ってるかも」
そう言って、彼女は準備室のドアに向かって歩き出した。香澄は、慌ててその後を追った。
準備室を出て、明るい廊下に出ると、先ほどの薄暗い部屋での出来事が、まるで夢の中の出来事のように感じられた。しかし、胸の動悸はまだ収まらない。由佳の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。「あなたがおかしいとは思わない」「無理に押し殺す必要はない」。
その日の放課後、香澄は一人で帰り道を歩いていた。いつもよりも、足取りは少し軽いような気がした。由佳の言葉が、重くのしかかっていた罪悪感を、ほんの少しだけ、和らげてくれたのかもしれない。
遊歩道の脇に、色づき始めた落ち葉が溜まっている場所があった。香澄は、少しだけためらった後、その落ち葉の上を、わざと踏みしめて歩いた。
ザクッ、ザクッ。
ローファーの底が、幾重にも重なった落ち葉に沈み込む。湿り気を含んだ葉は、乾いた葉とは違い、鈍い音を立てて潰れる。靴底には、葉脈の硬さや、葉と葉の間の土の感触が、複雑に伝わってくる。
ほんのりとした、あの感覚。けれど、今日は、いつもとは少し違って感じられた。罪悪感が、少し薄れている。代わりに、由佳の言葉が蘇る。「無理に押し殺す必要はない」。
これは、自分の一部なのだ。おかしいのかもしれないけれど、これが自分なのだ。そう思うと、ほんの少しだけ、息がしやすくなったような気がした。
ふと、足元にどんぐりが一つ転がっているのを見つけた。香澄は、それをローファーのつま先で軽く転がした。そして、かかとで、ゆっくりと踏みつけた。
コリッ。
硬い殻が割れる、小気味よい音と感触。香澄は、その感触を確かめるように、もう一度、体重をかけた。殻は完全に砕け、中身がわずかに覗いている。
いつもなら、ここで虚しさや自己嫌悪が襲ってくるはずだった。けれど、今日は、その感情が少し遠いところにあるような気がした。由佳の存在が、香澄の中で何かを変え始めているのかもしれない。
しかし、それは果たして、良い変化なのだろうか? 由佳は、香澄をどこへ導こうとしているのだろう? 彼女の言葉は、本当に香澄を理解し、受け入れてくれた上でのものなのだろうか?
わからない。今はまだ、何もわからない。ただ、高槻由佳という、ミステリアスで、どこか危険な香りのするクラスメイトが、自分の閉じた世界に、小さな、しかし無視できない波紋を投げかけたことだけは確かだった。
その波紋が、これからどう広がっていくのか。それは、香澄自身にも、まだ予測できなかった。ただ、美術室の薄暗がりで交わした言葉と、由佳のあの静かな瞳が、これから先、自分の心から離れないであろうことだけは、確信に近い形で感じていた。
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