第2話 二学期

 八月がその最後の名残を惜しむかのように、じっとりとした熱気を地上に留めていた。長く感じられた夏休みは終わりを告げ、九月一日、二学期の始業式が重い扉のように香澄の前に立ちはだかった。昨夜はほとんど眠れなかった。新しい学期が始まることへの漠然とした不安と、それ以上に、あの夏休み前の出来事を引きずったまま、再びクラスメイトたちの中に身を置かなければならないという現実が、鉛のように香澄の心を沈ませていた。


 久しぶりに袖を通したセーラー服は、気のせいか少し窮屈に感じられた。白いクルーソックスを履き、指定のローファーに足を入れる。つるりとした革の感触。比較的フラットな、硬いゴム製の靴底。香澄は無意識に、足の指を靴の中で丸め、靴底のわずかな凹凸を感じようとした。この靴底は、あの黒いエナメルのパンプスが持つ、鋭利で、容赦のない感触とは違う。それでも、この硬さ、この平坦さがもたらす独特の感触がある。そう思うと、ほんの少しだけ、胸の奥がざわついた。


 玄関を出て、通学路を歩き出す。数日前までの静けさが嘘のように、同じ制服を着た生徒たちがちらほらと歩いている。香澄は、できるだけ俯き加減に、足早に歩いた。誰にも会いたくなかった。特に、美咲や陽菜には。


 しかし、そんな願いはあっさりと打ち砕かれる。校門をくぐる少し手前で、聞き慣れた声が背後から聞こえた。

「あ、香澄…おはよ」

 それは、美咲の声だった。香澄は心臓が跳ねるのを感じながら、ゆっくりと振り返った。そこには、美咲と陽菜が並んで立っていた。二人とも、どこかぎこちない表情をしている。

「…おはよ」

 香澄は、かろうじてそれだけを答えた。声が、自分でも驚くほど小さく、掠れていた。


 三人の間に、重苦しい沈黙が流れる。夏休み前、あの教室で凍りついた空気が、そのまま再現されたかのようだった。陽菜は気まずそうに視線を逸らし、美咲は何か言おうとして口を開きかけたが、結局何も言わずに唇を結んだ。


「じゃ、じゃあ、先行くね」

 先に沈黙を破ったのは陽菜だった。美咲もそれに頷き、二人は早足で香澄の横を通り過ぎ、校舎へと向かっていった。まるで、腫れ物に触るかのように。あるいは、汚れたものから距離を置くかのように。


 その場に一人残された香澄は、しばらく動けなかった。胸の奥が、きりきりと痛む。わかっていたことだ。こうなることは、予想していた。それでも、実際に目の当たりにすると、その現実は想像以上に冷たく、鋭利だった。拒絶されたのだ、と改めて突きつけられた気がした。


 足元のアスファルトの割れ目から、小さな雑草が顔を出している。香澄は、衝動的に右足のローファーを上げ、その雑草を踏みつけた。ぐにっ、という鈍い感触が靴底を通して伝わる。硬いゴム底が、柔らかい葉をアスファルトに押し付ける。香澄はそのまま軽く体重をかけ、靴底を少しだけ捻った。緑色の汁が滲み、葉は繊維を残して潰れた。


 ほんの一瞬、胸のつかえが、ほんの少しだけ、和らいだような気がした。「ほんのり」と、温かいような、くすぐったいような感覚が足の裏から広がっていく。けれど、すぐに虚しさが押し寄せる。こんなことをしても、何も変わらない。失ったものは戻らないし、孤独が埋まるわけでもない。ただ、自分が「異常」であることを再確認するだけだ。


 重い足取りで校舎に入り、自分の教室へ向かう。扉を開けると、夏休みを経て少しだけ雰囲気が変わったクラスメイトたちの喧騒が耳に入ってきた。しかし、その喧騒は、香澄にとっては遠い世界の出来事のように感じられた。自分の席に着くと、まるで透明人間にでもなったかのように、誰も話しかけてこない。いや、意図的に避けられているのかもしれない。ちらりと視線を上げると、数人の女子生徒がこちらを見て、ひそひそと何か話しているのが見えた。きっと、自分のことだろう。「変態」という言葉が、幻聴のように聞こえた気がした。


 香澄は、鞄から教科書を取り出すふりをしながら、再び俯いた。心の周りに築いた壁が、さらに厚く、高くなっていくのを感じる。誰も、この内側には入れない。そして、自分も、外に出ることはできない。


 始業式があり、ホームルームがあり、そして授業が始まった。香澄は、ノートを開き、シャーペンを握る。けれど、教師の声は右から左へと通り抜けていくだけで、全く頭に入ってこない。意識は、窓の外の風景や、ノートの隅に描いた意味のない落書き、そして、足元のローファーの感触へと向かってしまう。


 靴の中で、そっと足の指を動かす。親指の付け根あたりで、靴底の内側のわずかな縫い目を感じる。かかとの部分の、少しだけ盛り上がったクッション。この靴底で、もしあのカナブンを踏んでいたら、どんな感触だっただろうか。あの時、美咲や陽菜の前で、もし本当に踏みつけていたら…?


 そこまで考えて、香澄はぶるりと身震いした。なんてことを考えているのだろう。自己嫌悪で胸が苦しくなる。自分は、本当に、どうしようもなくおかしいのだ。


 ふと、視線を感じて顔を上げると、斜め前の席に座る女子生徒と目が合った。高槻由佳。クラスの中でも、ひときわ大人びた雰囲気を持つ生徒だった。肩にかかるくらいの長さだった黒髪は、夏休み中にさらに伸びたようで、艶やかで重みのあるロングヘアになっている。背が高く、すらりとした体つき。白い肌に、切れ長の涼しげな目元。口数は少なく、いつもどこか物憂げな表情を浮かべているが、それがかえって彼女のミステリアスな魅力を引き立てていた。


 由佳は、香澄と目が合うと、表情を変えずに、すっと視線を逸らした。その仕草には、何の感情も読み取れない。香澄は、なぜか由佳のことが少し気になっていた。彼女もまた、クラスの中で少し浮いた存在に見えたからだ。誰とでも馴れ合うわけではなく、一人で本を読んでいたり、窓の外を眺めていたりすることが多い。そして、美術の授業で彼女が描く絵は、どこか独特の世界観を持っていた。緻密で、美しく、それでいて、どこか影があるような。一度、彼女が提出した作品の中に、枯れた紫陽花をリアルに描いたものがあった。その繊細な描写と、死の中にある種の美しさを見出しているかのような視線に、香澄は奇妙な共感を覚えたのだ。


 もちろん、由佳に話しかけたことはほとんどない。彼女も、香澄に関心があるようには見えなかった。ただ、同じ教室にいながら、どこか違う場所にいるような、そんな彼女の存在が、香澄の意識の片隅に引っかかっていた。


 授業が終わるチャイムが鳴り、昼休みが訪れた。教室のあちこちで、弁当の包みを開ける音や、楽しそうな話し声が聞こえてくる。美咲と陽菜は、他の数人の女子生徒とグループになって、賑やかに昼食を始めていた。香澄は、自分の席で、母親が作ってくれた弁当を黙々と口に運んだ。味は、よくわからなかった。


 早く、この場所から離れたい。一人になりたい。


 弁当を早々に食べ終えると、香澄は誰にも気づかれないように、そっと教室を抜け出した。向かったのは、中庭に面した渡り廊下の隅。ここは普段あまり人が来ない。ガラス窓の外には、手入れされた芝生と、いくつかの植え込みが見える。


 香澄は、壁に背をもたせ、ぼんやりと外を眺めた。窓ガラスのすぐ下のコンクリート部分に、乾いた茶色の落ち葉が数枚、風で吹き寄せられているのが見えた。夏の終わりとはいえ、まだ緑の多い季節に、どこから来たのだろうか。パリパリに乾燥していて、触れただけで砕けてしまいそうだ。


 足元のローファーが、むずむずと疼き始める。衝動が、じわじわと湧き上がってくる。


 周囲を素早く確認する。渡り廊下には誰もいない。香澄は、何気ないふりをしながら、落ち葉に近づいた。そして、右足のローファーを、その上にそっと乗せた。


 パリパリッ、カサッ。


 軽い、乾いた音が響く。靴底の下で、薄い葉が砕ける感触。硬いゴム底が、脆い葉脈ごと粉々にしていく。香澄は体重をかけ、靴底を軽く擦るように動かした。落ち葉はあっけなく形を失い、茶色い粉末のようになった。


 ほんのりとした、くすぐったいような感覚が足裏を走る。けれど、それはあまりにも儚く、すぐに消え去ってしまう。隣には、小さな木の実がいくつか転がっていた。何の実かはわからないが、直径一センチほどの、硬そうな実だ。


 香澄は、今度は左足で、その実の一つを踏んでみた。


 コリッ。


 先ほどの落ち葉とは違う、確かな手応え。硬い殻が、ローファーの底で割れる音と感触。実が砕け、中身がわずかに飛び散った。香澄は、もう一つ、別の実を踏む。コリッ。同じ感触。


 少しだけ、胸のざわめきが収まるような気がした。ほんの少しだけ。けれど、すぐにまた、虚しさと罪悪感が波のように押し寄せてくる。こんなことをして、何になるというのだろう。どうして自分は、こんなことに微かな喜びを感じてしまうのだろう。


 背後に、誰かの足音が聞こえた気がして、香澄は慌ててその場を離れた。心臓がドキドキしている。見られたかもしれない。いや、気のせいだ。誰も見ていないはずだ。それでも、恐怖心は消えない。


 結局、昼休みが終わるまで、香澄は落ち着かない気持ちで、人気のない階段の踊り場などで時間を潰した。


 午後の授業も、上の空で過ごした。頭の中では、放課後のことばかり考えていた。早く一人になりたい。この息苦しい教室から、学校から、抜け出したい。そして、どこか人気のない場所で、何かを、もう少しだけ確かな手応えのあるものを、踏んでみたい。そんな思いが、繰り返し浮かんでは消えた。


 待ち望んだ放課後のチャイムが鳴ると、香澄は誰よりも早く教室を飛び出した。美咲や陽菜に声をかけられる前に、逃げるように。昇降口でローファーを履き、校門を出る。いつもなら友達と話しながら帰る道も、今は一人だ。


 今日は、どの道を通って帰ろうか。香澄は、少しだけ考えて、普段はあまり通らない、川沿いの遊歩道へ向かうことにした。ここは人通りが少なく、道の脇には草むらや植え込みが多い。


 ゆっくりと歩きながら、香澄の視線は自然と足元へと注がれる。遊歩道の敷石の隙間に咲く小さな白い花。忙しなく動き回る蟻。風で飛ばされてきた枯れ枝。それらを目にするたびに、足の裏がむずむずとした衝動に駆られるが、今はまだ人目があるかもしれない。香澄はぐっとこらえ、歩き続ける。


 少し進むと、道の真ん中に、熟れて地面に落ちたらしいプラタナスの実が転がっていた。直径3センチほどの、球状の実。表面はゴツゴツとしていて、硬そうだ。周囲には誰もいない。


 香澄は、ごくりと唾を飲み込み、その実に近づいた。右足のローファーを、ゆっくりと上げる。狙いを定め、実の真上に、靴底を下ろす。


 グシャッ!


 思ったよりも柔らかく、湿った感触。硬いと思っていた表面は、熟しきっていたのか、ローファーの底の圧力で抵抗なく潰れた。中から、粘り気のある種と繊維が溢れ出し、靴底にまとわりつく。硬いゴム底が、実の残骸を敷石に擦り付ける。微かに甘酸っぱいような匂いがした。


 香澄は、靴底にまとわりついた実の残骸を、近くの縁石でこすり落とした。ほんのりとした満足感。けれど、それだけでは足りないような気がした。心が満たされない。もっと、何か…。


 さらに歩いていくと、植え込みの近くの湿った地面に、一匹のカタツムリがいるのを見つけた。雨上がりでもないのに、どうしてこんなところにいるのだろう。殻の直径は2センチほどだろうか。薄茶色の渦巻き模様の殻を背負い、ゆっくりと粘液の跡を残しながら這っている。


 香澄は、足を止めた。カタツムリ。あの、硬そうで、でも脆そうな殻。それを、このローファーで踏んだら…?


 人目が気になる。けれど、この衝動は抑えきれそうにない。香澄は、さりげなく周囲を見回し、誰も近づいてこないことを確認すると、素早くカタツムリに近づいた。


 そして、躊躇う時間はほとんどなかった。左足のローファーを上げ、カタツムリの殻の真上を目掛けて、体重を乗せるように踏み下ろした。


 パリ…グシャ。


 最初に、薄い殻が割れる、乾いた軽い音。その直後に、柔らかい中身が潰れる、湿った鈍い感触が、靴底を通してはっきりと伝わってきた。ローファーの底、特に体重のかかるかかと部分で、渦巻き模様の殻が粉々に砕け、粘液と共に地面に広がっていくのが感じられた。


 香澄は、息を詰めて、足を上げた。ローファーの底には、砕けた殻の破片と、白っぽい粘液が付着していた。地面には、見るも無惨な残骸。渦巻き模様の形は、もうどこにも残っていなかった。


 強い自己嫌悪が、胃の腑からせり上がってくるようだった。なんてことをしてしまったのだろう。あんなにゆっくりと、懸命に生きていたのに。汚れた靴底を見つめながら、香澄は吐き気を覚えた。


 けれど、同時に、心の奥底で、ほんのりと、しかし確実に、何かが満たされたような感覚があったことも否定できなかった。あの殻が砕ける瞬間の、確かな手応え。柔らかいものが潰れる感触。それは、日々の孤独や不安、満たされない思いを、ほんの一瞬だけ忘れさせてくれる、麻薬のようなものなのかもしれない。


 香澄は、近くの草むらで、ローファーの底を何度も擦り付け、汚れを落とした。けれど、粘液のぬめりは、完全には取れなかった。


 もう、帰ろう。これ以上、ここにいたら、また何かしてしまうかもしれない。香澄は、早足で遊歩道を抜け、家路を急いだ。空はいつの間にか茜色に染まり、川面がきらきらと光っていた。その美しい風景さえも、今の香澄の心には虚しく映るだけだった。


 家に帰り着き、玄関でローファーを脱ぐと、すぐに靴底を確認する。幸い、母親には気づかれない程度の汚れに見えたが、念のため、古布で念入りに拭き取った。白いソックスには、特に汚れはついていない。それだけが、わずかな救いだった。


 自室に入り、制服を脱ぐ。鏡の前に立つと、そこに映っているのは、疲れ果て、目に暗い影を宿した、見慣れない自分の顔だった。頬はこけ、唇は色を失っている。これが、今の自分。秘密を抱え、孤独に苛まれ、ささやかな破壊行為に「ほんのり」とした喜びを見出してしまう、歪んだ自分。


 涙が、静かに頬を伝った。普通になりたい。普通の女の子のように、友達と笑い合い、他愛ない話で盛り上がりたい。けれど、もう、それは叶わないのかもしれない。自分は、どんどん、普通から遠ざかっているような気がした。


 ベッドに倒れ込み、目を閉じる。暗闇の中で、ふと、高槻由佳の涼しげな目が思い浮かんだ。彼女は、何を考えているのだろう。彼女もまた、何か、人には言えないものを抱えているのだろうか。あの、どこか影のある美しい絵を描く彼女なら、もしかしたら…。


 いや、そんなはずはない。期待してはいけない。誰も、自分を理解してくれるはずがないのだ。


 香澄は、深いため息をつき、布団を頭までかぶった。深まる孤独と、抑えきれない秘密の衝動。満たされない心と、増していく罪悪感。暗いトンネルの中に、一人で迷い込んでしまったような、出口のない閉塞感。


 二学期は、まだ始まったばかりだというのに、香澄の前には、すでに高く、冷たい壁がそびえ立っているように感じられた。そして、その壁の向こう側から、不穏な気配が、じわじわと忍び寄ってきているような、そんな予感がした。

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