第4話 過去、優しさが壊れた日

 俺が幼かった頃、夕暮れの穏やかな光がリビングのグランドピアノを照らしていた。父親はピアノの椅子に座り、俺を自分の隣に優しく抱き寄せる。小さな俺の指に、父親の大きく温かな手がそっと添えられ、鍵盤の上でゆっくりとメロディを奏で始めた。「音楽は優しさなんだよ」——父親は微笑みながらそう囁き、柔らかな旋律を紡いでいく。その横顔は穏やかで、音に込められた愛情が幼い俺にもはっきりと感じられた。


 俺は父親と一緒に鍵盤を押し、自分が生み出す音に目を輝かせていた。ミスタッチをするとわざと大袈裟に悔しそうに、父親は穏やかに首を振って見せる。


「大丈夫。ゆっくりでいい。音を感じてごらん」


 優しい声と言葉に励まされ、俺はもう一度鍵盤に向かった。やがて父と子の奏でる音色が重なり合い、簡単な子守唄の旋律が部屋いっぱいに広がる。母親はキッチンの戸口からその様子をそっと見つめ、安堵したように微笑んだ。家庭に流れる音楽は暖かく、俺はその一瞬一瞬が永遠に続けばいいと願うほどの幸福を感じていた。

 

 しかし、その穏やかな日々の陰で、母親は深い苦悩に耐えていた。夜遅く、父親が不在の静かな部屋で、電話のベルが鋭く鳴り響く。幼い俺が目を覚まして廊下に出ると、書斎から漏れる明かりの中で母親が受話器を握りしめていた。震える声で何かを謝罪する母の姿に、俺は胸のざわめきを覚える。


「主人も深く反省しております…どうか今回だけは…」 

 

 泣き出しそうな声を必死に抑え、母親は相手に頭を下げるように電話口で懇願していた。


 俺には詳細は分からなかったが、幼心にも母親が誰かに許しを請うていることだけは理解できた。母親は電話を切るとしばらく俯き、震える肩を押さえるようにして静かに嗚咽を漏らす。細い指で目元の涙を拭ったその横顔には、見たことのない深い悲しみと疲労が浮かんでいた。俺が心配になって近づくと、母親ははっとして顔を上げ、無理に笑みを作った。


「音弥、大丈夫よ。さあ、寝ましょう?」


 と優しく言った。その声は優しかったが、抱きしめられた母親の体からは微かに震えが伝わってきた。


 後になって知ることになるのだが、あの夜、母親が電話で謝罪していた相手は、父親のスキャンダルを追う記者や、父親によって傷つけられた女性たちだった。父親の度重なる不倫疑惑や女性への性的暴行をもみ消し、家庭と父親の名声を守るため、母親は自分を犠牲にして奔走していたのだ。真実を知らぬまま布団に戻った幼い俺の耳には、遠く母親のすすり泣く声がいつまでもこびりついて離れなかった。


 季節が巡り、俺が少し成長した頃、家庭の空気は次第に変わり始めていた。父親の帰宅がますます遅くなり、母親が一人で夜食の冷めた食卓を片付ける姿が当たり前の日常となった。そんなある晩、寝室から激しい口論の声が響いた。


「もう耐えられない…!あなたが何をしているか、世間は—」 


 母親の涙混じりの叫びに続いて、何か重い物が床に落ちる音がした。続いて父親の低い怒鳴り声が響く。


「俺に恥をかかせる気か!」 


 その一言に俺は息を呑み、暗い廊下の隅で体を強張らせる。扉の向こうで何が起きているのか分からず、心臓が張り裂けそうな不安に襲われた。


 不意にドアが乱暴に開かれ、母親が泣き腫らした目で飛び出してきた。俺と目が合うと、母親は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに震える手で俺の肩に触れた。


「ごめんなさいね、音弥…大丈夫、何でもないの」


 そう言う母親の声は掠れていた。背後には怒りに燃える父親の姿があったが、俺を見とめると舌打ちして視線を逸らし、苛立たしげに書斎へと消えていった。その晩、俺は眠れなかった。隣の部屋から微かに聞こえる母親のすすり泣きと、床に落ちた写真立ての割れる音が、闇の中で何度も甦った。


それから程なくして、母親は急速に体調を崩した。憔悴しきった体と心が限界を迎えたのか、ある朝、母親はベッドから起き上がれなくなったのだ。病院の白いシーツに横たわる母親は人形のように冷たく、俺が必死に呼びかけても瞳を開くことはなかった。父親は病室の片隅に立ち尽くし、腕組みをしたまま感情を押し殺した表情でただ母親を見下ろしていた。医師から静かに告げられた死の宣告に、俺は現実が理解できず呆然とした。


「……嘘だ…母さん?」


 震える手で母の頬に触れると、その肌は凍るように冷たかった。


 葬儀の日、降りしきる雨の中で俺は写真に写る母親の笑顔を見つめ、声を上げて泣いた。優しかった母親がもう二度と戻らない――喪失感が胸を引き裂き、膝から力が抜ける。それでも傍らの父親は涙一つ見せず、冷たい瞳で母親の遺影を見据えたままだった。周囲の弔問客に頭を下げる父親の姿は一見落ち着いていたが、俺がすすり泣きを漏らすと、その肩を乱暴に掴んで小声で言った。


「しっかりしろ、音弥。泣くんじゃない」


 そして、父親はこうも言った。


「母さんが死んだのは俺のせいじゃないからな。元々身体が弱かったんだ」


 その吐き捨てるような言葉には思いやりはなく、自分に言い聞かせるようにさえ感じた。俺は驚いて父親を見上げたが、父親は前だけを向き、まるで心を閉ざすかのように唇を固く結んでいた。


 母親の死を境に、父親はかつての優しさを失くし、まるで別人のように冷酷で支配的な人間へと変わっていった。家からは笑顔が消え、ピアノの音も途絶えた。リビングに置かれたピアノは蓋が閉じられたまま埃をかぶり、父子が共に旋律を奏でた面影は色あせていく。俺が寂しさに耐えかねて


「お父さん、また一緒にピアノを弾いてくれる?」


 と恐る恐る尋ねたある日でさえ、父親は書類から顔も上げずに一言「時間の無駄だ」と切り捨てた。それは、愛情に満ちていたはずの音楽が、父親にとって何の価値もないものになった瞬間だった。


 それから年月が過ぎ、親は思春期を迎えていた。父親は一層仕事と名誉に執着し、家では命令と叱責ばかりが飛ぶようになった。かつて父親が教えてくれた音楽の“優しさ”は、今や家のどこにも見当たらない。だが俺の胸の内には、幼い日のあの旋律が今も生きていた。「音楽は優しさなんだよ」——父親の優しい声とともに刻み込まれた言葉が、どんなに父が冷たくなろうとも俺を支えていたのだ。


 父親に黙って、俺は密かにピアノの蓋を開けることがあった。父親の不在の時間を見計らい、埃を払った鍵盤にそっと触れる。震える指であの子守唄の旋律をなぞると、忘れていたはずの温かな記憶がよみがえり、俺の目に涙が浮かんだ。まるで母親が隣で微笑み、父親がもう一度優しく囁いてくれるような錯覚さえ覚える。しかし最後の音が消えると、現実の静寂が押し寄せる。冷たい空気の中、俺は一人きりでピアノの前に座り、固く拳を握りしめた。父親から受け継いだはずの音楽の優しさを、このまま闇に葬ってはいけない——胸の奥で何かが強く訴えていた。


 その日、俺は決意した。音楽の持つ癒しと優しさを形にして取り戻すため、自分の力でできることをしようと。高校生になる頃には、俺は音響工学やプログラミングにも興味を広げていった。父親が望む進路ではなかったが、それでも構わなかった。自室に閉じこもり、独学で学んだ知識をつなぎ合わせて、俺はあるプロジェクトに没頭する。それは、亡き母が愛したあの優しい旋律と、かつて父親が教えてくれた音楽の心をもう一度この世界に甦らせるための挑戦だった。


 幾夜も青白いモニターの光の下で試行錯誤を重ね、俺はついに自らの創造物にSORAと名付けた。SORAは音楽と最新技術を融合させ、人の心に失われた優しさを呼び起こすことを目指したシステムであり、俺の魂そのものと言える作品だった。コードを組み、メロディを入力し、何度も微調整を繰り返す。完成間近のメロディが流れたとき、それは確かにあの日父と奏でた子守唄の面影を宿していた。音弥はヘッドフォン越しに響く音に涙ぐみながら、小さく呟いた。「母さん…聞こえる? やっとここまで来たよ」 画面に映る波形が穏やかに揺れ、まるで母親の優しい頷きに重なるようだった。


 SORAはネットでも僅かの間に有名になり、俺はボカロの神と呼ばれるようになった。


 そして迎えたある日、俺は意を決して父親に「SORA」を見せることにした。父親の部屋のピアノに向かい合うように機材をセッティングし、父親をその前に呼び止める。久しく会話らしい会話もなかった父子が向き合い、緊張で喉が渇くのを感じながら、俺は静かに口を開いた。「お父さん…少しでいいから、聴いてほしい音があるんだ。」 父親は怪訝そうに眉をひそめたが、俺の真剣な眼差しに押され、渋々といった様子で立ち止まった。



――――――――――




 結局、過去の気持ちを取り戻させることは出来なかった。父親は俺が必死になって作り上げたボーカロイドSORAを馬鹿にして、母親だけでなく俺さえも引き離そうとした。


 こんなことが許せるわけがない。俺は母親のためにも絶対に父親に認めさせ、父親を乗り越えてやる。俺はそのため人と同じレベルで歌うYOZORAの開発をしようと決意した。

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