第7話 天体観測。

 夜になり、三人は家から徒歩二十分くらいのところにある丘の上にいた。

 日が落ちても気温は高くて、半袖ショートパンツでも汗が出る。用水路からはカエルの大合唱がひっきりなしに聞こえてくる。


「ここ、意外と眺めいいよな。昔と変わらないや」


 シートと荷物を抱えたリクが夜空を見上げる。


 祭りの賑わいが遠くに聞こえる中、ここは別世界みたいに静かだった。

 街灯もない丘の上は暗闇に包まれ、見上げれば星空が広がっていた。




「じゃあ、準備するね」


 ソラが持ってきた天体望遠鏡を組み立て始める。


「ほら、覗いてみて」


 夏美は言われるまま、レンズを覗いた。

 視界の中に広がるのは、淡く輝く天の川だった。肉眼では見ることのできない細かい星も見ることができる。


「……すごい、きれいだね」

「いま望遠鏡を合わせているこの位置で、天の川の上の方に見えるのが座のベガ。いわゆる織姫星。反対側の明るい星が、わし座のアルタイル。彦星だよ」


 ソラは【よくわかる、こどもの星座図鑑】を片手に説明してくれる。

 ソラが星を好きになったルーツだという本だ。


「懐かしいな。その本、まだ大事にしていてくれたんだ」

「…………うん」


 やはりソラの笑顔は不自然で、答えもぎこちない。

 リクはシートを広げて座り、ポテトスナックをバリバリ食べている。

 自分で天体観測しようと提案しておきながら、花より団子、星よりポテチ。なんともリクらしい。

 

 ソラは星を見上げながら、話し始める。




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「ちょうどいい。七夕の話でもしようか」

「七夕伝説? 織姫と彦星が恋に落ちて働かなくなったから、怒った神様に引き離されちゃったっていうあれ?」

「そう。七夕の日しか会えなくなった、夫婦の話だね」


 夏美はソラの横顔を見上げる。


「その伝承になっている、中国の七夕の日付について。日本の七夕は七月七日だけど、織姫と彦星の伝説が生まれた中国の七夕はちょうど今くらいの時期だ」

「日本と違うの?」

「旧暦を基準にしてるからね。今とは暦が違うんだ」


 夏美はゆっくりと夜空を見上げる。


「……そっか」

「一年に一度しか会えないのが、織姫と彦星。……でも、僕たちも似たようなものかもしれないね」


 ソラは視線を夏美に移して、静かに言った。


「僕は、東京大学の天文学科を目指しているんだ」


 温かい夜風が頬をなでていく。


「天文部で観測しているうちに、もっと星のこと学びたくなった。それで、東大なら天文学を専門的に学べるって知った。……父さんと母さんには、去年のうちに相談して、許可をもらっている。夏美が福岡に引っ越さなくても、どのみち僕たちは離れ離れになってたよ」

「はぁ!? 何だそれ!? 兄貴が家を出るなんて、俺そんな話聞いてねーぞ!!」


 弟であるリクすら初耳の情報なようで、顔色を変えた。

 

「リクには言ってないから。父さんと母さんにも口止めしてた。リクは口が軽いから、教えるなって念押しても、絶対夏美にも話が行くじゃない」

「ひっでー! 兄貴、俺のこと信用しなさすぎじゃね」


 普段のソラならここに軽口を返すのに、ソラは淡々と話を続ける。

 

「だから、たとえ夏美がここに残っても、ずっと一緒にはいられなかったよ。卒業したらバラバラになる」

「……そっか」


 夏美はぽつりと呟く。

 ソラの様子がずっとおかしかったのは、このことを伝えたかったからなのだろうか。



 夏美が両親にお願いして新潟に残っていたとしても、高校卒業を機に、ソラはここからいなくなっていた。


 ソラが夏美に会いに来るか、夏美から会いに行かない限りどんどんと疎遠になっていく。


 例えばソラが東京の学校で大恋愛をしてその人と結婚したら、東京で家庭を持ったら、ここに帰ってくる頻度は更に減る。

 近所に住んでいた小学生時代のお姉さんも、夏美が知らない大人になっていた。

 街ですれ違ってもわからないくらいだ。



 毎日一緒にいたのに、赤の他人と変わらないくらい遠くなる。



 木の葉がひらりと舞い落ちる。

 夏美はそっと拳を握る。




「兄貴、ちょっとそっちで話そうぜ。言っておくことがある」


 ソラとリクは夏美から離れ、二人でなにか話し込んでいた。

 言い争っているようにも見える。


 話が終わったのか、しばらくしてリクが戻ってきて、夏美に言った。


「俺、用事あるから先に帰るわ。夏美は兄貴と二人で帰ってきな」

「え、う、うん。大丈夫? 喧嘩、したの?」

「心配すんな。喧嘩じゃねーよ。とにかく、そういうわけだから。兄貴、夏美をちゃんと家まで送れよ?」



 リクはシートを担ぐと、軽い足取りで丘を駆け下りていった。


 夏美とソラは二人きりになる。

 いつもなら、気まずさなど感じることのないはずの時間が、今日はひどく重たく感じられる。


 今日一日、ソラの様子はどこかおかしかった。

 いつも通り星の話をしてくれたけれど、どこか上の空だったし、夏美が話しかけても、短く返事をするばかりだった。


 夏美は何度も考えた。


 ループのことでリクと話す時間はあった。

 けれど、夏美とリクは幼なじみだし、普段から会話しているから特別変わったこともない。


 それなのに、ソラの態度は明らかに変わっていて。

 まるで、何かを我慢しているみたいに、ぎこちなかった。


「ソラ?」

「……なに?」


 少し間を置いて、ソラは短く返事をした。

 暗がりのせいで表情ははっきりと見えないけれど、何かを飲み込むように唇を引き結んでいるのが分かった。


 しばらく沈黙が続いた後、夏美は意を決して口を開いた。


「ソラ。私、今日はずっとソラに話したかったことがあるの」

「……なに?」

「私たち……何度も八月八日を繰り返してる」


 ソラの瞳が、わずかに揺れる。


「どういう意味?」

「何度も、この日をやり直してるの。何回眠っても、目が覚めると八月八日が始まってる」


 ソラは黙ったまま、じっと夏美を見つめた。

 その視線が、どこか冷めているように感じて、夏美は不安になる。


「リクも気づいて、今朝私に連絡をくれたの。私たちは今、七回目の八月八日を過ごしてるって」

「……リクも?」

「うん」


 夏美は真剣に訴えたけれど、ソラはすぐに目を伏せ、ふっと苦笑する。


「ごめん。正直、信じられない」

「……え?」

「だって、そんな非現実的な話、急に言われても」


 夏美は、思わず息をのむ。


「……前のソラは、ループのこと知ってたよ」

「僕が?」

「うん。最初の頃は、ソラだけがループの記憶を持ってた。だから、ソラはループのことを分かってたはずなんだよ」


 ソラはじっと夏美を見つめる。その目はどこか疑わしげだった。


「……でも、ここにいる僕にとって、昨日は八月七日だよ。時間がループしているってどうやって証明できる? もしかして、そのループっていうのもリクと夏美の二人で考えたイタズラだったりしない? 僕をからかっているの?」


 言葉が、夏美の胸を刺す。

 信じてもらおうにも、証拠がない。ループすると一日の中であったことがすべてリセットされてしまう。

 三回目のとき手のひらに負った擦り傷は、四回目の朝消えてしまった。

 五回目のループで手帳に書いたメモも、真っ白になっている。


 本人が覚えていることでしか、ループを証明できない。




「イタズラじゃない。本当だよ!」


 夏美は訴える。ソラなら信じてくれると願って。でも、ソラの表情は変わらなかった。


「夏美が言う『ループを知る僕』の記憶は、僕にはない。昨日は八月七日だった」


 夏美にとっては繰り返された日々でも、ループの記憶を忘れたソラにとっては「唯一無二の八月八日」だ。

 それでも、夏美は分かってほしかった。

 一緒に、ループを抜け出す方法を探してほしかった。


(ソラに忘れられてしまうことは、こんなに悲しい)


 夜空を見上げると、雲に隠されて、星はほとんど見えなくなっていた。





 それから二人とも無言で家に帰った。


 しばらくして、リクから夏美のスマホに電話が来た。


「悪い、夏美。俺が後押ししようとしたこと、全部逆効果になっちまったんだな。変な嘘つくなって、さっき兄貴にめちゃくちゃキレられた」

「……ううん。リクは悪くない。信じるの、難しいに決まってる。今のソラにとって、昨日は八月七日なんだもん」


 五回目までループの記憶を持ったソラが夏美の味方でいてくれたことは、奇跡のようなものだった。

 ソラならいつでも夏美を信じてくれると、思い上がっていた。


「……兄貴、めちゃくちゃ嫉妬深いからな。次の八月八日、兄貴にループの記憶がなかったら、俺は夏美と必要以上に接触しないように気をつける」

「うん」

「きっと、いつかループが終わるから。だから、諦めんなよ、夏美。お前が沈んでるの、見てらんてぇから」

「ありがとう、リク」


 こうして協力してくれるリクが、次の八月八日も記憶を維持しているとは限らない。

 三人とも今日を忘れて、ループに飲まれていくかもしれない。

 通話を終えて、夏美は泣きたい気持ちで布団に横になった。 

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