第16話 皇帝がどちらを愛するか

「今日も講義があるのよね」


 書斎に朝餉を持っていくなり、孫賀はそういった。


「そうなんですか?」


 静蓮は食事の盛られた食器を孫賀の前に並べる。彼女は気だるげに唇を尖らす。


「そ。今度は『柏国婦女伝』について解説するわ」


 柏国は見事な女性がたくさんいたのだという。皇帝を支えぬいた女傑皇后。うだつの上がらない夫を薫陶し、ついには名臣にさせた烈婦。夫が他の女にうつつを抜かしていても、文句ひとつ言わずに子を立派に育て上げた貞女。そんな女性たちの伝記だ。


「……へえ」

「間があったね。どうしたの?」

「『柏国婦女伝』を読んでいると、気が詰まるんです。……そんな立派な妻になれるかしら。そもそも妻になれるかしら」


 孫賀は吹き出した。


「それは良い先人からの学び方よ。あなたが立派な人間になるためには、先人がどう生きたか学ぶ必要がある。それは全てを肯定しなくてもいい。疑問に思って、考えて、考えて、それで自分なりの答えを見つければ良いのよ」

「……そ、そうですか」


 そんな難しいこと、できるだろうか。


「そんなわけで留守だから。留守番を頼むわね」

「はい」

 静蓮は頷いた。


 

 孫賀が出ていってしまうと、静蓮は『柏国婦女伝』を開いた。それを澄瑜から返された冊子に記録する。


 とんでもない好色で女性の敵というべきであり放蕩者にみえる澄瑜に聞いてみたかった。


 ──あなたはこういう女性であれば納得して、ひとりの女性を愛するようになるの? 自分を大切にできる?


 それを記して冊子を閉じた。韓策を探そうと思い、その場から立ち上がる。

 戸を開けると、そこには。


 牡丹の花を持った琴瑶が笑顔で立っていた。


 牡丹の花、と静蓮は少し息を引く。確か皇帝が閨に召すときに花を贈るという話があったはず。いや、と静蓮は自分を落ち着けた。琴瑶はこういう派手な花が好きだから持ち歩いているのだろう。


 琴瑶の鈴を転がすような声が聞こえた。


「あれ、お姉様ぁ? こんなところにいらしたの? 華紹叔母様が狂ったように探しておいでだったわよ」


 静蓮は固まった。華紹は自分のことを手放そうなどと思っていないらしい。


「あの……」


 静蓮は一礼して蔵書閣に戻ろうとした。

 だが、琴瑶は静蓮の華奢な腕をがっしりとつかんだ。


「聞いて聞いて。姉上。そして、喜んでくださる?」

「何を……?」


 琴瑶の長い睫毛に縁取られた色香をたたえる目がゆっくりと細められ、紅い唇が衝撃的な事実を告げる。


「主上からお花をいただいたの。あなたに差し上げますって」


 後頭部をがつんと叩かれたような衝撃を、静蓮は受けた。


 見れば、琴瑶は本当に美しかった。よく手入れされた白磁のような傷一つない肌。見事に施されている美しい化粧。それこそ手に持っている牡丹の花のような艶やかな薄紅色の裳。

 ひるがえってみれば、静蓮は傷だらけで、化粧もしておらず、お仕着せを着ている。


 皇帝がどちらを愛するかなど一目瞭然だ。


「……」


 いいえ、いいえ、と静蓮は天を仰いだ。


 ── 私は何を考えているの?


 澄瑜に愛されたいのか。あの、父を悪く書かせた澄瑜に。好色で後宮の女性を食い散らかす彼に。彼の閨に召されたいのか。


 その瞬間、静蓮は自分の感情に身の毛がよだった。


「……あ」


 血を吐いてしまいそうだった。自分の感情に吐き気を催した。

 琴瑶は静蓮のほうへ行き、耳に囁いた。牡丹の花を見せてきながら。


「ご覧になって。牡丹の花。でね、聞いたのだけれど、主上からお花をいただくのは、もうすぐわたくしを閨に召してくださる証拠なのですって」

「……」


 琴瑶、何も話さないで、と叫びたかった。


「ごめんなさいね、お姉様。お姉様のものを奪ってしまうわ」


 琴瑶はそういってくすくすと笑い、去っていった。



 静蓮は直後、地面にくずおれ膝をついた。

 自分はなんと浅ましい人間だろう。父の王朝を奪った男に選ばれたい、抱かれたいと思っていたとは。


 冊子を懐から取り出し、地面に投げつけようとした。


 だがやめた。蔵書閣へ戻り、冊子を本棚の隙間へとしまった。

 そして頭を抱え、悲鳴を上げてうずくまった。

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