第15話 静蓮との静かなひとときを過ごす──。

 夜の薄闇のなか、澄瑜は目を覚ました。寝台から起き上がれば、横には髪を乱した女が白い裸身をさらして寝息を立てている。


 ──誰だっけ。


 澄瑜は真剣に考え込んだ。まだ寵愛を与えたことがない女で、然るべき家の者であれば位を与えなければなるまい。そこまで考えて、自分の不誠実さに笑いがこみ上げてくる。


 ──まあ、女など、覚えていないくらいがちょうど良い。


 女がうっとりと起き上がった。媚態を見せてきながら、澄瑜にしなだれかかってくる。


「主上」


 その華やかにして艶やかな声が耳に絡みつく。少し笑みを見せて、女を押し倒し、その柔肌に顔を埋めながらもういちど、身体をつなげた。


 ──あ、郭淑妃か。 


 

 そろそろ別の妃嬪に寵愛を移すか、と郭淑妃が下がっていく後ろ姿を見送りながら、澄瑜は思った。あるいは新しい女を閨に召すか。琴瑶が貴妃に上がる話が出ているが気乗りしない。


 寝台でぐったりと朝寝の時を持っていると、韓策が入ってきた。


「主上」

「何だ?」

「公主様から、あの冊子です」


 澄瑜は跳ね起きた。飛びつくように静蓮から送られてきた冊子を読む。何度交換したことだろう。


 彼女は何でも読む。史書、経書、思想書。小説も読んでいる。


 今、彼女は怪奇小説にはまっているらしく、記憶を取り戻した老婆の話やら、記憶に取り違いのある女性の話やら、取り替え子の数奇な運命の話などを読んでいる。


 史書も読んでいた。澄瑜と同じ『柏書』を読み始めたらしい。


 韓策がその様子を見てうっすらと笑みをうかべた。 


「なんだか、楽しそうでらっしゃる」

「ん? まあな」


 韓策が一礼して去ると澄瑜は立ち上がり、文机へ赴き、読んだ本をさらさらと記していった。

 すこし頁をめくると、静蓮の真面目そうな字で、澄瑜の読んだ本のとなりに「好きな本です」と記されてあった。


「……何!?」


 胸が非常に高鳴った。二十四にもなってこんな少年のような感情が湧いて出てくるとは思えなかった。


 いや、違う。


 本来は婚約者同士だったのだ。これが本来は正常の姿なのだ。婚約者とお互いに読んだ本を明かし、もし婚約者が「それ、私も好き」と言ったら喜ぶような姿が。


 妃嬪と夜を過ごすより、静蓮とこうして読んだ本を記し合っているほうが楽しい。


 ──大変良くない。これは良くないことだ。


 澄瑜は少しため息をついた。後宮で子を残すのが義務である皇帝としては大変良くない行為だ。静蓮を閨に召すならともかく。


 ──静蓮様を閨に召す……。


 そうしてもよかった。後宮の女はすべて自分がどうしてもいい。静蓮は孫賀の下女だが、後宮の女である。


 静蓮との静かなひとときを過ごす──。


 一瞬だけ脳内に花が咲き誇ったような気分になった。


 しかし、いけないと自制する。静蓮は自分の閨に召されて嬉しいだろうか。父帝のものを奪った澄瑜に身体を許すだろうか。あまつさえ、澄瑜の母の華紹に虐げられていたのである。


 もし澄瑜が静蓮の立場であれば嫌で嫌で自害してしまうかもしれない。


「……ぐう……」


 しばらくは、いましばらくはこの冊子の交換で我慢するか、と澄瑜は理性を総動員させる。


 すると、しゅす、という衣擦れの音と、濃厚でむせ返るような花の香りがした。振り向けば母の華紹が笑顔で立っていた。



「主上。ご息災ですか?」


 華紹は澄瑜の頬を両手で覆った。


「ええ」

「わたくし、頼みがあってまいりましたの」


 静蓮を戻して欲しいという願いではないだろうかと身構えたその時。


「琴瑶は可哀想な子ですわ」

「……?」

「両親をあんなかたちで亡くして、姉も亡くして。身寄りがなく生きております。主上はなかなかお話をすすめてくださらない。明るくはしておりますが、わたくしには不安になる時があるのです。琴瑶はどうなるのかしら」

「母上。夏白公主の件に関しては」

「主上、お願いでございますよ」

「ですから」

「花を贈っておきました」

「は?」

「主上がものぐさでなにもなさらないから、琴瑶に牡丹の花を贈りました。主上からだと言って」


 この国で皇帝が女性に花を贈るということは、夜伽を命じるということである。


「……ふざけないでください」

「何が……?」

「私は夏白公主の件に関して」


 母は澄瑜の襟を掴んだ。


「そなたこそふざけるでないわ! そなたはわたくしのものじゃ! そなたの意志はわたくしの意志! わたくしの意志はそなたの意志じゃ! わたくしがどんな思いをして育てたか考えたことがあるかえ? そなたをあの無能の兄上の代わりに皇帝にしたのはこのわたくしじゃ!」


 澄瑜は呆然とした。

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