第3話 柳の下には幽霊が出る
***
皇帝である
蓮の名前を持つ婚約者を亡くして二年になる。
ただひとつ心が痛んだことといえば、婚約者の皇女
読書好きで明るく優しい婚約者だった。優しさ故にだろうか。父帝の突然の死と自らの王朝の崩壊とに心を引き裂かれて、自ら命を絶ったのだという。
後宮の中のことで澄瑜も把握しきれておらず、母の華紹から聞いた話ではあるが。彼女の遺言で、澄瑜には自分の死体を見せたくないからと遺体さえ見せてもらえなかった。
もともと先帝の三人の皇女は生かす心づもりであり、静蓮とはもちろん結婚する予定であったために衝撃的なことであった。
彼女の供養のために庭の池で蓮を育てているが、ずいぶんと咲き誇るようになってきた。
「——では、行ってきます」
澄瑜は蓮の花に向かって一言漏らした。
一瞬だけ目を閉じて夢想したのは、彼が得られなかった穏やかな朝の風景だ。
少し重い足取りで、母である
すると母はしっかりと微笑んできた。
「主上、御息災そうで何よりです。わたくしは心から嬉しく思っておりますよ」
「いたみいります」
頭を下げる。華紹には自分が帝位に登る際に様々な協力をしてくれたせいもあって、なかなか頭が上がらない。
華紹はそんな息子を目を細めながら見たあと、「ですが」と憂いを込めて視線をななめ下に落とした。
「
「さようですか。きつく叱っておきましょう」
澄瑜は微笑んだ。まるで母が皇帝のようだ。だが、華紹は澄瑜の次の言葉を待っているようだった。
「母上、私を支えてくださっていること、感謝いたします」
母の望んでいる言葉を言う。すると母は満足気に微笑んだ。
(ま、このくらい言っておけば良いだろ)
それより、母の
皆、孫がいそうな年かさの厳しそうな女官ばかりだった。
(……母上は基本的に若い女を俺の身近に置かないからな)
内心でしょんぼりとしていると、母がしなだれかかってきた。
「主上。わたくしのおすすめした尚書はいかがでございますか?」
母は平気で政治に口を出す。お陰で澄瑜は母の言いなりという評判が立っている。
「ま、がんばってくれているのではないでしょうか」
それが優秀な人材なら良いが、何か呪われてでもいるかのように無能ばかり送られてくるのだからたまらない。母は自分に嫌がらせでもしたいのだろうかと思う。
すべては母に賄賂を送った人間が母のお気に入りになっているのだから仕方がないだろう。
「お願いでございますよ。このわたくしはあなたさまのためを思って動いているのですからね」
「はい。大変ありがたく思っております」
母の言葉に、澄瑜は笑みを顔に貼り付けて一礼した。
ようやく桂葉宮から出ると、廊下で腹心の宦官の
「じゃ、後宮を出るぞ」
すると韓策がくすりと笑う。
「皇太后陛下に置かせられましては、いかがでございましたか?」
「相変わらずだ。ああ、韓策。絶対尚食局のものを守れ。母上のこと。無実の者をどうにかするかもしれない」
「お食事でなにか問題でもございましたか」
「あった。母上の膳が冷えており、味も薄かったのだという」
「お毒見に時間がかかったのやもしれませんな。しかし御膳が不審というのも気になるものです。調べておきましょう」
「……そうだな。調べてくれ」
「それから、このあと
「翠楊宮? なぜ……ああ、
自分との縁談が出ている。静蓮の妹だ。
当初は期待した。静蓮の妹であれば彼女に似ているだろうと。この奇妙な心の痛みも癒やされるのではあるまいか、と。しかし、実際会ってみれば静蓮とは全く似ていなかった。
(やはりこの世に静蓮様は静蓮様ただお一人なのか……虚しいな)
人が死ぬ、ということの重みが胸にずっしりと迫ってきた。
「朝議もある。顔だけ見せて帰る」
嫌な仕事はまとめてやってしまうのが澄瑜の流儀である。
なぜか、桂葉宮と翠楊宮のあいだの廊下にはごみが散乱していた。
韓策は配下にすぐ掃除させながら言う。
「掃除を誰かが怠っていたようですね」
澄瑜は笑いながら返す。
「母上か夏白公主かの下女がサボってるんだろ」
「いけませんね。厳しく叱りつけなければ」
澄瑜から見れば生真面目すぎるほど真面目な韓策は目を少し鋭くした。
「知ったことか。母上か夏白公主の監督不行き届きなのが悪……」
少し薄気味悪さを感じさせるぬるい風がふわりと二人のあいだを駆け抜けた。
澄瑜が少しその風が吹いていった方向を見れば、柳の大木が庭にあった。柳の葉が大きく揺れた。
「柳か。柳の下には幽霊が出ると聞くな。庶民がよく言ってる」
澄瑜が軽口を叩くと、韓策が眉をひそめた。
「宮城を抜け出して遊びに行かれているのですか? 主上、御身をおいといくだ──」
その柳の大木の影から、女が出てきた。ひどく顔が青白い。ぼさぼさの長い黒髪で、しかもやせ細っていて、額や口から血を流している。
韓策が「……」と言葉を失っている。
「ゆ、幽霊か?」
澄瑜が焦ったように笑い、肩をすくめた。
女はこちらを向いた。
その瞬間、澄瑜は幽霊の実在を信じた。
彼女がここにいるわけはない。彼女は死んだのだから。静蓮はもうこの世にいないのだから。澄瑜の選択のせいで苦しんで、自ら命を絶って。
つう、と彼女の額から頬に血が伝った。ぽたり、とその顎から血の雫がこぼれ落ちる。
ふらふらと、澄瑜は幽霊のほうへと向かっていった。
「……ああ、そうか。余を殺しに来られたか」
正気に戻った韓策は澄瑜を引き止めるように叫んだ。
「主上! どうなさいました。お戻りください!」
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