悪役令嬢の罪と贖い 奴隷市場を更生施設に変えて世界を変えるまで
@jinka_hatsu
悪役令嬢の罪と贖い 奴隷市場を更生施設に変えて世界を変えるまで
――リリエ・フローレスの手記より
わたくしの名はリリエ・フローレス。小さな領地を構える下級貴族の娘です。それなりの誇りと家柄を保ってきた家ですが、近年の貿易不振に加え、父が続けて失敗した投資のせいで、いつしか多額の借金を背負うようになってしまいました。
母が健在だった頃は、彼女の必死の立ち回りによって家の体面だけは辛うじて保たれていましたが、母が病で他界すると同時に、わたくしの家は急速に凋落の道をたどることになったのです。
それでも、わたくしには心の拠り所がありました。
――豪商カイン・スタイン。
わたくしより数歳年上で、若くして商会を大きくし、王都でも名前の知られた商人です。幼少期に慈善活動で手伝いをしていたある日、カインと出会いました。彼の大らかな笑顔、そして自分の力で未来を切り拓いていこうとする強い意志に惹かれ、自然と心を通わせるようになったのです。
彼のそばで過ごす時間は、わたくしにとってかけがえのない宝物でした。いつか正式に婚約をして穏やかな家庭を築けるなら、どんなに幸せだろう……わたくしは日々、そんな夢を抱いていました。
けれど、その小さな夢はあの夜会を境に音を立てて崩れ落ちることになります。
◇◇◇◇運命を変えた夜会
わたくしが父とともに招かれたのは、王都郊外の伯爵家が催した夜会でした。目立たないようひっそりと振る舞おうと心がけていましたが、すでに没落の噂は広まっており、会場ではちらほらと冷笑や皮肉を含んだ視線が投げかけられます。
カインは積極的にわたくしに声をかけ、周囲の視線から救い出そうとしてくれました。
「リリエ、辛いなら早めに馬車を呼んで帰ることもできる。どうする?」
「ありがとう、カイン。でも……あなたのそばにいるだけで、わたくしは大丈夫よ」
そう言って、そっとカインの胸元に手を重ねると、彼はやわらかく微笑み返します。心臓がどきりとするほど、幸福なひとときでした。
――しかし、その光景を不快そうに見つめる男がいました。
エヴァン・アルバート公爵。中央評議会に籍を置き、王宮にも強い影響力を持つ名門公爵家の当主です。
彼はあえてわたくしたちに肩をぶつけるように通り過ぎ、わたくしはバランスを崩して倒れてしまいました。ほとんど嫌がらせにも等しいその行為に、カインは怒りを抑えきれなかったのでしょう。
「公爵様ともあろうお方が、やけに機嫌が悪いようですね。舞踏会で酔いつぶれて転んでしまわれませんように」
その皮肉まじりの言葉を耳にした公爵は、ピクリと眉を動かし、冷たい目でこちらを振り返りました。
「……今、誰に口をきいているか分かっているのか?」
――その場の空気がぴたりと凍りつきます。
わたくしはカインの袖を必死に引っ張りましたが、カインは引き下がらず、肩をすくめながら続けます。
「貴族だからといって、何をしても許されるわけではないでしょう」
エヴァン公爵の眉がさらに険しくなりました。嫌な汗が背中を伝うのを感じます。ここで謝罪すればまだ収まりがつくかもしれない。けれど、カインは頭を下げなかった。まるで理不尽な圧力に屈するのを断固拒むように――
そんなカインの態度が、より一層エヴァン公爵の癇に障ったのは間違いありません。
「……無礼者が」
鋭いその声と視線に、わたくしは底知れぬ恐怖を覚えました。そこから先はあっという間――わたくしとカインは夜会を追い出され、さらに公爵家筋の圧力がわたくしの家やカインの商会にまで及んでいったのです。
◇◇◇◇屈辱の婚姻
夜会での一件の後、公爵家からの嫌がらせや圧力がわたくしの家をじわじわと追い詰めました。父の抱える借金の返済期限も間近に迫り、もはや万策尽きたかと思われた頃――エヴァン公爵自身が突然、借金を肩代わりする形でわが家を救うと宣言したのです。
しかし、その交換条件はあまりにも非道なものでした。
「借金を肩代わりしてやる代わりに、その娘……リリエ・フローレスをわたしの妻として差し出せ」
父は泣きながらその提案を断ろうとしたそうですが、相手は公爵。逆らえば一家の追放どころか、わたくし自身がどんな目に遭わされるか分からない。やむを得ず、わたくしは犠牲となる道を選ばされました。
「すまない、リリエ。おまえを守ってやれない……」
父の痛ましい嘆きに、わたくしも胸が締め付けられる思いでした。けれど、家が潰されれば使用人たちや幼い親戚まで路頭に迷うかもしれない。カインが借金を肩代わりするという案も考えましたが、王家にまで影響力を持つ公爵家は借金云々では済ませないでしょう。カインやその仲間がどんな報復に遭うか分からない――
わたくしは苦悩の末、公爵家に嫁ぐ決意を固めました。
その夜、わたくしはカインにひそかに会いに行き、すべてを打ち明けました。彼は激しい怒りをあらわにし、何とかしてわたくしを救おうと申し出てくれましたが、公爵家の力はあまりにも大きい。
「カイン、わたくしは必ず戻る。だから……待っていて……」
「……リリエ……分かった。僕はどんなに時間がかかっても待つ。絶対に、君を助け出す方法を探すから……」
別れ際、カインの瞳からこぼれ落ちそうな悔しさが痛いほど伝わりました。わたくしも涙をこらえきれず、彼の手を固く握りしめたまま、その夜を最後に彼の前を去ったのです。
◇◇◇◇公爵家の魔窟
エヴァン・アルバート公爵家は王都でも指折りの豪奢な区画にありました。高く分厚い塀の内側には、ほとんど小さな城のような大きな屋敷。
けれど、門をくぐった瞬間に肌で感じる冷たい空気――そこにはどこか異様な影が差していました。
わたくしは形式上だけの婚礼を済まされ、公爵夫人という立場にはなりましたが、その実態は「借金のカタ」。親族やメイド、執事たちも、わたくしに心からの敬意を払うわけではなく、むしろ怯えたような、あるいは憐れむような目でわたくしを見ているようでした。
そんな中、わたくしが唯一心を許せるかもしれないと思ったのは、公爵家に仕える年配の女性・エレナでした。老女と呼ぶにはまだ若い印象で、四十代半ばくらいでしょうか。メイド頭でもなければ執事でもない。けれど、公爵家に長く仕えているらしく、あちこちの仕事を手伝いながら屋敷を行き来しています。
メイドたちがわたくしを「奥方様」と呼ぶだけでそそくさと立ち去ってしまうのとは違い、エレナはいつも穏やかな笑みを向け、言葉少なに気遣ってくれました。
「奥方様、少し疲れていらっしゃるようですね。今朝はほとんどお食事を召し上がっていないようですが……」
「い、いえ……何だか食欲がわかなくて……」
そう答えるわたくしの前に、エレナはそっと温かいスープを差し出します。
「無理はなさらないで。もし何か心配事やお困りのことがあれば、遠慮なくおっしゃってくださいね」
わたくしはその時はただ、「優しい人だな」と思っただけでした。どこか陰のある微笑みではありましたが、わたくしにとっては救いの手を差し伸べてくれる貴重な存在――。
けれど、まさか後になって、わたくしがこの人の秘密を知ることになるとは、その時のわたくしには予想もつきませんでした。
◇◇◇◇脅迫の夜
夫婦として迎え入れられたのに、エヴァン公爵はわたくしをまるで所有物のように扱います。夜ごと、酒に酔ってはわたくしの部屋へ押しかけ、一方的に体を求めようとするのです。
わたくしは怖くてたまりませんでした。結婚の義務として夫の求めに応じるのが当然と世間は言うかもしれませんが、そこに愛もなく、ただ脅しと欲望だけが存在する行為に、心が壊れそうになるのを感じます。
ある夜――わたくしが拒否し続けるのに苛立ったのか、エヴァン公爵はわたくしの髪を乱暴につかみ、壁際へ押しやりながら低い声で言いました。
「おまえは借金の代償として手に入れた女だ。わたしがどう扱おうが自由だろう?」
「や、やめて……っ」
わたくしは必死に声を上げますが、まったく聞き入れてもらえません。部屋の外にはメイドたちがいるはずなのに、誰ひとり助けに入ってこない。こちらを見てもすぐに目をそらし、足早に逃げ去っていくのです。
公爵家では、エヴァン公爵の機嫌を損ねればどんな仕打ちを受けるか分からない。メイドも使用人も、すっかり萎縮させられているのでしょう。結局、わたくしは孤立無援の状態で、公爵の凶暴な欲望に耐えるしかありませんでした。
そんなわたくしに、時折、こっそり薬や温かいタオルを持ってきてくれたのがエレナです。彼女は屋敷の空気を読み、夜中にひっそりと部屋へ来ては、声を潜めてわたくしの手を包み込み、震えるわたくしを慰めてくれました。
「奥方様、これを飲むと痛みが和らぎます。……あまり大きな声では言えませんが、わたしも、かつて……」
そこから先は言葉にならなかったようで、エレナは俯いて涙をこぼしそうな表情を見せました。
その日は何も問いたださず、ただ彼女の優しさに救われるだけで精一杯でした。
◇◇◇◇突然の惨劇
ある晩のこと。エヴァン公爵は普段にも増して酒に酔っていました。わたくしを隣に座らせて人目もはばからず体を弄ぼうとしたり――まるで荒れ狂う獣のようでした。
耐えきれずに部屋に戻ろうとしたわたくしを、公爵は乱暴に引き止め、寝室のベッドに押し倒してきます。わたくしは震える声で「助けて……」と漏らしながら、がむしゃらに抵抗を試みました。
――しかし、相手は鍛えた男。か弱い娘の力では太刀打ちできません。
絶望がわたくしを支配しかけた、その瞬間。唐突に、エヴァン公爵の体ががくりと揺れ、大きく崩れ落ちたのです。
「……何……っ、ぐあああっ……!」
鋭い悲鳴が響き、わたくしは息を飲みました。目の前には、血に染まったナイフを握るエレナの姿があったのです。
床に倒れたエヴァン公爵の背中からは、見るもおぞましい赤黒い液体があふれ出していました。わたくしはその場で体が硬直し、声すら出せません。
一方、ナイフを握ったエレナは荒い呼吸をしながら、苦しげに呟きました。
「奥方様……もう大丈夫……もう、あなたを……苦しめさせない……」
その瞳には怒りや憎しみ、そしてわたくしへの哀切が入り混じった、複雑な光が宿っていました。
◇◇◇◇公爵とエレナの因果
屋敷中が大混乱となり、執事が悲鳴を上げて衛兵を呼びに走りました。わたくしはエレナの手からナイフが落ちるのを見届けると、彼女を抱きしめて問いかけます。
「エレナ……あなた、どうして……」
エレナはうわごとのように言葉を繰り返しました。
「わたしは……元はこの家の奴隷でした。エヴァン公爵が若い頃、自分の欲を満たすために人身売買をしていた事実があったのです。わたしは……公爵に買われ、何年も……何年も……」
聞くに堪えない残酷な仕打ちを、エヴァン公爵から受け続けてきたというのです。愛した家族も理不尽な形で失い、彼女の心は長年、復讐の念に苛まれ続けてきたと。
「わたくしは今まで、怖くて何もできませんでした。でも、あなたが苦しむ姿を見ているうちに……もう二度と同じ悲劇を繰り返させないためにも、やらなければならないと思って……」
そう言って涙を流す彼女の表情には、悲壮感さえ漂っていました。
もう間もなく、エヴァン公爵は血だまりの中で事切れます。まさか、あの圧倒的権力者がこんな最期を迎えるなんて――屋敷の誰もが茫然としていました。
◇◇◇◇捕えられたエレナ
駆けつけた衛兵は現場を見て絶句した後、すぐにエレナを取り押さえ、手錠をかけました。わたくしは必死にエレナを庇おうとしましたが、衛兵たちは殺人という重大な罪を見逃すはずもありません。
「これは明白な殺人罪だ。いくら理由があろうとも、許されない行為だ」
エレナは公爵が息絶えるまでのあいだ、ずっと彼を睨みつけていましたが、やがて静かに目を閉じ、衛兵に連行されていきました。
その背中を見送りながら、わたくしは胸が裂かれる思いでした。公爵がわたくしにしてきた暴力の数々、そして過去にエレナを奴隷として扱い苦しめた罪――それらを考えれば、エレナの行動を一概に否定することがわたくしにはできなかったのです。
しかし、殺人は決して正当化されないのも事実。エレナは裁かれなければならない立場になりました。
◇◇◇◇未亡人
こうしてエヴァン公爵は非業の死を遂げ、わたくしは正式には「公爵夫人でありながら、夫に先立たれた若き未亡人」という身分になりました。
相続問題はすぐに取り沙汰され、公爵にはほかに嫡出子がいなかったため、わたくしが公爵領の一部を相続することになったのです。
――もっとも、わたくし自身に公爵家の当主となる資格はなく、公爵の位を継げるわけでもありません。それでもエヴァン公爵が残した資産のうち、「奴隷市場を含む一部の不動産」を所有することは確定しました。
そして、わたくしは噂好きな人々から「夫を殺させた悪女」「公爵を誘惑し、何か陰謀を企てた魔性の女」と、いずれわたくしは『悪役令嬢』のように呼ばれるようになりました。
――本当のところはまるで違う。
それでも、嘆いてばかりはいられません。わたくしには守りたい人たちがいる。自分自身を、そしてカインや――あの苦しみを抱えたまま捕えられてしまったエレナを。
◇◇◇◇奴隷市場の相続
エヴァン公爵が残した財産目録を調べているうちに、わたくしの目に止まったのが「奴隷市場」という言葉でした。王都の外れに広がる裏通りの一角に、公爵家が所有する大規模な奴隷売買の拠点が存在していたのです。
奴隷制はこの国で完全に廃止されているわけではありません。犯罪者や莫大な借金を負った者、あるいは戦争で敗れた異国の人々などが売買の対象となり、権力者たちはそれを利用していた――。
エレナもおそらく、この市場を経由して公爵の手に渡ったのでしょう。
わたくしはその市場の実態を知るにつれ、強い嫌悪感と怒りを覚えました。こんな非人道的な施設が公爵家の主要な収入源のひとつだったなんて……。
しかし同時に、わたくしはそこに「変革の余地」を見出したのです。
――すでに公爵は死んでいる。わたくしはその施設を引き継ぐ立場にあり、その運営方針を根本から改める権利を持っている。
ならば、わたくしはこの奴隷市場を利用して、人々を救う仕組みを作れないだろうか……?
◇◇◇◇解放と雇用の拠点へ
わたくしがまず最初にしたことは、市場を監督している管理人や商人たちを集めて、わたくしの意図を宣言することでした。
「これより、この奴隷市場の形態を大きく変えます。今ここにいる奴隷たちは、わたくしがしかるべき金銭を支払うことで買い取り、解放する手続きを進めます。将来的にはここを『自由労働者の雇用拠点』として再編したいのです」
初めこそ「何を言い出すのか」と驚きと困惑の表情を浮かべていた商人たちですが、わたくしは公爵家から相続した資金を背景に、彼らとの交渉を進めました。
彼らにとっても大事なのは「利益」です。最初は「奴隷をなくすなど無理だ」「買い取りの費用は莫大だ」などと反対の声もありましたが、わたくしはあえて彼らの利害を利用しながらこう提案しました。
「わたくしは解放した元奴隷たちを雇用し、あるいは働き口を斡旋します。その過程で新たなビジネスや物流の動線が生まれ、あなたたちには正当な報酬を支払う。奴隷の売買による単純な利益よりもはるかに継続的な利益を得られるかもしれない――その可能性を探ってみてほしいのです」
次第に管理人たちはわたくしの計画に興味を持ち始めました。政治的には「若き未亡人が公爵の事業を継ぐ」という話題性もあり、もしこの事業が成功すれば管理人や商人たちも大きな富と名声を手にできるかもしれない――そう踏んだのです。
もちろん、裏には多くの困難や反対勢力が潜んでいました。それでも、わたくしは進むしかありません。自分の手で多くの人を救い、悲劇を繰り返さないために。
そして、この改革にはどうしてもある人物の力が必要でした。――カイン・スタイン。
カインは独自の商会ネットワークを持ち、物流や金融にも通じています。わたくしは心苦しい思いを抱えながらも、彼に助力を依頼する手紙を書きました。
◇◇◇◇愛は消えず
手紙を送ってほどなく、わたくしの元にカインからの返事が届きました。そこには迷いながらも協力を申し出る内容が綴られていたのです。
再会の日、わたくしは震える手を抑えながら、控えめな部屋でカインと向かい合いました。
「リリエ……君がそんな大きな変革を計画しているなんて、正直驚いたよ」
「……ごめんなさい。わたくしはあの夜……あなたに何もかも背負わせたまま、公爵家に行ってしまった。もしかしたら、二度と会えないかもしれないとさえ思っていたの」
わたくしの言葉に、カインは少しだけ切なそうに笑みを浮かべました。
「僕も、最初は失意に駆られた。でも、君が幸せになれる道があるならそれを応援しようとも思った。でも……結果はこんなことになってしまったんだね」
その声には、わたくしを責める響きはありませんでした。むしろ、同情と憤りが入り混じった複雑な想いが伝わってきます。
わたくしは覚悟を決めて、一連の出来事――公爵の暴虐、エレナの復讐、奴隷市場の現状と改革への思い――をすべて語りました。最後に、強い決意を込めて言います。
「わたくしは、もう誰にも踏みにじられたくありません。そして、同じように苦しむ人を見過ごしたくないんです。カイン……あなたの力を貸してくれませんか?」
カインは静かに目を伏せた後、「もちろん」と頷いてくれました。
「僕はずっと、君のことを想っていた。公爵家に奪われたような気持ちに押し潰されそうだったけど……今の君の瞳を見て思ったよ。僕も君と一緒に、この国を変える手伝いをしたい」
わたくしは、その言葉に胸がいっぱいになりました。公爵の妻という立場を得ても、何一つ幸せになれず、それどころか多くの悲惨を目の当たりにしてきたわたくし。だけど、カインはそれを責めたり笑ったりせず、再び手を差し伸べてくれる――。
わたくしは目に涙を溜めながら、カインの手をぎゅっと握りました。
「ありがとう……わたくし、必ずこの奴隷市場を、人を救う拠点に変えてみせます」
こうしてわたくしは再びカインとともに歩み始め、奴隷市場を改革する道を突き進むことになったのです。
◇◇◇◇エレナの裁判とその行方
一方で、エレナは公爵を殺した罪で裁判にかけられていました。
裁判で明らかになったのは、公爵がかつて多くの人々を奴隷として扱い、私腹を肥やしていた事実。そしてエレナがその被害者の一人であったこと――これらの情報が、わたくしやカインの尽力によって証拠と証言として提出されました。
結果として、エレナは殺人罪に問われながらも「極度の精神的追い詰め」「公爵自身の重罪」との関連から、当初想定されていたよりも軽い刑期が言い渡されることとなったのです。
「わたしは……殺人者です。でも、あなたを救えたのなら、それだけが救いです……」
裁判の後、エレナはわたくしに微笑みかけ、そう言い残して護送馬車に乗せられていきました。その姿はどこか晴れやかなもので、長きにわたる復讐心が少しだけ報われたのかもしれない、とわたくしは感じました。
わたくしは必ず、彼女が出所してきたときには、自分が築いた新しい世界を見せてあげたい――そう心に誓ったのです。
◇◇◇◇奴隷市場改革の道
わたくしはカインの商会ネットワークと、わたくしが相続した公爵家の資金を駆使して、「奴隷の解放」と「新しい雇用の創出」を目指しました。
まず、わたくしは市場に出されている奴隷たちを公爵家の資金で順次買い取り、自由の身に戻す手続きを進めました。カインの商会が一部出資し、さらに慈善活動や投資家の協力を呼びかけることで段階的に対応していきます。
次に、解放した元奴隷たちは、字の読み書きや計算など、最低限の教育機会すら奪われているケースが多い。そこで、市場跡の建物を改装して学習の場を設け、職業訓練や技能支援を行うことにしました。
かつての奴隷市場を人材紹介所のような形に作り変え、元奴隷たちが自分の意思で仕事を選び、労働契約を結べる仕組みを整備します。雇い主側にもメリットを示し、正当な賃金や労働条件が守られるよう、カインやわたくしが保証人となることで不正を防止。
これらの取り組みを続けるうちに、はじめは「悪役令嬢が突拍子もないことを始めた」と冷ややかだった周囲の目にも、少しずつ変化の兆しが現れました。
同時に、わたくしが公爵家の政治的パイプや、人脈を利用できる立場にあることも大きかったのです。「リリエ・フローレスは悪女かもしれないが、金と権力は持っている」と認知された結果、政界や貴族社会も完全に無視できない状況になりました。
◇◇◇◇再会の誓い、そして未来へ
資金管理や現場の監督で休む暇もなく、カインは商会の事業拡大と絡めて市場外の職場を紹介するなど、双方で奔走する日々。
そんな忙しい中でも、わたくしはカインとときどき食事を共にし、ささやかな時間を過ごすことができました。わたくしにとって、そのひとときは何にも代え難い癒やしの時間です。
ある晩、わたくしたちは市場に近い小さな屋敷――元はわたくしの父が残した古い建物を改装したもの――で、久しぶりに二人きりでゆっくり話す機会を得ました。
「リリエ、君がここまでやるなんて、正直最初は想像してなかった。君は本当に強くなったね」
「……強く、なったというよりは……そうしないと生きていけなかっただけ。でも、カインに支えられなければ、きっと途中で挫けてしまったわ」
わたくしがそう呟くと、カインはゆっくりとわたくしの手を取りました。
「僕は君がやりたいことを応援しているだけさ。だけど、これからは……僕のそばに、ずっといてくれるかい?」
彼の瞳に映るわたくしの姿は、もうかつての頼りない貴族の娘ではありません。わたくしは微笑み、カインの申し出にこくりと頷きました。
「わたくしも、あなたのそばにいることを望んでいます。わたくしがどんなに悪女呼ばわりされようと、もう怖くない。あなたにだけは、本当のわたくしを知っていてほしいの」
わたくしは彼の胸に顔を埋め、ずっとこらえていた涙を静かにこぼしました。悲しみも苦しみも、今まで抱えてきた想いも、すべてを受け止めてくれる人がここにいる――その事実が、何よりも心強く感じられたのです。
◇◇◇◇エレナとの再会
それからさらに月日が流れ、奴隷市場の改革がある程度形になった頃。わたくしはある知らせを受けました。――エレナの刑期が短縮され、出所が許可されたというのです。
わたくしやカインが政治的に働きかけ、公爵の悪行について改めて証拠を提示したことが功を奏した面もあるでしょう。
わたくしは市場改革の一環で立ち上げた新施設でエレナを待ち受けました。大きな門の前に立つわたくしを見つけると、エレナは静かに一礼します。
「エレナ……おかえりなさい」
「リリエ……奥方様……いえ、もう今は貴女を奥方様とお呼びすべきではないですね」
エレナは遠慮がちに微笑みました。目の下に隈があり、多少やつれた様子ですが、それでも拘束されていた頃の痛々しさは薄れています。
わたくしはそっとエレナの手を取って言いました。
「今はただ、リリエと呼んで。わたくしはあなたに助けられた。あの日がなければ、わたくしは公爵の手で壊されていた。だから……ありがとう。そして、ごめんなさい。あなたに重い罪を負わせてしまって……」
わたくしの目に涙が滲みますが、エレナは首を振り、かすかに笑みを浮かべました。
「わたしは救われたのです。あの長い苦しみから。……もし、わたしにできることがあるなら、力にならせてください。この場所で、わたしのように苦しむ人を一人でも減らせるように」
わたくしはその言葉に胸が熱くなりました。彼女の痛み、そしてわたくしの痛み、すべてを背負って新しい未来を築く――そんな希望が、今ここにあるのだと。
◇◇◇◇新たな祝宴
奴隷市場跡地の施設が軌道に乗り始めると、わたくしとカインはささやかな祝宴を開くことにしました。かつての市場で人々が苦しんでいた場所は今、解放され、学びや交流の場として活気を帯びつつあります。
招いたのはカインの商会仲間や、解放された元奴隷たち、そしてエレナをはじめ、施設運営を手伝ってくれている人々。皆、ドレスやタキシードなど厳めしい礼装はせず、気楽な装いで集まってくれました。
わたくしはその光景を眺めながら、そっと息をつきます。かつて公爵家の豪奢な舞踏会で感じた息苦しさとは正反対の、和やかな空気がここにはありました。
「リリエ、少し外の風を浴びに行こうか」
カインが耳元で囁き、わたくしは軽く頷いて腕を組み、施設の中庭へと足を向けます。夜空には月が優しく照らし、たくさんの星々がまたたいていました。
「ここまで来るのに、本当にいろいろあったわね……」
「ああ。でも、君は乗り越えてきた。すごいと思うよ」
言いながら、カインはわたくしの肩を抱き寄せます。その温もりが、どんな言葉よりも安心をくれました。
「昔は……こんな景色をあなたと一緒に眺めるなんて、叶わない夢だと思っていたのに」
「もう夢じゃない。これから先も、僕は君の隣にいるよ」
わたくしはカインと目を合わせ、自然と微笑みがこぼれます。
かつて公爵家で踊った華やかなワルツや、上流貴族の舞踏会など、思い出せば悪い夢のよう。今のわたくしにはもっと大切なことがあると感じるのです。
わたくしは優しい月光の下で、カインの胸に身を委ね、その鼓動を聞きながら静かに言葉を交わしました。二人で同じ夜風を吸い、同じ星空を見上げ、互いの存在を確かめ合う。
周囲からは今でも「悪役令嬢」「魔性の未亡人」などと囁かれ続けています。だけど、もう気にしない。エヴァン公爵の死とエレナの罪は、わたくしの中で決して消えない傷かもしれませんが、その傷を抱えてでも前に進むと決めました。
わたくしはもう何者にも屈しない。カインと手を携え、エレナや解放された人々と新しい未来を築くために。
夜空に浮かぶ月は、穏やかな光をわたくしたちに注いでいます。
わたくしはカインの腕の中で、そっと瞼を閉じ、深く息を吸いました。もはや誰にも奪われることのない、小さな幸せを噛みしめるように。
――この一瞬こそ、何よりの祝福であると信じながら。
悪役令嬢の罪と贖い 奴隷市場を更生施設に変えて世界を変えるまで @jinka_hatsu
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