17話 天敵

 ※


 あの日のことを忘れたことなど一度もない。

 赤に染め上げられた世界で、その銀髪だけが輝いて見えた。

 見た目も声も、何より対峙しただけで膝を折ってしまう程の威圧感。全てがあの日のままだ。十年間、影も形も掴めなかった存在が今ここにいる。


「殺す! 絶対に!」


 このチャンスは絶対に逃さない。綾音は怒りを力に変えて刀に力を注ぐ。

 しかし、


「すまないけど、どこかで会ったことがあったかな?」

「――」


 言葉を失った。煽りじゃない。ぬらりひょんは本当に困っている。全てを奪っておきながら、綾音のことを忘れている。


「ふざけるな!!」


 咆哮し、一度刀を引いて構え直すと、技を放った。

畝水うねりみず!」

 この技は、湾曲した斬撃を放つことで敵に軌道を読ませないことを強みにしている。これならさっきみたいに防がれることもない。


(捉えた!)


 完璧なタイミング。必ず当たる確信があった。


「ああ、成程」


 なのに、空振った。まるで霞を斬ったみたいになんの手応えもなく、いつの間にかぬらりひょんは綾音の横に立っていた。


「音無流……。思い出したよ。水蓮寺楓の妹か。生きていたとは驚きだ。元気そうで何よりだよ」

「ふざけるな!!」


 憤怒をそのままに、横薙ぎに刀を振おうとする。しかし、ここで綾音の身体に異変が生じた。


(――動かない)


 慣れ親しんだはずの霊刀が、岩のように重い。半回転すればいいだけなのに、足が縫い付けられたかのように感じる。いつも当たり前に吸えている空気が、全く肺に入ってこない。


「何を……した……」

「特に何も。――ただ君が、僕の存在に耐えられなくなっただけだ」

「そんなわけ……」

「残念ながら事実だ。カエルが蛇に睨まれたら動けなくなるように、生き物というのは絶対的捕食者たる『』に出会った時、ただ怯え、身をすくませることしかできないものだ。そして、君たち人類にとって、僕がそれに該当するだけの話さ。恥じることはない。むしろ君はよく持った方だよ。あの世で姉に誇るといい」


 ぬらりひょんが手のひらを綾音の顔に向かってかざした。


 何か来る。それも確実に致死に達する何かが。今すぐにでも回避行動を取らなければ終わる。頭では理解できているが、体が言うことを聞かない。


(やっと見つけたのに、やっと仇を取れると思ったのに、……これで終わり?)


 一矢報いることすらできずに、残飯でも処理するみたいに殺される。


(いやだ、いやだ! 死にたくない、まだ死ねない)


 しかし、どれだけ悔しがろうが憤ろうが、身体が動くわけではない。


(クソ!)


覚悟を決め、目を閉じた刹那だった。


「させないっスよ!」


 聞き慣れた後輩の声と共に、鈍い打撃音が耳朶打った。


 ゆっくり瞼を開くと、ぬらりひょんは数メートル離れた場所にいて、目の前には代わりに黒瀬誠が立っていた。




「君は……、何者かな?」


 突然、降るようにして飛んできたパンチを、防いだ右腕をさすりながらぬらりひょんは訊いた。

「警視庁対魔マイナス課の黒瀬誠です!」

 溌剌と自己紹介する誠。そんな元気いっぱいの青年見て、ぬらりひょんは目を細めた。


「……面白いな君は。僕を相手にしてそこまで自然体な人間には会ったことがないよ。大抵の場合は、あそこで伏せている金髪の子のようにすぐに動けなくなるんだけどね。まぁ、たまにそこの水蓮寺楓の妹のように義憤で無理やり身体を動かす人間もいるが、それも数手が限界だ。……なのに、君は当たり前のように僕と対峙している。どういうわけかな?」

「どう、と言われても、さっきチョロっと聞こえた話的に、貴方を前にすると恐怖で動けなくなるってことですよね? だったら、俺には関係ないです。――だって俺、恐怖がないですから!」


 両手を腰に当て、胸を張れるだけ張って誠は答えた。


「恐怖が……ない」


 きっと想像と違った返答だったのだろう。ぬらりひょんは顎に手を添え、何やら誠をジロジロと見て考え込んでいるようだったが、


「フフ、成程。普通なら強がりか虚言だと吐き捨てるところだが、――うん、どうやら本当らしいね」


 ニヤリと怪しく笑った。


「であれば、君は正しく、恐怖を糧として、恐怖を操る妖魔僕たちの『』と言えるわけだ」

「? ……まぁ、そうなるんですかね?」


 しっくり来ず、誠は首を傾げる。


「そうかそうか。今日は、組織に内緒で勝手をした幻蟲君を罰しにきただけだったんだけど、とんだ掘り出し物が見つかったね」 


 たまには遠出もしてみるものだ、とぬらりひょんは苦笑した。


「えーと、ずっとよく分かんないですけど……」

「ああ、すまないね。――要するに、今日はお暇するということだよ」


 と言って、ぬらりひょんはクルリと背を晒した。


「あれ? そんな話でしたっけ?」


 会話に整合性がなくて、誠は首を傾げた。


「待……て…」


 背後にいた綾音が声を捻り出す。そんな彼女を見て、銀髪の妖魔はわがままな子供を嗜めるような笑顔で言った。


「そうせっつかなくても、またすぐに会えるさ」

「何を……」


 綾音の問いに、ぬらりひょんは答えなかった。代わりに、ビュウと視界を阻む一陣の風が吹いた。


 そして、風が止んだ時には、ぬらりひょんの姿はどこにもなかった。


「消えちゃった……」


 ポツリと誠が呟く。


「……どこに」


 綾音が周囲を散策しようとするが、その意思に反して身体はフラフラだった。


「ああ、ダメっスよ無茶しちゃ」

「クソ……」


 忌々しそうに綾音が吐き捨てる。彼女自身も追跡は不可能であることは悟っていた。十年、いや、もっと前から人間の追跡を躱し続けているんだ。あの妖魔が本気で姿を隠せば、たった数人の捜索で見つかるはずもない。


「んー、まぁ、また会えるって言ってましたし、そんなに気に病まなくても大丈夫でしょ。とりあえず、今日は帰りましょ」

「……ええ、そうですね」


 綾音の返答に満足したらしく、「俺、キララさんの様子見てきますね」と言って、誠はシュタタタと、同じく体調が悪そうなキララの元に走って行った。


「大丈夫ですか?」

「ええ、問題ありませんわ。貴方こそ無事ですの?」

「はい! この通り無傷です!」

「……色々統合すると、貴方が一番恐ろしいですわね」


 そんなやり取りを背中で聞きつつ、綾音は無力感と悔しさで拳を強く握り締め、天を仰いだ。


 今は、それしかできなかった。

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