『わさびは恋のスパイスにはならない!~わさび農家の娘が恋したのは、嘘を抱えた都会の社長でした~』
ノスケ
第1話 狭い世界を抜け出して
「山瀬さーん、これもお願いね」
今日も葵の机の上には誰が見てもやる気を削がれるような書類の山が築き上げられていた。カタカタと響くキーボードの音、遠くで目詰まりを起こすコピー機。乾ききった空気の中でふいに後ろからかけられた声に振り向くと、そこには上司の姿があった。
「それ今日中だから」
無慈悲にも山が高くなる。葵が立ち上がって目をやると、営業部、と書かれたファイルがあった。
「えっ、でもこれ営業の」
「じゃあよろしくね」
すでに話し手は人混みに紛れてしまった。葵の反論など、最初から聞く気はなかったのだ。
(どうしてこんな日常に慣れちゃったんだろ。憧れてたのってこんなのじゃなかったのに)
山瀬葵24歳、憧れていたOLの世界は入社1時間で崩れ去り、3年目の今はただ仕事をして家に帰って寝て、また会社に来る日々を過ごしている。
「わさびちゃんお疲れー、また頼まれてたね」
休憩時間になって隣の席にいた女の子が話しかけてくる。柏木桃、彼女も葵と同時期に入社した同僚だ。会社の中で数少ない愚痴を言い合える仲間である。
二人で会社を出て、ランチに向かう。ランチと言っても、会社近くにある五百円のカツ丼屋だ。優雅さはない。
「なんか思ってたのと違ったよねー」
席に座るやいなや、桃はいつもように愚痴を溢す。ただ、これには葵も同感だった。
「ね、もっと華やかな生活を想像してたのに」
「そうそう、私たちは残業の為に生まれてきたんじゃないっての!」
比較的口数の少ない葵と違って、桃はコミュニケーションが得意だ。上司に取り入るのも上手い。それでも出世できないのは、この不景気のせいもあるだろう。まぁ、活発過ぎるのが玉に瑕だが。
「やっぱこういうときこそ明るい話題欲しいよねー。ねね、わさびちゃんって好きな人とかいないの?」
葵は唐突に飛んできた質問にお茶を吹き出しそうになった。
「いや、そんな人いないよ……!」
「えぇーそうなのかー、つまんないの。恋が一番の人生のスパイスなのに!」
「なに名言っぽいこと言ってんの。カツ丼屋なのにスパイスて」
葵はただ桃のテンポに振り回されていた。葵に好きな人は居ない。それもそのはず、まずこんなに忙しい環境では出会いすらないのだから。
「さすがにもう社会人だし、そこまで恋で浮かれないと思うよ」
「えーなにその言い方! あ、分かった! わさびちゃん地元にそういう人がいるんでしょ!」
「いるわけないでしょ! 私誰かとお付き合いとかしたことないし……」
運ばれてきたカツ丼から沸き立つ煙を見ながら、葵は過去に会った人たちを回想する。しかし特に気になった人は思い浮かばなかった。異性の幼馴染はいたが、慣れ過ぎてむしろ友達より上にはならなかったことを思い出す。
「えーそれは損だよ! やっぱり恋してなんぼでしょ」
なぜか桃はドヤ顔をしている。確かに彼女はその高いコミュ力を活かして色々な人と付き合っていた。葵は桃と知り合って2年経つが、その間にボーイフレンドを5人ほど紹介された記憶がある。
「そういうモモは今付き合ってる人いるの?」
「いたらこんな話してないよ! なんかどの男も退屈なんだもん、嫌になっちゃう……」
桃はテーブルに突っ伏しながら、ふーっと大げさなため息をつく。
「だからね、ちょっと環境変えてみよっかなって」
「環境って、引っ越しとか?」
「ちゃうわ! 出会いの環境だよ、出会いの!」
桃は葵の目を覗き込む。葵が戸惑っていると桃はにやっと笑みを浮かべた。一呼吸おいて口を開く。
「……そ、こ、で!」
そう言って、桃は急に体を起こして身を乗り出してきた。そして、どこから取り出したのか、封筒を一枚、ぱんっとテーブルの上に置く。
「じゃじゃーん! パーティーの招待状!」
「……パーティー?」
葵が戸惑いながらも招待状を手に取ると、そこには「京極コーポレーション百五十周年記念」の文字が。封筒には光沢のある紙と上品なシーリングスタンプ。明らかに高級そうな雰囲気に、思わず手が止まる。
「すごいでしょ、これ。実はうちの親戚が京極グループの関連会社にいてさ、人数合わせで招待状回してくれたの!」
桃は見たかと言わんばかりにドヤ顔で葵の反応を心待ちにしている。
「でも、なんでそれが恋の話と繋がるの? お見合いパーティーでもないのに」
桃はニヤリと笑って、肘で葵をつつく。
「わっかってないな〜! 京極って言ったら、超・超・超大企業よ? その式典に来るってことは、みんなエリート中のエリートってことじゃん!」
葵はそこまで聞いてなんとなく桃の狙いが掴めてきた。
(この子、まさか……)
「ハイスペお金持ちがいっぱいでしょ! 狙うしかないじゃん!」
(やっぱり……)
葵は目を押さえてうなだれる。まさかここまでとは思ってなかった。けど、桃ならやりかねない。
「そんなにうまくいくわけないでしょ……」
「そんなの行ってみなきゃ分からないってば! それに、式典だからご馳走も出るんだって!」
ご馳走。その言葉に、葵の心が少しだけ揺れる。
(そういえばここ最近、コンビニ飯ばっかりだったな……)
桃はその変化を見逃さなかった。
「ね、せっかくだしさ! 週末くらいちょっと贅沢しようよ!」
「……あ、でも日程っていつ?」
「明日だよ」
「明日!?」
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