第38話 覚悟と、動き出す運命の歯車

「――その必要はない。お前たちにも、同行してもらう」


 静かな、しかし有無を言わせぬ響きを伴ったフードの「主」の声が、部屋に満ちる。その手には一枚の羊皮紙。そして、その言葉は、私とレオンハルト様にとって、まさに青天の霹靂だった。


「ど、同行と仰いますと……!? いったい、どこへ……そして、何を……?」

 レオンハルト様が、驚きと困惑を隠せない様子で問い返す。彼の騎士としての忠誠心と、目の前の謎めいた人物への警戒心が、その表情の中でせめぎ合っているのが見て取れた。


 フードの「主」は、ゆっくりと首を巡らせ、まずレオンハルト様、そして私へとその視線を移した。フードの奥の瞳は、依然としてその全貌をうかがい知ることはできないが、今は確かな、そしてどこか冷徹な光を宿しているように感じられた。


「カイエンには、彼の『組織』が長年追い求めてきた、ある重大な情報……王宮の深奥に隠された『契約』の破片に繋がる手がかりがもたらされた。彼は、その確認と確保に向かった。それは、我々の長年の悲願であり、彼にしか成し得ぬ任務だ」


(契約の破片……ですって? カイエン隊長が、そんな危険な任務に一人で……!?)

 あの鉄面皮で、常に冷静沈着な男の姿が脳裏に浮かぶ。彼が「悲願」とまで言うほどのものが、一体何なのか。そして、それが先ほどの王宮での「不穏な動き」とどう繋がっているというのだろう。


「では、我々は何を……?」

 レオンハルト様の問いに、「主」は私へと視線を戻した。

「レオンハルト=アーヴィング。お前には、引き続きミレイユ=フォン=ローデルの護衛、そして彼女がその『力』を正しく用いるための助力が求められる。……もっとも、お前の騎士道精神が、我々のやり方と相容れるかは分からぬがな」

 その言葉には、微かに皮肉の色が滲んでいた。レオンハルト様は、ぐっと唇を引き結び、何も言い返せない。


 そして、「主」は再び私に向き直った。

「ミレイユ=フォン=ローデル。お前が手にした『書』と、ローデルの血に宿る『力』……。それは、カイエンが追う『契約の破片』と対を成す、もう一方の『鍵』だ。カイエンが得る情報だけでは、真の『契約』の全貌を解き明かすことはできぬ。お前の力が必要となる」


「わ、わたくしの力が……必要……?」

 私は、自分の左手にはめられた銀の指輪を無意識に握りしめていた。この指輪が、そしてこの黒い本が、そんなにも重要なものだというのか。そして、この私自身が……。


「しかし! ミレイユ司書は、戦うための道具ではございません! これ以上、彼女を危険な目にあらせるわけには……!」

 レオンハルト様が、ついに堪えきれぬといった様子で声を上げる。その瞳には、私への純粋な気遣いと、目の前の「主」に対する強い不信感が浮かんでいた。


「危険、か」

 フードの「主」は、レオンハルト様の言葉を鼻で笑うかのように繰り返した。

「騎士よ、お前はまだ理解しておらぬのか? この娘が、その血を持って生まれた瞬間から、彼女の人生に『安全』などという言葉は存在せぬのだ。我々が手を差し伸べねば、いずれ王宮の者たちに捕らえられ、その力を悪用されるか、あるいは秘密裏に葬り去られるのが関の山。……どちらの道が、彼女にとってより『危険』かな?」


 その冷徹な指摘に、レオンハルト様は言葉を失い、悔しそうに顔を歪めた。私自身も、その言葉の持つ否定しようのない真実に、胸が締め付けられるような思いだった。悪役令嬢としての運命からは逃れられたかもしれない。しかし、この「古き血」という新たな宿命からは、どうやら逃れることはできないらしい。


(……静かに本を読んで暮らす……。そんなささやかな願いすら、今のわたくしには許されないというのですね……)

 諦めにも似た感情が、私の心に広がっていく。だが、それと同時に、心の奥底で、何かがカチリと音を立てたような気もした。それは、恐怖や絶望とは異なる、もっと別の……。


「……分かりましたわ」

 私は、顔を上げた。声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

「わたくしに何ができるのか、正直、全く見当もつきません。ですが……このまま何も知らずに怯え続けるのも、カイエン隊長に言われるがままに振り回されるのも、そして何よりも、この胸のつかえ……この『物語』の続きが分からないまま終わってしまうのも、もう我慢なりませんの!」


 私の言葉に、レオンハルト様は驚いたように目を見開き、「ミレイユ司書……?」と呟いた。

 フードの「主」は、静かに私を見つめている。その表情は窺い知れないが、どこか満足げな気配を感じたのは、私の気のせいだろうか。


「それに……」

 私は、一度言葉を切り、そして、ほんの少しだけ頬を染めながら続けた。

「もし……もし、この先に、本当に素晴らしい図書室があって、そこで心ゆくまで読書ができるというのなら……そのためのほんの少しの努力くらいは、やぶさかではございませんわ! ただし! その図書室には、ふかふかのソファと、美味しい紅茶と、あと……できれば、甘いお菓子も常備していただきたいものですけれど!」


 私の、あまりにも俗物的で、しかし切実な願い。レオンハルト様は、そのあまりの変わり身の早さ(?)に、若干呆気に取られている。

 フードの「主」は、今度こそ、くつくつと喉を鳴らして笑った。

「……面白い。実に面白い娘だ、お前は。よかろう。お前のその『渇望』が、我々の助けとなるか、あるいは新たな混乱を招くか……見届けさせてもらおう」


 彼女は、手にしていた羊皮紙を広げ、机の上に置いた。それは、どうやらこの隠れ家を中心とした、広大な地下道の地図のようだった。そして、その地図の一点が、赤いインクで印されている。

「カイエンは、王宮の地下深く……『禁断の書庫』と呼ばれる場所へ向かった。そこには、かつてローデル家が封印したとされる『契約』に関する最重要機密が眠っているという。我々は、別の経路から、その『禁断の書庫』のさらに奥……『星詠みの間』と呼ばれる場所へ向かう」


(禁断の書庫……星詠みの間ですって……!? なんだか、またしても物騒で、そしてわたくしの好奇心を刺激するような名前ですこと……!)


「そこには、お前のその『書』と『指輪』に反応する、古の祭壇がある。そこで、お前は自らの『力』と向き合い、そして『契約』の真実の一端に触れることになるだろう。……もっとも、そこへたどり着くまでに、いくつの『番人』が待ち構えているかは、我々にも予測がつかぬがな」


 私の心は、期待と不安で、再び大きく揺れ動いていた。しかし、もう後戻りはできない。

 私は、ぎゅっと拳を握りしめた。


「望むところですわ! ただし、その『星詠みの間』には、相応の読書スペースと、できれば仮眠用の寝台もご用意いただきたいものですわね!」


 私の、どこまでもマイペースな宣言に、レオンハルト様は深いため息をつき、そしてフードの「主」は、心なしか楽しそうな気配を漂わせながら、静かに頷いたのだった。


 こうして、私の新たな、そしておそらくはさらに波乱に満ちた冒険(という名の受難)の幕が、再び切って落とされたのである。

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