第28話 光の中のうたた寝(と七色のゼリーの夢)
私の手が、緑色の淡い光を放つ黒い本に触れた瞬間――。
(やっと……やっと、本に……!)
――世界が、真っ白な光に包まれた。
「きゃーーーーっ! な、なんですのこれーーーーっ!?」
一瞬、目も開けられないほどの眩しさに悲鳴を上げた私だったが、意外なことに、その光は少しも熱くなく、むしろ……温かい?
まるで、春の陽だまりの中で、極上の羽毛布団にくるまれているような、なんとも言えない心地よさ。先ほどまでの疲労や恐怖が、嘘のように薄れていく。あら? なんだか、とっても眠くなってきましたわ……。
(……ふかふか……。ああ、このまま……お昼寝してしまいたい……。美味しい紅茶と、焼きたてのスコーンもあれば完璧……。あと、もちろん、面白い本も……)
私の意識は、抗いがたい眠気と心地よさの中で、ふわふわと漂い始める。うん、もう戦うのも逃げるのも疲れましたもの。ちょっとくらい、ここで休憩したってバチは当たらないはず……。
そんな私の耳に、どこか遠くから、優しく、そして少しだけ悪戯っぽいような声が聞こえてきたような気がした。
『……古き血の乙女よ……。ふふ……まさか、これほどまでに「器」が……面白い子だ……』
(あら? どなたかしら? わたくしのことを呼んで……? 器……? ……何の器かしら……。ああ、でも、そんなことより、今は……眠い……)
『恐れることはない……。今はまだ、ほんの少しだけ……ほんの少しだけ、汝の内に眠るものを……感じてみるだけで良い……。さあ、力を抜いて……受け入れなさい……』
その声は、まるで子守唄のようだ。私は、その声に導かれるように、心の奥底にあった最後の抵抗も、するりと手放してしまった。
そして、私の脳裏に、万華鏡のように、いくつもの断片的な映像が浮かんでは消えていく。
見たこともない、しかしどこか懐かしいような古代の石造りの街並み。夜空に輝く、今とは違う配置の星座。ローブを目深にかぶった人々が、何か厳粛な儀式を行っている光景。そして、何度も何度も現れる、あの獅子と蛇が絡み合った、複雑な紋章……。
(綺麗……。なんだか、とっても……壮大な歴史絵巻を、特等席で見ているみたい……。ふぁ……でも、やっぱり……眠い……)
そして、極めつけは!
目の前に現れた、虹のように七色に輝く、それはもう美しいゼリーの山! プルプルと揺れるその姿は、まさに至高のデザート!
(はっ! ゼリー! しかも七色! これは絶対に美味しいに違いありませんわ! あーん……)
私が、夢うつつの中で、その幻の七色ゼリーに手を伸ばそうとした、その時だった。
――現実世界――
「ミレイユ司書! 大丈夫ですか!? ミレイユ司書!」
レオンハルト様の、切羽詰まった声が洞窟に響く。彼の目の前では、ミレイユが祭壇の上の本に触れたまま、全身を淡い緑色の光に包まれ、まるで眠っているかのように穏やかな表情で立っている。しかし、その光は徐々に強さを増し、周囲の空間が僅かに歪んでいるようにも見える。
「ヴァレンティア隊長、これは一体どういうことです!? 彼女の身に何が起こっているのですか!」
「……静かにしていろ、騎士。何かが起ころうとしている。おそらく……本と彼女の魂が『同調』しようとしているのだ」
カイエン隊長は、冷静に、しかしその黒曜石の瞳の奥には鋭い緊張を宿らせて、ミレイユと本を凝視している。彼の右手は、いつでも抜き放てるように、腰の短剣に添えられていた。
「同調ですと!? それは、危険なことでは……!」
「かもしれん。だが、彼女の血がこの本を選び、本が彼女を選んだのだとしたら……我々が手出しできることではない。……今はただ、見守るしかない」
やがて、ミレイユを包んでいた緑色の光が、ふわり、と彼女の胸のあたり――左手の指輪がはめられている場所――へと吸い込まれるように収束していく。そして、光が完全に消え失せた時、ミレイユの体が、ふらり、と傾いだ。
「ミレイユ司書!」
レオンハルト様が慌てて駆け寄り、倒れそうになる彼女の体を支える。
祭壇の上の黒い本は、先ほどまでの怪しい光を失い、ただの古びた革装丁の本として、静かにそこにあった。しかし、その表紙の中央には、まるで鍵穴のように、ミレイユの左手にはめられた銀の指輪と同じ紋様の、小さな窪みが、確かに出来ていた。
「……ふわぁ……。あー、よく眠れましたわ……。なんだか、とっても美味しい夢を見ていたような……」
レオンハルト様の腕の中で、ミレイユがゆっくりと目を開ける。その瞳は、どこかぼんやりとしていて、まだ夢の中にいるかのようだ。
「あら? レオンハルト様? それに、カイエン隊長も……? ここはどこですの? わたくし、素敵な七色のゼリーの山を、まさに攻略しようとしていたところでしたのに……」
まだ状況が飲み込めていないミレイユの、あまりにも呑気な第一声。
カイエン隊長は、その言葉に、額に深々と青筋を浮かべた。
「……おい、女。お前、一体何を見てきた? 何か覚えていることはあるか?」
詰め寄るカイエン隊長。レオンハルト様は、「隊長、彼女はまだ混乱して……!」と庇おうとする。
ミレイユは、こてん、と首を傾げ、うーんと唸った。
「えっと……優しい声が……『古き血がどうとか~』とか、『力を受け入れなさい~』とか……。あと、綺麗な紋章がたくさん……。あ! そうですわ! とっても大事なことを思い出しました! あの七色のゼリー、一番上の赤いのは、きっとイチゴ味ですのよ! 絶対に美味しいに違いありませんわ!」
キラキラとした瞳で、ゼリーの素晴らしさを熱弁するミレイユ。
「…………使えんな、こいつは」
カイエン隊長の、心の底からの呟きが、洞窟に虚しく響いた。
その時だった!
ゴゴゴゴゴゴゴゴ…………ッ!!
洞窟全体が、まるで生き物のように、激しく揺れ始めた! 天井からは、バラバラと土砂が降り注ぎ、壁には大きな亀裂が走る!
「きゃーーーーっ! 今度は地震ですの!?」
「いや、この洞窟自体が崩れ始めている! 例の本が、役目を終えたか、あるいは持ち主を得たことで、この空間の維持が不可能になったか……! 急いで脱出するぞ!」
カイエン隊長の鋭い叫び! 三人は、再び、命がけの脱出劇を繰り広げる羽目になったのである!
「もう! やっと本が手に入ったと思ったのに、ゆっくり読む暇もないなんて! これじゃあ、何のためにここまで来たのか、さっぱり分かりませんわぁぁぁぁ!」
ミレイユの悲痛な叫びは、崩れゆく地下洞窟に、虚しく、そしてどこかコミカルに響き渡るのであった!
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