第20話 追いつく者

霧のような薄明かりの中を、ルークとアイリスは静かに進んでいた。名を持ったその朝から、ルークの表情には確かな変化があった。表情が増え、足取りが軽くなり、言葉が自然と増えてきている。


「……お姉ちゃん。前に進もう。何か、胸の奥で急がなきゃって、そう感じるんだ」


「うん。きっと、何かが私たちを待ってる」


二人の前に続く森の道は、以前よりもはっきりとした道筋を描いていた。まるで森そのものが彼らを歓迎しているようだった。


けれど、森の静けさを破るように、突如として木々のざわめきが変わった。


「足音……!」


アイリスが身を翻す。森の奥から複数の気配。重い金属の鳴る音が、かすかに木立の間から響いてくる。


追手――。


「ルーク、走るよ!」


「うんっ!」


二人は駆け出した。木々の間を縫うようにして、足音を残さず森の奥へと逃げる。


だが、追手の足は速かった。騎士団の訓練を受けた兵たちだ。重装備にもかかわらず、その動きに無駄はない。


木々を裂くように、兵たちの声が響く。


「見つけたぞ! 竜と……あの娘だ!」


「……くっ!」


アイリスは唇を噛みしめた。彼らは諦めていない。あの夜、ルークが人の姿に戻ってからも、王国は竜の行方を追い続けていたのだ。


「アイリス……ぼく、もう逃げたくない」


息を切らしながら、ルークが言った。


「でも、ルーク……」


「ぼく、守りたい。お姉ちゃんが、ぼくの名前をくれて、また一緒にいてくれるって、言ってくれたから……だから、逃げてばっかりは嫌なんだ」


アイリスは驚いた。ほんの数日前まで、自分の名前さえ知らなかったルークが、ここまで強い意志を持っているとは。


その瞬間、後ろの茂みから鋭い矢が飛んできた。反射的にアイリスはルークを抱きかかえ、横に転がる。


「くっ……!」


矢は木の幹に深々と突き刺さり、ルークの頬をかすめた。


「離れるなよ、ルーク!」


「うん……!」


アイリスは周囲を見渡し、逃げ道を探した。そこへ、小さな光が差した。


森の奥、古い石の鳥居のようなアーチが見えた。そこには、淡く輝く紋章が浮かんでいた。


「結界……? あそこまで行けば……!」


アイリスはルークの手を取り、全力で駆け出した。背後から追手の声と矢の音が迫る。


「ルーク、あと少し! がんばって!」


「うん……!」


走る。走る。

風が頬を打つ。木々の隙間から差す光が、まるで導いてくれるように道を照らす。


結界の前にたどり着いたその瞬間、ルークの胸が輝いた。


ルークの掌から、淡い青の光が生まれた。それは結界の紋章に呼応するように揺れ、鍵のように形を変える。


「……精霊の印……?」


結界が、静かに開かれた。


アイリスはルークを抱えるようにして門をくぐる。直後、後方から追手のひとりが踏み込んできたが、見えない力が彼を押し返し、結界の向こうへと吹き飛ばした。


「閉じた……」


「アイリス、お姉ちゃん……ここ、安全?」


「わからない。でも、少なくとも、今は大丈夫。ありがとう、ルーク。あんたがいなかったら、きっとこの門は開かなかった」


ルークは静かにうなずいた。


――小さな背に宿った力。その正体はまだわからない。けれど、確かに二人を導く“何か”があった。


目の前には、広がる草原と、ひときわ大きな一本の精霊樹がそびえていた。


「……着いたみたい。精霊の泉へ」

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